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使徒言行録2章37節ー47節

「主のいのち溢れる教会」
どうしたらいいですか。これがペテロの説教を聞いた人々の反応でした。説教は聞きっぱなしで終わりません。聞く者の心に自分は何をしたらいいのだろうかという衝動を起こし行動へと至らせます。神へと向きを変えるなら、洗礼を受けた者として罪赦される。それどころか聖霊の賜物が与えられて、福音のために用いられる。これがペテロの確信でした。なぜなら彼自身も復活の主に赦された者として説教に立っているので実証済みなのです。

人々は、ペテロと使徒たちを兄弟たちと呼ぶほどに仲間意識に目覚めています。単にイスラエル同胞という理解を越えています。ペテロの説教が自分にも関係あることとして迫ったのでしょう。しかもこの救いの約束は、聞いた者だけにとどまりません。その子どもを含む子々孫々まで、遠く民族を異にする異邦人に至るまで時間と空間を越えて広がるというのです。救いを個人の問題としてだけ捕らえるでは狭すぎるのです。

実際、ペテロは当時の社会の仕組みにまで鋭いメスを入れるではありませんか。彼の目には邪悪なこの時代が映ります。ローマ帝国の暴力主義や、腐敗した権力による抑圧。今でも同じです。間違った価値観に背を向け、社会を変えていくのが福音です。その前線として教会は立っています。使徒たちの教えである説教、交わり、聖餐の原型であるパン裂き、祈りの継続によって、曲がったこの社会の仕組みに挑戦していくのです。

教会でなされていた活動には共通点があります。同じ説教を聞くのです。敵対していた者どうしでさえ同じ交わりの席に着くのです。同じひとつのパンからキリストのからだに預かるのです。同じ祈りに立つのです。つまり教会とは、決して個々人のバラバラの存在などではありません。同じキリストのいのちがひとりひとりの中にとどまり、溢れみなぎっているところなのです。世界を治めるキリストのいのちは教会からあふれ出すのです。

復活の主のいのちが働いているわけですから、不思議なわざとしるしが起こっても当然でしょう。それを見聞きした人々に恐れと好意の相反する気持ちを持つのも無理はありません。加わりたいが加わりにくく遠巻きに眺めていたと言ったところでしょう。いずれにせよ、持ち物をわけあうほど親切な信仰者の生活態度にあかしの面があって、注目と関心が注がれていたことは間違いないのです。

そういう教会に主が仲間を加え続けて下さいました。信徒が一生懸命熱を入れているから、主も協力してあげようと思ったのではありません。主の方で着々と主導権をもって念入りに準備をしておられたのです。今も同じです。教会の伸び方も進み方も治めるのは主であって私たちの熱意ではない。私たちはなすべきことを淡々となせばいい。したことは主にお任せしたらいい。そうすれば主のみわざを思わぬ形で驚き仰ぎ見る日が来ることでしょう。

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