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誰かの期待に応えるということ。2022.6.10㈮ #4

 『誰かの期待に応えることが難しい』と、長年思い込み続けてしまっていたことに、つい先日気がついた。
 それは、私が約三十年間生きてきた中で、周囲にいた人達の期待にまともに答えられたことが殆どないことが、一番の要因だと思う。

 つい先日まで自身が置かれていた状況を端的に言ってしまえば、ただただ『臆病になっていた』のである。

 ここ数年は尚更、人から期待をされることを避け続けてきた節がある。
 そりゃあ、人の期待に応えられない体験ばかりが三十年も積み重なっていたのだから、臆病になってしまって当然といえば当然であるが。

 私にとって、『期待される』ということはプレッシャーなのだ。
 誰かの『期待』を満たすことが、自分の人生中に課せられた『新たなミッション』であるかのように、素直に受け入れすぎてしまうのだ。

 期待=重たいもの
 として私の脳はいつも受け取ってしまう。 
 話半分として軽く聞き流せばよいのだろうが、中々できないことが多い。

 なので

 「がんばれ」とストレートに言われたら、「頑張りすぎないように頑張ります」と少し濁してしまう。
 「佐藤には期待してるんだぞ」と真剣に言われると、「嬉しいですけど応えられなかった時に凹むんで、今自分に出来ることをただやるだけです」と答えるのが、今でも癖として残っている。
 誰かから期待されることをいつも必死に回避しようとしている。
 つい先日、職場で上司に期待をされた時に、同様に返してしまった。
 この時に、自分のこの癖をハッキリと自覚した。


 上司には誠に申し訳ないのだが、残念ながら「上司の期待に応えたい」という感情のゴールは、私が自分で一から目標設定できないことが殆どなのである。
 これを鵜呑みにして、素直に期待に答えようとした場合、「このゴールは自分の意志とは別でいつの間にか勝手につくられてしまったな」と、まるで自分は被害者であるかのように錯覚してしまうことがあるのだ。
 この『期待の受け取り方』は、私としても本意ではない。こんな受け取り方は嫌である。だから、被害者面をしてしまうことを回避するために、いつも先回りするように期待を回避し続けているのだ。

 きっと、自分が重たく受け取ってしまっているだけで、相手側からするとまったく重たく考えず、気軽で、容易に、よかれと思って、私に期待してくれていることが殆どなのだと思う。

 しかし、時に人は、誰かに必要のないゴールを無意識の内に与えてしまうことがある。親から子への過度な期待などというのは、特に無意識で我が子に与えてしまいがちな期待の例だと思う。

 期待通りに気持ち少しだけでも動いてくれなければ「見損ってしまうよ」なんて絶対に欲しくないオマケを同梱させて、誰かから無責任なプレゼントをされてしまったこともある。

 私はこれまでに数えきれないほどの人達に世話になってきた。
 両親、姉達、祖父母をはじめ、親戚、先生、幼馴染み、友人、相方、相方のおばあちゃん、相方のお父さんお母さん妹、ゲイバーのママ、オーナー、同僚、お客さんなど、数え出すときりがない。

 時間を掛けて過去の記憶を遡れば、数百人単位は余裕で浮かぶし、事の詳細を羅列していくことも頑張ればできると思う。
 しかし、散々お世話になってきたのに、その数百人ほぼ全員の期待に全く応えられていなかったと思う。だからあまり思い出したくないこともたくさんある。

 いつも期待から逃げてきた。
 ある時はお世話になっている人に逆らったりもした。
 ある時はお世話になっている人の目の前で泣いてしまい、「もう勘弁してください」と限界を告げた。
 「自分にはできません」と、お世話になっている人に堂々と宣言したこともある。

 私は『自分は誰の期待にも応えられない人間です』と、いつも誰かに必死に伝えようとして、三十年間近くを、皮肉にも『頑張り続けて』しまったようだ。

 過去、私に期待してくれていた人達。
 彼らは誰一人として、今の私の近くにはもう居ない。
 私が自ら離れて行ったこともあれば、相手の方から離れて行ってくれたこともある。

 私の目標は、彼らの目標とは全く違うものだったのだろう。
 だから別々の道にいるのだと思う。
 もちろん、目標が違うだけではない。
 きっと、私自身も、私に期待してくれている人達に、知らず知らずの間に『何かを期待』してしまっていたのだと思う。

 「優しくしてほしい」とか
 「仲良くして欲しい」とか
 「冷たくしないで欲しい」とか
 「期待しないで欲しい」とか
 様々な感情の矛先を、お世話になっている相手に向けて無意識のうちにぶつけ続けた。

 相手からすると、私はいつまで経っても言うことを聞いてくれない『不都合な人間』だったと思う。
 彼らはそう悟った。決めつけて、離れて行ったのだ。私はそう思う。
 しかし、彼らのその直感は決して見当違いではないと思う。

 むしろ見当違いだったのは、私の方かもしれない。
 相手の気持ちを意図的に裏切ってまで、自分が本当にやりたいことをいつも優先して行って生きてきたのだから。

 言葉は届いているとしても、心には全く響いていない。
 私が、正にそれだった。

 そんな事にようやく気がついた現在の私。
 今の私は少しは変わったのだろうか。

 人の期待に応えようと頑張るのは、正直まだ怖いと思ってしまう部分がある。
 期待に応えられなかった時の事をやたら具体的に考えてしまう。

 でも見てごらん。
 今の私に期待してくれている人は、全くいない。
 いや、本当は陰ながらに居るのかもしれない。
 妻や友人などは、密かに私のことを期待してくれていると、正直思う。
 妻や友人たちは、実は私の性格に合わせてくれていて、『本当は私に期待している』ことを、なるべく表に出さないように配慮してくれているのだと思う。
 だからだろう。ここ数年は気楽な時間が多い。
 これは、自らで掴み取った『居場所』なのだと思う。
 周りの人の協力があって、初めて保たれている。
 現在の『私の居場所』。

 自分の居場所があることに、今更気がついた私。
 少しだけ勇気が湧いてきた。
 この『私の居場所』を「少しずつ変化させていきたい」と、そう思った。

 変化させるためのまず第一歩。それは、

「誰かの期待に、自分なりのやり方で無理なく答えること」
 なのではないかと、今の私は結論した。

 「誰かの期待に応えられる喜びも感じたい」
 これが今の私にできる、自分なりの『小さな第一歩』である。
 まだ踏み出せてはいない。
 これから、踏み出すのだ。

 やたらと期待をしてくれる人間と一緒に居すぎることは、危険と隣り合わせなことを知った今。
 互いにフラットな感情で、全然期待も尊敬もしていない人同士の関係の方が、案外気楽に過ごせるものなのかもしれない。


 ちなみに。
 「人からの期待の量をコントロールできるようになる」のも
 これから私が目指す、もう一つの『第一歩』だ。

2022.6.10 サトー佐藤


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