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ヨハネの手紙第一2章5節ー6節

「神の愛が実現する」
今日も私たちは聖書を開いてみ言葉の前に立たされています。クリスチャンとは何よりも神の言葉である聖書に聞こうとする人なのです。神の言葉を守り、その言葉に従うのです。み言葉抜きにどうして信仰生活ができるでしょうか。み言葉に従うとはヨハネに言わせれば互いに愛し合う掟に生きることです。私たちの生活とはなんの規範もないものではありません。み言葉自体が私たちの道しるべとなり、目標になり、座標軸となって導くのです。

そうは言うものの、自らの生活を振り返るほど、わたしにはとてものこと無理ですとがっかりしてしまうこともしばしばではないでしょうか。しかし、主なる神は命令だけ与えて何の約束もされない方ではありません。神の愛が実現するとある通りです。一度心に注がれた神の愛は実現を目指してどこまでも動き出すのです。途中で止まったりはしない。注がれた神の愛が原動力となり、私たちの考えも行動も変えていくのだと約束されているのです。

そのようにして私たちが変えられていくことで、一体何がわかると言うのでしょうか。私たちが神の内にいることがわかると証言されているのです。異端の人たちも自分は神を知っていると言うことでしょう。特別な霊的体験を受けたとも言うでしょう。しかし神を知るとは単に知識の詰込みでもありませんし、体験でもないのです。それは神の言葉に従っているかどうかによって、はかられないといけないことだからです。

もっと言うと神のうちにいるとは、具体的には教会生活の中に留まることを指しているのです。なぜなら、神の言葉が響いているのは教会においてだからです。礼拝に集う名前も顔もあるひとりひとりの間で互いに愛し合う掟が守られていかないと意味がないからです。従って、人間関係の煩わしさを避けるように、どこの教会にも属することなく、み言葉を守り、互いに愛し合うことなどできる話ではないのです。

それだけではありません。神のうちにとどまり、教会に留まる人は、主イエスが歩まれたように歩む必要があるというのです。何故なのでしょう。主イエスほど神を知っておられた方は他にはおられないからです。主イエスほど神を愛して、極みまで神に従われた人はほかにおられないからです。歩むとは日々生きることです。具体的な生活の営みです。神の愛はそこに注がれています。主イエスのような姿に変えられる約束を信じようではありませんか。

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