靴下のあな
靴下を履いたらあなが空いていた
小さいけど間違いなく、つま先部分にあなが空いていた。僕の指は親指を先頭にかなり尖った形にそろっている。多くの人がつま先からあなが空くような気がするので、指の形もみんな大体同じなのだろうか。
靴屋に並んでいる靴を見ると、いつもつま先に目がいってしまう。自分の指の形を思い浮かべると、どれも身体に合っていないと思えてくるからだ。自分の指と同じ具合に尖った靴なんて、売っているのを見たことがない。やっぱり人よりも親指が長いのかもしれない。
親指は普段かなり窮屈な思いをしているはずだ。ひょっとしてそんなストレスが「あな」として、現れてきたのだろうか。
いつ、あなが空いたのだろう
前回履いたときには、あなは空いてなかったと思う。社会人になってから、あなの空いた靴下は捨てるようにしているからだ。
靴下を溜め込みすぎたことに気がついたある日。足は二本しかないし1週間は7日しかない。と、よくわからない理由を思いついて、あなの空いているものと、つま先の薄くなっているものは全部捨てた。ずいぶん気分がスッキリしたことを覚えている。
それ以来もったいないと思いながらも、あなの空いた靴下を捨て続けている。気に入った靴下にはそうそう出会えないけれど、開き直って一期一会を楽しもうと決めた。安上がりに購買意欲を満足させられるのもいい点だと思う。なんだか負け惜しみのように聞こえる。
で、いつあなが空いたのだろう
靴下は人知れず、そして少しずづ靴の中で擦り切れていく。あるとき洗濯機の中で水流に引っ張られ、ちいさく繊維がちぎれる。最初は穴とは呼べないものの、洗濯を繰り返すうちに繊維のちぎれはひどくなっていく。しばらくは遠目ではわからないが、ちょっとしたきっかけで目に留まる。
気が付く前から「あなは空いていた」そう考えるのが合理的だ。もちろん本当にほんとうのところはわからない。
洗濯かごの中で穴が空いたのかもしれない
誰かがこっそり穴を開けたのかもしれない。しかしそれでは動機がわからない。いっそ謎の人物が靴下を履いたのだと考えてみる。なんらかの事態に窮してやむなく、洗濯かごから靴下を拝借していたのかもしれない。
ばかばかしい。
靴下のつまさきを囲んで小人が会議しているのを想像してみる。どうだろうこの靴下はそろそろ寿命なのではないか?この事態を引き起こした責任は誰にあるのかね?話し合いは続く。もうちょとがんばれるさ、と靴下本人が反論するかもしれない。
さいごには
とくに何の結論もないまま洗濯の時がやってくる。自分はもう十分頑張ったと、靴下は覚悟を決める。さんざん振り回された挙げ句、ぬれそぼった身体を干される。傷ついた自分の無力さにぐったりとうなだれる。僕に気付かれるのは時間の問題だ。
そんなこんなで今朝、僕はその靴下を履くことになったのかもしれない。
こうしてくだらない想像を書いてみても、何かが起こるわけでもない。けれど、今日は休日なので1日この靴下を履いていようと思う。
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