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テモテへの手紙第一3章8節ー13節

「豊かな礼拝をお捧げする」
監督の条件について論じてきたパウロは引き続いて奉仕者の条件について述べるのです。牧師であれ、奉仕者であれ、すべての奉仕は教会のいのちである礼拝を整えるために存在しているのです。具体的な奉仕内容について特に記されていないのは、奉仕の種類は多岐に渡る上に、家の教会の状況がそれぞれ異なるからだろうと思われます。いずれにせよ、それぞれが与えられている賜物を生かすなら豊かな礼拝をお捧げ出来るようになるのです。

奉仕者の奉仕はみ言葉を語る以外のあらゆる働きを含みます。しかし、いくら賜物が豊かであろうと、それだけでは奉仕者としては十分ではないと指摘されます。評判のいい人である必要があります。あちこちに顔色を伺い、いい顔をする人でも困るのです。また家庭を訪問する機会も多いので、出された酒に溺れることも戒められます。更には教会の財産管理をするにあたり、金銭に執着心があっても差しさわりがあることは言うまでもありません。

もっとも、これらの条件は信仰理解と福音理解が確かでさえあるならクリアできるはずなのです。なぜなら信仰理解があやふやである時に、行動までもあやふやになってしまうからです。福音に照らされて、良心に恥じない生活をしているかどうかが奉仕者の鍵なのです。思いつきで自分のやりたいことを行き当たりばったりにやると言うのではないのです。自分が担う奉仕が、礼拝にとってどういう意味があるかを把握できているかどうかなのです。

私たちは人の才能や賜物についつい目を注いでしまいがちです。あの人は賜物豊かだから奉仕者として間に合うだろうと考えてしまうのです。しかし、そうではありません。いかに賜物が豊かに与えられていようと、仕える気持ちのない人には礼拝の奉仕は務まらないのです。だから念には念をいれる慎重さで、奉仕者には審査を受けさせるようにとパウロは命じています。それほど真剣に礼拝を考えているあらわれだと申し上げてもいいでしょう。

さらにいうと奉仕者は男性に限りません。もちろん女性も礼拝で奉仕できるのです。ただし、悪口を言うような人に大切な奉仕はつとまりません。ここでは悪魔と同じ言葉が使われているのです。悪魔の仕事は人を責め、非難することだからです。礼拝を人間関係が引き裂かれる場にしていいはずがないのです。人は感情的になって過ちを犯す例も多いですから、自分を制することも求められています。むしろ人を建て上げる言葉が求められるのです。

しかし女性にせよ男性にせよもっとも問われているのは忠実であることではないでしょうか。いくら賜物豊かな人であったとしても不忠実であるなら、その賜物は十分に発揮できないでしょう。しかし、自分には大したとりえがありませんと思う場合でも、ただ忠実であるなら、それだけで神に用いられ、礼拝が豊かにされていくことも起こるでしょう。賜物を生かすには、神と兄弟姉妹への愛がどれくらいあるかにかかっているわけです。

感謝なことに奉仕への報いが約束されているのです。良い地歩を占めると言っても別に昇進のような教会内の地位の上昇を目指しているのではありません。奉仕の報いとは強い確信なのです。信仰がますます豊かにされていくことが起こるのです。教会のために苦労し、損をするなど馬鹿らしいと言ってはいけません。背負ってみましょう。背負った者だけがわかる恵みと祝福の1年がそこにはあります。感謝のうちに1年を締めくくりましょう。

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