短編小説:図書室の光
いけない事だと分かっていても、この背徳感に逆らう「快感」は筆舌し難いほどだ。
「声を出しちゃだめよ」
私の視界は真っ暗だ。その暗闇の中、耳元で甘く囁く声。私よりも年上で、落ち着いた声色。微かに聞こえる吐息、服の上から感じる手のぬくもり。
私と、名も知らぬ「あの人」は、いつもこうして毎週木曜日の図書室で逢引をしていた。
木曜日を担当している図書委員はかなり杜撰な子で、いつも当番をしていない。それに木曜日は、文化系クラブの定休日みたいなもので、ほとんど利用されていない。
誰も居ないプライベートルーム。
私は、ここで本を読むのが好きだった。誰にも邪魔されず、干渉されず。知識の宝庫の真っただ中で、好きなだけ本を読み漁る。
突然の出来事だった。図書室の隅。本棚の間に挟まれるようにして椅子に座った私は、いつも通り本を読んでいた。
不意に、視界が塞がれた。両目に感じる手の感触。驚いた私が声を上げるより早く、耳元にあの人の声が聞こえた。
「本が好きなのね」
私は身体中が麻痺したかのように、あの人の声だけで惚れてしまった。
「『百合は、自身の裸体に這う、彼女の舌の動きに合わせて嬌声を上げた』」
あの人は、私が読んでいる本の一文を朗読した。私は急いで本を閉じようとするが、左耳に少しだけ痛みが走る。
歯の感触。甘噛みの分類に入るそれは、私が本を閉じようとする動作を止めるのに充分だった。
「私、ずっと見てたよ。貴方がこの図書室で人目を忍びながら、こんな本を読みふけっていたこと」
両手で塞がれた視界。何も見えない暗闇の中で、私は文章の中でしか見たことがない「快感」に体を震わせた。
「今日は、お終い。また来週、お会いましょう」
すぅと目を覆っていた暗闇が立ち退き、少しだけの明かりを保っている、見慣れた図書室の風景が現われた。背後から聞こえる足音。私は振り返ろうとするが、自制した。
「ねぇ。いつもこんな本を読んでいるの」
暗闇の中、あの人は私に質問を投げかける。私が持っている本は、女性同士の恋愛を描いた小説だ。
「異性が苦手なんです。でも、恋愛がしたい。誰かと一緒にプライベートな一日を過ごしたい」
「暗闇の中で迷っているのね」
「でも、私に光を照らしてくれました」
あの人は、私が言いたいことを分かってくれている。
「貴方は私のモノよ」
首に、生暖かい舌の感触が這った。あの人は私が欲しがっているものを与えてくれる。こうやって毎週、私たちは愛し合うことでアイデンティティを保っていた。
「でも、卒業なんですよね」
あの人から、何も返事は来ない。
夢から覚めなければいけなかった。時は無情にも過ぎて行く。
桜の花びらが舞う季節。
遠くから聞こえていく校歌。先輩方を見送る私は卒業式に出席せず、いつもの席であの人を待っていた。
「待たせたね」
後ろから声が聞こえる。
「卒業式休むなんて、だめじゃないですか」
私は目を閉じたまま、軽く笑う。それに釣られたのか、あの人も笑った。
「貴方だって、ちゃんと先輩たちをお見送りしなきゃだめなのにね」
後ろから、あの人は私に抱きつく。首に垂れかかかるあの人の髪。背中に感じる胸の感触、心臓の鼓動。
「暗闇の中で迷うのも、今日でお終い」
私たちは両手を強く握りしめる。指の隙間からあの人の指が絡まり、決して離れまいと私は強く握る。
「目を開けて」
ゆっくりと私は目を開ける。見慣れた光景。隙間なく詰められた本棚。背中越しに感じる、あの人。
「私を見て」
後ろを振り返る。
肩まで伸びたセミロングヘヤ。切れ長の瞳に、少し似合わない陰鬱とした目。綺麗に整った輪郭。私が思い描いていたあの人そのものだった。
「貴方は独りじゃないわ。私が、ずっと照らしてあげる」
私は強く、強くあの人を抱きしめる。窓の外から、蛍の光が聞こえてきた。
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