今まで様々な聴者と関わってきて思うこと


2月末にツイートしたこちらについて少し細かくnoteにも書いてみる。
Twitterという狭い文字数の世界でこちらの話をするには手狭ですので。


最初に前置きしておきます。
これから書くことは全て「わたし」が今まで様々な聴者と関わってきて感じたことです。個人的見解であり、何かを代表するものではありません。よろしくお願いします。

耳が聞こえないわたしが、今まで関わってきた聴者はだいたい4パターンに分類されているなあと感じています。
このように何かをカテゴライズして一括りする行為はあまりよろしくないですが‥‥あくまで一例というつもりで‥。
4パターンは
「対等に接する」
「格下として見てくる」
「興味ない」
「そもそも人間としてすら見られていない」
です。
そう感じてこのツイートをした結果、様々な引用リプやリプライをいただきました。
そこら辺をこのnoteで深く掘り下げていきたいと思います。

まず、「興味ない」こちらはそのまま興味無いです。
わたしから話しかけてもそっけなく対応し、必要以上に関わろうとせず、その場が終わったらもう永遠に会いませんという感じです。その人とは知り合いにもならないし、この先続くわたしの物語にも二度と登場しないのです。
こちらは聞こえる聞こえない関係なくありますよね。街行く人々とか、同じ空間にはいるけど関わりたいとは思わない人とか、そんな感じです。

つぎ、「そもそも人間としてすら見られていない」これは本当に最悪のパターンです。聞こえないならば人間ではないなということで、悪口暴言を吐いてくることもあるのです。あとはあからさまにめんどくさそうな態度を出して、聞こえない人とはお話になりませんスタイルを示す方もいます。
そのような方にはわたしからも理解がない人とはお話になりませんスタイルを示すか、もう関わらないように避けるのですが、聞こえないだけでこのような扱いを受けることに傷付いています。
最近このようなパターンの人はかなり減っていますが、それでも一定数はいるのです。びっくり。

そして「対等に接する」と「格下として見てくる」
これは何かしらサポートをしてもらったときに「なんでサポートしてくれたの?」と聞くと「チームワークだから」や「友達だから」と答える人が「対等に接する」人で「聞こえないから」や「障害だから」と答える人が「格下として見てくる」人とツイートしました。
こちらについて様々なリプをいただき、わたしも多少説明不足だと感じたため、もう少し細かく説明します。

その前にもう一回言います。

これから話すことは個人的見解です。

「聞こえないからサポートしよう!」という親切な方も確かにいます。
そこで考えてほしいのはサポートしよう!となるまでの思考回路です。
「さとりだからサポートしよう!」や「さとりは聞こえないからサポートしよう!」という思考回路と
「さとりは聴覚障害者で聞こえないからサポートしよう!」や「さとりは障害があるからサポートしよう!」という思考回路があるのです。
前者の場合は「対等に接する」人で、後者の場合は「格下として見てくる」人だとわたしは常々感じています。

あなたが見ているのは目前の人なのか?
あなたが見ているのはその障害なのか?

着眼点が少し違うだけで今後のサポートにも大きな影響を及ぼすような気がします。
「対等に接する」人は必要以上のサポートはしないし、一緒に何かを楽しむことができるのですが、「格下として見てくる」人は必要以上のサポートをしてくる上に「障害があるから」という言葉を並べて自由を制限するのです。

サポートと介護は違うし、行きすぎるサポートは虐待にも近いと思っています。

もう個人や個性といった「個」が尊重される時代、「障害」というその色めがねを一回捨てて目前にいる人と接してみませんか?

というお話でした。

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