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第二ペテロ3章13節ー14節

「傷も汚れもないキリスト」
社会は多くの約束によって成り立っています。法律もそうです。ルールもそうでしょう。もっとも、そうは言ってみても人間の約束ならば残念ながら破られてしまうこともあります。しかし、真実なる神の言葉の約束は決してそういうものではありません。必ず実現するわけです。従って、私たち信仰者には神の約束の実現を待ち望み続ける姿勢が求められるわけです。では何が実現すると言うのでしょうか。義の宿る新しい天と地が訪れるとあるのです。

ここで、しかしという言葉で比べられているのは古い世界なのです。古い世界を支配するありとあらゆる要素はいつか燃え尽き、溶け去っていくと言うのです。それは怖ろしい話として提示されてはいません。むしろ希望なのです。神の正義が貫かれ、悪が悪として審判を受け、正しいことが正しいこととして評価される時が必ずやってきます。大きな希望が与えられているなら、たいていの辛いことは忍耐することができるのではないでしょうか。

ペテロ自身も忍耐をしながら愛する者よと呼びかけるのです。傷や汚れが何一つない状態でと聞くと、自信を失うかもしれません。自分のうちにある汚れや傷を意識するからです。しかし、ここで言われるのは、傷や汚れが何一つない主イエスが十字架に捧げられた恵みの確かさなのです。決して傷や汚れのないように私たちが努力せよと言うのではありません。主イエスの救いの恵みの中にどこまでもとどまり続けるようにというお勧めなのです。

だからと言って、誤解しないようにしましょう。その恵みに甘んじていればいいなどと勧められているわけではありません。救われたのだから何をしても自由なのでしょうという発想は間違った開き直りの考えなのです。ここでは、むしろ励めと言われていることからもはっきりとわかるのです。即ち、神に認めて頂けるように一層、自分の生活自体を神に捧げ続ける意志が求められているわけです。救いは生活を変化させていくものなのですから。

待ち望むと言うのはそういう生活ではないでしょうか。待っている間に余計なものがそがれてゆくのです。不必要なものが取り除かれていくのです。待っている間に整えられ、美しくされていく。信仰生活とはそういう生活なのです。そこにあるのはおそれや不安などではありません。むしろ平安なのです。おそれを引き起こす言説に振り回されてはなりません。主を仰げば仰ぐほど私たちのうちには平安が増し加えられていくのですから。

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