ハンデを持つこと
ある日突然、耳に水が入ったような感覚とともに低音が聞こえづらくなった。
本当にある日突然。
それまでの私は病気とは無縁に生きており、いつしかそれが当たり前のようになっていた。
何度か繰り返しはしたが、幸い今はほぼ元通りに回復した。
ちょっと疲れがたまっただけかな?という安易なものではなく、
繰り返すうちに聴力が戻りにくくなる場合もあると、医師に言われたショックはとてつもなく大きかった。
長女は超軽度の脳性麻痺で足のバランス感覚にハンデを持つ。
次女は先天性心疾患と他もろもろ。
子供たちは日常的には普通に過ごすことができ、そして一見健常児にしか見えないが、親としては”福祉“の世界と急に近くなり、
健常児の世界とハンデを持つ世界の間にふわふわいるような感覚だ。
ああ、私もひとつハンデを持つことになるのだろうか。
子供たちのことが分かったときも絶望を感じたが、時間とともに受け入れることができ、
少しはハンデを身近なものとして思えていたはずなのに・・・。
仕事は?
難聴になったら車は?
子育ては?
どうしよう。
色々とこれからという時に。
「不安」で頭がいっぱいになった。
生きているこの社会はあまりにも、健常者のカタマリで作られ、ハンデを抱えても健常者のごとく振舞わらなければ、
やっていけないというような・・・
長女にぽろっとこぼしてしまった。
「お母さん、耳が聞こえにくいの。このまま聞こえなくなったらどうしよう。」
すると長女は笑顔でこう言った。
「だったら手話教えてあげる。ありがとうはこうよ。」
生まれながらにしてハンデを持ち、福祉に触れる機会が多い彼女にとっては健常者もハンデも同じなのだ。
白と黒が濃淡のグレーでつながっているように。
友達と比べて自分の”違い“もまだよく分かっていない長女の中では、
なんてことはないようだった。
別に何かできないからと言って、それにかわる強いもので乗り越えなければならないというわけではない。
「できないこと」や「苦手なこと」を伝え、そしてそれを周囲が受入れ、補ってくれたらそれでいいのかもしれない。
健常者のようにふるまわなければ、健常者の世界で生きづらいことが、ハンデを持つことへの恐怖なのかもしれない。
健常者とハンデのある人がいつか “分けない社会”で共存できたら、と思う。
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