横田祐美子氏『脱ぎ去りの思考──バタイユにおける思考のエロティシズム』をめぐって

このnoteでは家事のことや趣味のことを書いたり、仕事に関係しそうなことでも、自分の領域の研究書や、趣味で読む英米文学などの書評を書いたり、あまり肩肘張らずに書いていこうと考えていました。しかし、今回の標題にも掲げた書籍をめぐってちょっとした問題があり、それについては書かねばならないと考え、投稿するに至りました。今回は以下、敬体・「ですます」調ではなく、常体・「だである」調で書いていきます。

1. ことの発端

標題にも掲げた横田氏のジョルジュ・バタイユ論は2020年春に刊行され、その年の秋に「バタイユ・ブランショ研究会」にて、同書を巡る合評会が開催された。残念ながら筆者はこの会に居合わせることはなかったのだが、今年7月に刊行された『現代思想』8月号「哲学のつくり方」における横田氏の原稿においてその会での状況が綴られており、それを読んだ郷原佳以氏が、以下のようにツイートしていた。以下、2件のツイートを引用する。

そして、現在は削除されているが、上のツイートに続けて以下のようなツイートがなされていた。

2020年10月に行った書評会で湯浅博雄先生が横田さんの著書の第4・5章にあまり触れなかったのは、そのときそのようにおっしゃっていましたが、端的に、テクスト読解がまだ足りないと思われたからです。

http://detruireditelle.g1.xrea.com/20220901.htm

このツイートを受けて横田氏は登壇予定だった、ジャン゠リュック・ナンシーの追悼シンポジウムを、辞退することになる。それはこのシンポジウムに郷原氏が登壇しているからだけではないという。加えて当のシンポジウムの主催者である西山雄二氏が、削除された2番目のツイートを、注釈なくリツイートしたことで不用意に拡散したことにも抗議するためである、と。他にもさまざまな経緯(これについては先に引用した郷原氏のサイトおよび、横田氏と連帯し、この問題に抗議の意を示すことで同シンポジウムを辞退した伊藤潤一郎氏のresearch mapでの研究ブログ「シンポジウム「ジャン゠リュック・ナンシーの哲学」への参加辞退について」https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/97310/41431d7d46249d1129c9ece36481d709?frame_id=534631を参照)があり、後者のツイートは削除され、現在では当該のツイートは郷原氏のサイト上で以下のように言い直されている。

2020年10月に行った書評会で湯浅博雄先生が横田さんの著書の第4・5章にあまり触れなかったのは、3人の書評のうちの2番目で、第1~第3章までコメントしてきたため時間がおしており、第4・5章についても展開しようとすると大幅な時間が必要になるためだったと思います。

http://detruireditelle.g1.xrea.com/20220901.htm

ツイート末尾に施された置き換えにいささかの不自然さを感じないこともない──これについては後に扱う──が、ここでは導入としてこの一件の状況を総括することにしたい。

以上の経緯をめぐって、郷原氏には地位・立場の非対称性を顧みない行為であると当事者からは非難されている(註1)。しかし、この投稿ではこの問題を出発点にはしない。というのも、すでにこの立場の差の問題が必要以上に加熱しており、郷原氏だけでなく横田氏にも、冷静ならざる批判が浴びせかけられているにもかかわらず、当該の横田氏の原稿、郷原氏が批判していた内容についての十分な検証が行われていないからだ。それゆえここでは横田氏の当該の原稿、そしてそれに先立つ郷原氏による横田氏の著書に対する書評なども総合的に読解し、この問題についてテクストベースで考える立場を取ることから始めたい。まず次節において横田氏の『現代思想』の原稿と、『脱ぎ去りの思考』の内容について概観しながら、郷原氏のツイートについて分析してみたい。

2. 『脱ぎ去りの思考』および「わたし、変換器」をめぐって

何が郷原氏を、先のようなツイートをさせるに至ったのか。何が彼女を「びっくり」させたのか。まず横田氏の『現代思想』8月号の原稿「わたし、変換器──怖れ知らずの哲学序説」について紹介しよう。この原稿は学問的論文において、主語として前提とされる一人称複数形「私たち/われわれ」と、書き手の一人称単数の代名詞「私」との一致と隔たりを巡る哲学についてのエッセイという趣を持つ。この論稿の冒頭から二段落、少々長くなるが、引用しよう。まさに、この「私たち」と「私」の微妙な関係が予告されているからだ。まずは劈頭の段落である。(なお、原著は縦書きであるが、noteは横書きであるため、可読性に鑑み、漢数字は全てアラビア数字で書き換えることをあらかじめお断りする)

2020年3月に刊行された拙著『脱ぎ去りの思考──バタイユにおける思考のエロティシズム』(人文書院)は、同年10月にバタイユ・ブランショ研究会によるセミ・クローズドの合評会で取り上げられることとなった。会の性質上、当日は私〔=横田〕と研究対象を同じくする専門家ばかりが参加していたが、バタイユ研究の大家である某国立大学名誉教授の身振りに驚かされたことは、いまでも覚えている。第3章までの流れを丁寧に辿るようにみずからの言葉で置き換えながら語っていた名誉教授は、突然話を切り上げ、第4章以降について論じることをやめたのだ。どのように批評してよいのか分からない、とでも言うように。

横田祐美子「わたし、変換器──怖れ知らずの哲学序説」『現代思想』2022年8月号、157頁。

この引用の直後には彼女の自著の紹介が簡潔になされている。この書籍の内容については筆者による同書への評価も交えつつ紹介するべく後述することとして、自著紹介の直後に続く段落をさらに引用する。

だが、私の書き方に名誉教授を躓かせてしまう何かがあったのかもしれない。アカデミックな論文作法の一つである一人称複数の「私たち」に、おそらく第3章までは自身が含まれていても違和感を抱くことはなかったのだろう。しかし、第4章以降はそれ〔=人称代名詞「私たち」で作られる集合(これはのちに「学問的共同体」と名指される)に自らを含むこと〕を引き受けられなかった。そう考えると合点がいく。実際、拙著のベースとなっている博士論文の公開審査において、主査である指導教員はこう述べていた。これはバタイユ思想についての論文であるだけでなく、同時に私にとって「哲学する」とは何かがはっきりと示された論文である、と。言い換えれば、哲学の学位申請論文に書き手が顔を覗かせていたのである。

横田「わたし、変換器」同前、157-158頁、〔 〕内は引用者による、太字部は原著では傍点。

郷原氏のツイートの流れ(とりわけ前者)を、以上の二段落から追ってみよう。当の合評会で「国立大名誉教授」という地位にあったのは湯浅博雄氏であることは、会の記録から明白である。他でもなく郷原氏が、この合評会の司会を務めていたのだから、これは疑いのないことである。そして横田氏の『脱ぎ去りの思考』の第4章以降に対して、湯浅氏からのコメントがはたと途切れたのは、横田氏が自らの指導教官からの言葉として言及する、彼女にとって「「哲学する」とは何か」という問題系を引き受けられなかったからだ、とも読むことはできる。だが、郷原氏の最初のツイートの末尾「「私」の哲学が理解できなかった」という点について一度立ち止まってみよう。ここでの「私〔=横田氏〕にとって「哲学する」とは何か」という問いや、アカデミックな論文に顔を覗かせる書き手が前提する「私たち」に自らを含むことはできるか、という問いは、「横田祐美子氏の思想が理解できなかった」ということと同じことを意味し、100%置き換え可能か、という問題である。

確かに、前者のような問いの帰結が、後者のような不遜な言明を含むこともありえよう。しかし、その後横田氏は、既存の学説で形成される解釈共同体と合致することやコンセンサスを目指すのではない部分が、「哲学する者」にはあると述べている(横田「わたし、変換器」同前163頁)。換言するならそれは、研究とは、先行研究が形成してきた定説の流れに棹さすことはない部分をも含んでしまう、ということである。そうであれば、上のような不遜な主張は、バイアスなしに氏のエッセイの続く部分を読む限り、明白たるものではない。そもそもテクストの流れに忠実に沿うなら、同書第4章以降に触れるか否かは、バタイユに「哲学的転回」を認めるか否かの問いであり、論文に現れてしまう「私」を受け入れることとは直接は関係していないようだ。そもそも「私の思想」を受け入れるか否かの問いではない。さらに、横田氏は当該の第4章以降における自説の説得性について、以下のように自己反省すらしている。

書き手と読み手のあいだの差異があまりに浮き彫りになれば、その論文は冒頭でも述べたように読み手にとっての躓きの石となり、スキャンダルを引き起こしかねない。

横田祐美子「わたし、変換器」同前、159頁。

かくのごとく、「私たち」に読み手が入り込めないでいる状況を、「スキャンダル」という強い語で形容している。果たしてこのような論述を経てもなお、「「私」の哲学が理解できなかった」ために、一部を論じない、という帰結を読み込むことはできるだろうか。無論、湯浅氏の発表についての回想としてはすれ違いを含んだものであるが、横田氏の原稿の主題はそこにはないことも確かである。

むしろ、われわれは以下のように問うことで、『脱ぎ去りの思考』について批判的読解を試みよう。まさにこの先行研究との差異の大小にこそ、彼女の書籍の第4章以降を特徴づける何かがあるのではないか、と。そこで次節では同書を概観しつつ、上記の点について当該の合評会での記録に残る湯浅氏の発言や、郷原氏の同書への書評をも踏まえながら考えていこう。

2. 『脱ぎ去りの思考』とその評価

先の横田氏の論述でも述べられていた通り、『脱ぎ去りの思考』には、第1−3章(便宜上ここでは「前半部」と呼ぶ)と第4−5章(同様に「後半部」と呼ぶ)とで、スタイルにおいて大きな差が存在する。この点について、確認していこう。前半部は、バタイユが提示した「非−知」とは「知に非ざるもの」という意味ではなく、「哲学的な知に非ざるもの」であるというテーゼ(cf. 『脱ぎ去りの思考』36頁)を論証していくパートである。言い換えるならこの鍵語は知を否定するものではなく、別の形の知であるということを示そうとするのである。具体的にはバタイユが大きく影響を受けながらもその思想と格闘したヘーゲルとの差異が主に論じられる。

他方で後半部は、これまでバタイユといえば「エロティシズム」の思想家、と言われるような猥雑な受容を乗り越えるべく、バタイユの思想・哲学における「知を愛し求める」運動として、「エロティシズム」や「哲学的エロス」という問題を検討している。その結果、このパートはバタイユを同時代の哲学史の磁場に置こうとすることを試みている。そしてこの知を愛し求める終わりなき運動たる「哲学的エロス」を軸に、「非−知」が捉え直されるとされる。特に第4章において、バタイユのまさにエロチックな小説『マダム・エドワルダ』における登場人物としての娼婦と、『瞑想の方法』の「刑苦」における比喩形象としての娼婦とが、ニーチェの真理論やデリダのニーチェ読解を経由して結びつく。まさに、哲学者たちは女性としての真理を我がものとするために追い回してきた、というニーチェの思想を応用して、むしろ誰にも我有化されぬ、いつまでも逃れさる真理がバタイユにおいて女性という形象となるという。さて、この後半部について、評価は二分しているようである。

肯定的評価

少なくとも筆者は、後半部を興味を持って読めた。それは横田氏との連帯を表明した伊藤氏(https://twitter.com/la_Flaschenpost/status/1563877797751242752)、そして筆者の盟友の松田智裕氏(https://www.repre.org/repre/vol40/books/sole-author/yokota/)もそのような評価であるようだ。筆者としては、バタイユに、どうも秘教的(エソテリック)なものを感じる苦手意識と、断章なども多く組し難い思想家という意識とを抱き、うまく読めないでいた。それに対し横田氏の著書後半部には、デリダ−ニーチェ−バタイユ(そしてナンシー)という細い糸で導かれながらも、その先に見えたのは20世紀フランスのニーチェ受容や真理論という大海原であり、風通しのよさを感じた。その手さばきの鮮やかさも楽しく読めた。他方で、後半部には批判的評価もあるようだ。

批判的評価

郷原氏は『脱ぎ去りの思考』に寄せた書評において、同書を貫く太い筋としての、バタイユ研究の哲学的転回を「バタイユを「哲学」に限定すること」(郷原佳以「ドレスを脱ぐこと/純粋さへの還元──横田祐美子『脱ぎ去りの思考──バタイユにおける思考のエロティシズム』書評」『表象』15号194頁)としつつ、この立場をあらためて問い直している。そして、横田氏の著作の大きな発想源ともなったジャン゠リュック・ナンシーのバタイユ論において『脱ぎ去りの思考』で参照されなかった箇所を引きつつ、バタイユは「「死とエロティシズム」の思想家でもある」(郷原、「ドレスを脱ぐこと/純粋さへの還元」同前)と断言することで書評を締め括っている。その道程では、第4章に同書の独創性を認めつつも論述に不十分さを感じ、さらなる深化が期待されると言われる(郷原、「ドレスを脱ぐこと/純粋さへの還元」同前、193頁)。郷原氏はむしろ、「(別の知の体系としての)非−知」をめぐるバタイユ−ヘーゲル関係を綿密に追う姿勢とその手続きにこそ、美点を見出しているようである(郷原、「ドレスを脱ぐこと/純粋さへの還元」同前、194頁)。湯浅博雄氏についても事情は同様であることが、ことの発端となった合評会での湯浅氏の発言をまとめた郷原氏のサイト上での記述によって伺える。曰く、

湯浅先生は、第1章~第3章についてコメントされた後、第4章については「非常に興味深かったけれども」、「『マダム・エドワルダ』という文学作品をよく読んでいるとは感じられなかった」ということと、「バタイユの文学作品を論じることの難しさ」があるのだが、「もっと別の観点、分析方法、評価の仕方がなければならない」のではないか、また第5章についても「論じたい内容は非常によくわかりますし、おもしろいけれども」、「もう少し別の観点からも考えながら深めてみる必要があるのではないか」、ということをおっしゃいました(同書は5章構成です)。ですが、それ以上は展開されませんでした。もっと時間があれば展開されたのかもしれませんが、上記の通り、当日は3人の書評者がいて、湯浅先生は2番目でしたし、その後の全体討議のことも考えて、それ以上は展開されなかったのだと思います。

http://detruireditelle.g1.xrea.com/20220901.htm

郷原氏のツイートの訂正にもあるように、どうにも時間が押していて、第3章までを評価してご発表を終えたとのことである。私は合評会に参加していないため最初の評者の先生のご発表の長さなどは存じ上げない。前半部のみコメントして時間が来てしまった、という会の録画を確認した郷原氏の証言を踏まえると「どのように批評していいかわからないかのように」コメントを終えた、ということはなさそうである。だが、この点は郷原氏のツイートの分析を再度行なう際にまた戻ってこよう。ここで重要なことは、湯浅氏も前半部の評に発表時間を潤沢に割くほど、たっぷりと論じていた点、そして後半部の2つの章には「別の観点」からの論述も設定して深化してほしいと評価している点である。

『脱ぎ去りの思考』の後半部をめぐるこの評価の隔たりを、どのように考えればよいか。バタイユをアカデミックに、専門的に読んできた方々にとっては、前半部を横田氏の讃えるべき功績と思える、と考えることできるかもしれない。あるいはフランス文学研究を自らのアイデンティティを見出すディシプリンとする方々にとっては、堅固な文献学的考証によって構成された前半部に意義を見出し、後半部にはさらなる論証のうえで深めてほしいと評する、とも考えうるかもしれない。他方で、バタイユ以外の思想家を主に研究してきた研究者には後半部こそが面白く映る、とも。このような解釈は想像の域を出ないが、可能な解釈であろう。このように書いている筆者も、後半部の論述の鮮やかさゆえに、かえって「こんなに明快でよいのだろうか」と戸惑ってしまったことも事実である。だから、前半部をより高く評価する向きがあることは十分理解できる。

他方で、郷原氏の書評も批評対象の『脱ぎ去りの思考』に負けず劣らず鮮やかではあるが、どこか違和感が残っているのも事実だ。いま風の言い方をすれば、「芯を食った」感じがしない。ボール半個分くらい芯からずれて、詰まりながらもヒットにした感じだろうか。イチローや吉田正尚が熟達した技術で芯を外されても内野の間を抜いていく。松井秀喜や大谷翔平、村上宗隆が芯を外されてもスイングの強さでテキサスヒットに持っていく。大打者のヒットにも似た、そんな印象を受けたのである。詰まっていてもヒットはヒット、芯を完全に外されていることもない。そうであれば安易な批判は単なる言いがかりにも堕しかねない。むしろ熟練の技術や圧倒的なパワーでヒットにした大打者のような論述は、これまでの郷原氏のブランショ(そしてバタイユ、デリダ、ナンシー)をはじめとしたフランス思想・フランス文学読解の蓄積に支えられている。その蓄積には敬意を表するほかない。他方でなぜ芯からボール半個分外しているのかを問うことくらいは許されるだろう。

第一に、第4章の女性としての真理というニーチェを経由したテーゼと、バタイユの「私は娼婦がドレスを脱ぐように思考する」というフレーズとが対応しているか否かの評価にあるようだ。郷原氏はこの点について、以下のように述べている。

問題は〔……〕前傾の一節〔=「私は娼婦がドレスを脱ぐように思考する」〕においてバタイユが訴える「娼婦」や「ドレスを脱ぐ」といった形象性への視点が十分とは思えないことである。確かに第4章では、ニーチェにおける「女」の関係および『マダム・エドワルダ』の読解を通して、「ドレスを脱ぐ」の含意および思考と娼婦のフィギュールの密接な関係の解釈が示される。しかし、そのあまりに明快な象徴主義的解釈は、逆に、その必然性を明かさない。「娼婦がドレスを脱ぐ」という形象が思考のエロスの比喩として効果的なのは、それが、〈ヴェールを被った真理への欲望〉という哲学的でもあれば神話的でもある系譜〔……〕のうえで発されており、すでに性愛的なエロスをまとっているからである。

郷原佳以「ドレスを脱ぐこと/純粋さへの還元」同前、192頁。

バタイユ研究における「哲学的転回」を掲げる横田氏は、バタイユにおける「エロス」や「エロティシズム」を、思考の終わりなき運動あるいは思考の欲望と形容する。そしてこの運動が、誰のものともならず、持続的な関係を持たない娼婦と重ね合わされているのは先にも見た通りである。しかし郷原氏はこの筋に対して「その必然性を明かさない」と評し、あるいは先述の通り、論述の不十分さを指摘している。さらには、横田氏が戦略的にバタイユにおける卑猥な要素を抜き去り、「哲学」なるものを抽出するという立論には懐疑的であるように思われる(郷原佳以「ドレスを脱ぐこと/純粋さへの還元」同前、192頁および194頁)(註2)。両者のバタイユ観は平行線ですらなく、立体空間における「ねじれの位置」の関係のように、交わることも同じ方向を向くこともない。そのまま書評が締め括られている。そのような印象を抱いてしまった。それが私が感じた違和感の正体であった。

このような状態を踏まえ、ことの発端となった横田氏の原稿における「私たち」の問題に戻ろう。

3. 交わらない「私たち」の接近に向けて

横田氏が「わたし、変換器」での学術論文における「私たち」は、先述の通り、普遍妥当性とアプリオリ性を備えた記述をし、一般性のなかに自らの自己性を消し去ろうとする。読み手に書き手を意識させないための方策であった。そこに書き手が見えてしまうと、「躓き」を、さらには「スキャンダル」(横田「わたし、変換器」、p. 159)を引き起こしてしまう(ただし、そうなると、横田氏のいう「怖れを知らない者」「哲学をする者」の筆になる書き物において、一人称はどのようになるかという問いが残る)。それでもなお「私たち」ないし「われわれ」を用いるならば、書き手が想定する「私たち」に自らが含まれないと考える読み手がいたとして、その人が当該著作を評するとき、何をすることが望ましいのか。

それは第一に、当然ながら、自身の蓄積から、対象テクストの不足点を指摘し、どこが受け入れられないかを明記すること。第二に、評者=読み手が想定する解釈共同体としての「私たち」に、浮いてしまっている対象テクストの書き手たる「私」をいかにして近づけるか、足りない部分を補うためにはどのような研究ないし文献をあたるのがよいかを明示すること。若手相手であっても、大御所が手加減する必要はない。だが、批判をしつつも、足りないピースのヒントを与えることはできるだろう。

郷原氏は『脱ぎ去りの思考』の書評で、同書の前半部での功績を称えつつも、バタイユとヘーゲルにおける全体性の関係について、細貝健司の著作をあたるよう勧めている。しかし、残念なことに、同書第4章にはそのようなピースが与えられることはなかった。書評にも字数の制限があることも事実である。そもそもそこまで求めてしまうことは甘えとも言える。だが、郷原氏は同書第4章に鋭い研究の萌芽を見出していることも考え合わせると、さらなる研究の進展のためにも方向づけを与えることもできたかもしれない。

湯浅氏の書評も、時間が足りなかったため、「別の観点」とはどのようなものかについて十分言及することができなかったようである。そうであれば、合評会がのちに活字化される機会があれば、後半部についてさらにどのような要素を盛り込めば、満足することができたのかを伝えることもできたかもしれない。(筆者は湯浅氏もバタイユ・ブランショ研究会も非難してはいないということは、当然の大前提として共有できればと思う)

悲しきボタンのかけ違いから生じたこの問題について、安易な和解を求めることはできないだろう。他方で外野から見ても不可解で、さまざまな疑問もまだ残る。郷原氏がツイートを「訂正」した差し替え部分「そのときそのようにおっしゃっていましたが、端的に、テクスト読解がまだ足りないと思われたからです。」の「テクスト読解がまだ足りないように思われた」のは誰なのか(横田氏のバタイユ読解が足りないのか、湯浅氏の『脱ぎ去りの思考』読解が足りないのか。ただし合評回の様子を見るに、後者ではないようである。かなり読み込んだうえで、疑義をさし挟んでおられるようだと推察する)。そして「そのときそのようにおっしゃっていましたが、端的に、テクスト読解がまだ足りないと思われたからです。」を「3人の書評のうちの2番目で、第1~第3章までコメントしてきたため時間がおしており、第4・5章についても展開しようとすると大幅な時間が必要になるためだったと思います。」で置き換えて、果たして同じ意味になるのか。そもそも時間が足りなかったという事情があるのなら、湯浅氏と横田氏にその旨を個人的に伝えるに止めればよかったのではないか。なぜTwitterという媒体を用いたのか。ツイートをするにしても初めから時間が足りなかったという事情があったとだけ言えばよかったのではないか……。

そして、最初に述べたように、郷原氏に対して、力関係の非対称性について等閑視しているという批判もある。だが、郷原氏もこの観点を閑却するなどあろうはずがない。まさに郷原氏が10年ほど前、アイディアの盗用というあらぬ批判を年長の研究者から書評紙にて糾弾されるという被害に遭っているからだ。これは本件とは直接関わらないし、ことの直後に郷原氏が要求した「公開での謝罪」も成っているため、詳細は述べることはしない。しかし、あのときの郷原氏の毅然たる態度を、そして氏の気丈さに抱いた敬意を筆者はよく覚えている。年長の研究者からの誤解に基づく批判のもつ影響については、郷原氏は他の誰よりもお分かりのはずであると拝察する。

筆者自身も(自称)研究者である。遅々として進まぬ自分の研究、不安定な身分、上の世代からのプレッシャー、下の世代からの突き上げ。さまざまなことに怯える毎日である。その反面、適切な批判(査読所見など)は自らの研究を見直す良い機会として、嬉しくも思う。だからこそ、立場の上下にかかわらず、不当な批判というものがあってはならない。本件を、若手研究者が目上の研究者に対して行なった当たり屋的行為と切って捨てることはできない。できることとして、ひとまず文脈を整理することを試みた。

しかし、経緯を振り返って(一般論として)以下のようにも述べなければならない。今後筆者が何がしかの立場に就くことがあったとして、悪しき権威の再生産をしないようにと誓いつつ、必要以上の権威主義的振る舞いが消え去ることを切に願う。権威への妄信こそが、人文学の──すべての人文学とは言いきれないが、人文学の研究者の大半はこう思っているだろう──批判すべき対象であり、乗り越えるべき目標の一つであるのだから。

(註1):https://twitter.com/la_Flaschenpost/status/1565248456465469440
(註2):ただし松田智裕は横田氏のいうバタイユ研究の「哲学的転回」が持つ意味について、単なる「逆張り」的な立場ではなく、むしろ同書で主張される、終わりなき運動性を強調することで積極的に読み込んでいる。「もっとも、この「哲学的転回」という表現に、バタイユを神秘主義や非合理主義の思想家として描く立場への反発をしか見ないとしたら、本書の枠組みを大きく捉え損ねることになるだろう。というのも、おそらく著者は、「転回」という語によって、「哲学というディシプリンからバタイユを読むべきだ」と主張しているのではなく、バタイユ自身が実践した思考の身振りを想定しているからである。バタイユは、「非−知」、「低次唯物論」、「用途なき否定性」、「エロティシズム」といった様々な名をとおして、一貫して絶えず自己解体するエロス的な思考に向かおうとしている。ここに見られるのは、思考の欲望を語ろうとするなかで、様々な名称を創出しては自分自身も解体し、変貌していく自己回転的な思考の営みである。だからこそ著者は終章で、この転回が「唯一の事象であって、唯一の名をもつわけではない」(274頁)と述べているのではないか。」(松田智裕「新刊紹介:横田祐美子『脱ぎ去りの思考──バタイユにおける思考のエロティシズム』」https://www.repre.org/repre/vol40/books/sole-author/yokota/

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