小説「赤い記憶」
蝉の鳴き声がけたたましい。南の空高く昇った太陽からは、じりじりと日差しが照りつけている。数日前から息子の真吾が家族を連れて帰省している。コロナもあり、真吾の帰省はしばらくぶりだ。
6歳になった孫の翔太は庭を裸足で走り回っている。しばらく会わないうちにすっかり大きくなってしまった。
秀夫は縁側に腰をかけ、グラスの麦茶で喉を潤しながら、隣の真吾に尋ねた。
「前に来た時はまだ歩いてなかったんじゃないか?」
真吾は呆れたように笑って言った。
「いつの話をしてるんだよ。前に来た時は3歳だったから、さすがにもう歩いてたよ。親父も耄碌か?」
70を過ぎ、体はまだ動けるつもりでいるが、確かに記憶はあやしくなってきた。ただ、昨日食べたご飯は思い出せなくても、昔のことは鮮明に思い出せたりするのが不思議だ。
「ところでお前はいくつになったんだ?」
「今年40になったよ。どんどん歳をとるなあ」
秀夫は自分が40代の頃はどうしていただろうと思った。家が貧しかったため、高卒で地元企業に就職し、現場で体を動かして働いた。高度経済成長の波に乗り、会社はみるみると成長した。30代になると営業に抜擢され、得意先を増やすことに奔走した。朗らかな人柄が気に入られ、当初は営業成績を伸ばした。しかし、得意先が広がり、専門性が必要になってくると、人柄だけでは通用しなくなっていった。それでも年功序列が当たり前だったので、40代に入ると課長に昇進し、数名の部下を束ねるようになった。中間管理職というのは上からは成績を求められるが、下は思うような働きをしてくれない。そのくせ、大卒で入ってくる若い社員に専門知識では敵わないのが余計に歯がゆかった。
ある日、部下のミスで得意先からクレームを受け、秀夫は部長にひどく叱責された。「俺のせいではないのに」という思いで秀夫は煮え切らなかった。残業を終えて家に帰ると、中学生の真吾はテレビに夢中で、秀夫の方に顔も向けずに「おかえり」と言った。妻の真由美は台所の片づけをしている。秀夫はかばんを置き、ネクタイをゆるめて食卓の前で腰を下ろした。ふう、と大きく息をつく。まだ部長の怒声が耳に残っている。胸が焼ける痛みを感じ、奥歯を噛んだ。バラエティ番組の笑い声が耳に障る。
真由美が言った。
「真吾、成績が下がってきてるって言ったじゃない?こないだのテストはついに赤点だったんだって」
「赤点って、塾にも通わせてるじゃないか。勉強してるのか?」
秀夫は立ち上がると居間へ早足で歩いた。真吾はソファに体をうずめてゲラゲラと笑っている。秀夫は、後ろから手を伸ばしてテレビのリモコンを取り、赤色の電源ボタンを押した。バチンと音がしてテレビが消える。真吾は振り返り、
「何で消すんだよー?」
とふくれっ顔をした。
その顔を見た瞬間、秀夫の頭の中でもう一度バチンと音が鳴った。と思うと、右手は真吾の左頬を強く叩いていた。真吾はのけぞり、目を丸くして怯えた顔をしている。その赤く染まった頬をもう一度叩いた。
「何のために塾に通わせてると思ってるんだ!テレビなんか観てる場合なのか!」
秀夫の手は止まらなかった。さらに頭を叩いた。
何をやっているんだ。ダメだ。
「しっかり勉強して大学に行かないと、社会では通用しないと言っているだろ!」
ソファの前に回り、頭を抱えている真吾の後ろから尻を蹴った。
「痛い!」
真吾の泣き声を聞いて、真由美が慌てて走ってくる。
「あなた!やめて!」
真由美に後ろから体を掴まれて、ようやく秀夫は我に返った。体はまだワナワナと震える。息がハーハーと上がった。真由美の手を振りほどくと、秀夫は部屋を出て2階の自室へ向かった。階段を踏みつける音が自分の耳に響く。ドアを開けベッドに倒れ込む。頭はまだ混乱している。しばらくして息が落ち着くと、吐き気がこみ上げてきた。
翔太は、敷地の脇を流れる水路で水遊びを始めた。真吾の妻も一緒になってはしゃいでいる。
「おいおい、大丈夫か?怪我でもしたらどうするんだ」
秀夫が心配そうな声を出すと、真吾は笑って言った。
「大丈夫だよ。いま通っている野外保育ではいつもあんななんだ。子供はたんこぶ作るくらいがちょうどいいんだよ」
たんこぶと聞いて、秀夫は真吾の赤く腫れ上がった頬を思い出した。その後、1週間はあざが残り、秀夫は真吾の顔をまともに見ることができなかった。
真吾は続けた。
「こないだは保育園のみんなで田植えをしたんだ。大人も子供も泥んこになってさ、楽しかったなあ」
泥んこになって、か。俺はそれが嫌で仕方なかったのに。
秀夫が子供の頃は、子供も一人前に労働力として扱われた。秀夫の父は厳しく、田植えや稲刈りはもちろん、普段の百姓仕事も手伝わせた。秀夫が言いつけられたことをやらないと、父は怒って平手打ちにした。秀夫がサラリーマンになったのは、貧しい百姓生活を抜け出したいという動機が強かった。
「仕事の方はどうなんだ?」
「仕事は今はぼちぼちかな。一生懸命やったって、どうせ会社は守ってくれないんだし」
秀夫は、真吾が小学生の頃から、「こんな何もない田舎は出て都会へ行け」、「勉強して大学に入って大企業に勤めろ」と口を酸っぱくして言った。子供に貧しい思いだけはさせたくないと思った。大した給料ではなかったが、教育にはお金をかけた。どうにか大学にも出した。
真吾は、東京の大学を卒業後に大手銀行に職を得た。会社のために身を粉にして働いたが、リーマンショック後に経営が傾き、早期希望退職に応じて辞めた。その後は小さな会社に入ったと聞いている。マイホームを持ちたいとは思わず、賃貸の方が気楽でいいらしい。車は必要な時だけレンタカーを借りればいいという考えのようだ。
真吾は立ち上がり、
「よし、俺も一緒に遊んでくるかな。おーい、しょうたー!お父さんも混ぜてくれー!」
大きな声で叫ぶと、子供と妻の元へ走っていった。3人は水のかけ合いっこをして、キャーキャーとはしゃぐ声が響いてくる。
秀夫の時代は、お金を稼ぎ、物を買い、暮らしを豊かにすることが家族の幸せだと信じて疑わなかった。社会も戦後復興を成し遂げ、急速に発展した。
俺は家族とあんな時間を持ったことがあっただろうか。
真由美が三角に切ったスイカをお盆に乗せて運んできた。
「スイカ切ったわよー!」
遊んでいる3人に大きな声で呼びかけた。
それを見て、秀夫らまた子供時代に引き戻された。
秀夫の父はスイカを好んだ。毎年、畑で大きなスイカを育てた。秀夫も、少しずつ実が大きくなっていくのを楽しみに眺めた。父は田んぼから帰ると、真っ先に裏の畑に行き、スイカを観察した。ひっくり返して、拳で叩いて熟れ時を確かめる。父が、もう食べられる、と判断すると、次の日はいつもより早く帰ってきた。秀夫も学校から駆けて帰った。父が包丁で半分に切ると、真っ赤な果肉が現れた。切り口から果汁が滴る。父は豪快に大きく切り分けた。
「どうだ?うまいか?」
いつもは厳しい父が、この時ばかりは顔を崩して笑った。
真吾と妻と翔太が、笑いながら歩いてくる。秀夫には、翔太の顔が真吾の幼い頃に重なって見えた。
「翔太、おいで!」
秀夫は、翔太を自分の膝に乗せ、小さいのを1つ取って手渡した。
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