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「人類誕生~レンとトオルの物語」第2話 渡邊 聡

「人類誕生~レンとトオルの物語」第2話
 渡邊 聡

残る総帥のレポート

シティの現状
通称「運命の岩」
この岩を中心にして、海まで広がるシティ。
遠浅の海岸から白い砂丘は森につながり、やがて見渡す限りの硬い一枚の、岩盤の上に造られた高層ビル群、シティに連なる。
この星の、唯一の大陸、シティに居住する我々には、旧人類の痕跡がそのまま残っている。
もっとも旧人類が何を達成し、どのような歴史を持ち、どこから来たか?いかなる理由で変異を獲得し、あるいは滅びたか?その詳細な足跡は、定かではない。それらが記された文献が、シティの至るところを発掘しても、見つからない。
それは統治側に任せる。
ただ、人類の外観、森や海に住む、動植物達の種類や名前や性質だけは、残っている。それらの資料の全ては言論統制の元に管理され、動植物達が絶滅しないよう統治されている。これも統治の管轄だ。
人類という種と我々が、明らかに異なる所。
それは我々が、生涯にたった一度だけ、予測不能な変異を向えることにある。
変異は目に見える変化で、いかに変異するか、予測がつかない。
我々はその生涯一度の変異を、古い過去の先人達にあやかり、ゲンプクと呼んでいる。
生物としてのパワーバランスは、あらゆる意味において、ゲンプク前とゲンプク後では、比例している。
だから我々は、変異と突然変異を、厳密に区別する。
変異は当たり前の、ただし予測不可能な成長で、突然変異は法則や秩序を無視した異端の発生だ。
生物としてのパワーバランスを逸脱した突然変異者は、異端としてさらに、隔離し幽閉すべきである。突然変異者としてレッテルを貼るだけでは生ぬるい。
おそらくそういう管理は、旧人類においても、徹底されていたのでレンまいか?
おそらく如何なる種族と時代においても、集団の統制を乱す個体は、集団の存続を優先する上で、排除または隔離の対象となったはずだ。
当たり前だが、あらゆる状況において、集団は個に、優先する。
幸い今のところ、シティの混乱をきたすような、さほど大きな突然変異は発生していない。ジンチヲコエタイギョウなど、容認出来る訳などない。
問題は、統治側のリーダー、エースがもたらした、先の報告にある。
物体と感知できないビジョンからの攻撃に、どのように対処し、ビジョンを壊滅させるか?
具体的に言えば、圧倒的な攻撃力を持つシャークが、如何にすれば感知できないビジョンとやらを、捉えられるか?そこに集約される。シャークがダメなら、ハデスがいる。
パートナーを失ったエースさえ、こちら側に来てしまえば、間違えなくシャークの時代がやってくる。それはすなわち、言論統制第1位の座を、統治側から総帥側に、奪い返すチャンスだ。もちろん後に続くハデスがトオルを抑えなければならない。それが可能と成れば、支持の確認による手段の決定という煩わしいシステムを離れ、期間を区切った永続的な統制の布石となる。成し得るべきは、統制なり。
これを我は、政治と呼ぼう。


エースの憂い

総帥が、自らの部屋で計をしたためていた同じ時。
エースはシティの治療塔の一室で、放心状態にあった。
「いつか別れはくるわ、それまで存分に、二人であることを楽しみましょう」
にこやかに笑ったエデン。
そして思い出すのは、ゲンプク後始めて可能となった、エデンとの、交わりの夜だった。
「私達でしか、成り立たない交わりね。すばらしい贈り物だわ」
下から立ち昇るプラムの香り。すぐにつながって、全てを忘れ、朝まで嬌声を上げ続けた二人。
エースが深手を負うと、すぐさまエデンが発動し、エースを快癒に誘った。
お礼として帰艦後の夜は必ず、エースがエデンにやさしく器官を挿入し、エデンをみずみずしく充電する。
そんな想い出一杯つまったエデンが再び、深手を負ったエースににじりよる。
その時エデンの背に、光の閃光が充填されるのが見えた。
「エデン」
叫んだ瞬間、光が束となってエデンに降り注ぎ、不思議そうで、けれど運命を受け入れ悟ったような微笑をたたえたエデンを、藻屑と消失させる。
エデン!
叫んでまた、エースは覚醒した。
欠損した羽の一部と脇腹に、鈍痛が走る。
まるで光を浴び、自分の血肉が焼けたおぞましい匂いをまた、かがされている錯覚に陥る。
痛みは、癒えない。
一生、癒えない。
この痛みを癒す能力を宿した者は、パートナーである、エデンだけ。
そして交われる器官を有する者も、この世界に、たった一人、エデンだけだった。
まどろむエースは、記憶の中を浮遊していた。今まさにエースの前に、始めて出会ったゲンプク前のエデンが微笑む。見惚れたエースの、ぎこちない、精一杯の微笑み。
「あれ、シャイボーイ?」
「ノン、ノン。見惚れてただけさ」
のぼせて踏み出せないエースに、すたすたと歩み寄るエデン。だけれど、距離に比例して、エデンの白い頬が、薔薇色に染まっていく、そのいとおしい、さま。プラムの匂い。
「み~つけた」
「イェイ、イェイ」
「間違いないわ」
「イェイ!イェイ!」
「こんなに素敵な体感なのね」
「イェ~イ」
「フフッ、やっぱり、シャイボーイね。未来の私の、王子さま」
「姫さま。いっしょう、運命が二人を別つまで、貴女を大切にします」
冷たい雫が耳を伝った。
彼がまどろむ部屋の前で、レンとトオルは待ち合わせた。
トオルを見ると、途端に動悸が早鐘となり、羽毛がむずがゆく総毛立つ。快楽につながるというより、脱皮をしたがっている感じだ。レンは恐ろしく、まだその先に踏み込めない。なにかが『まだよ!』と、警鐘を鳴らす。結果として、愛撫は、継続しない。トオルを求め、身を衝動に委ねても、身体の変調に耐え切れず、トオルを制しするのは必ずレンであった。
トオルは始めて、焦っていた。
トオルには判っていた。
自分がゲンプクを向えるしかない。
それがなにより二人の、幸せの為だ。
ウィンとドアが開いた。
エースが重い瞼をこじ上げると、
ゲンプク後とゲンプク前の、パートナー一対。
トオルとレンが、そこにいた。
「いつ?」
「えっ?」
「いつだったの?」
「…」
「エース、この間の帰還の時?」
「…エデン?」
「そうだよ」
いつも明るく、弾けたエース。
トオルは最初、エースが骸に見えた。それがむっくりと、いきなり首をもたげて驚いた程だった。
純白の羽は、傷だらけで所々紅に染まり、硬い羽毛で覆われた足の名残は折りたたまれ、翼の下敷きになっている。痩せて骨格が浮き彫りにされた顔は、元服前に戻ったようだ。
なにより、エデンの消失。
巷のうわさが本人によって肯定された驚きと共に、痛々しいその姿を目の当りにして、絶対的な存在のエースを、ここまで叩きのめすビジョンの圧倒的な影に、トオルはすくんだ。我に帰ると、すくんだ自分に驚き心外する、小さな自分が見える。
エースを見て、全てを理解したレンは、言葉を失った。
実はレンはエデンの消失を体感していた。
けれど、レンはエデンが、消失した理由を、自分の都合の良いように想像し続けてきたのだ。自分が感知できない空間から、エデンは何時か、妖精のように帰ってくるのではないか、と。
いつもやさしくその身でレンを包み、「いい子いい子」「よかったね~」を繰り返し、庇護してくれたエデンの消失。
その喪失感が、レンの芯を揺るがせる。
「まいったよ、ぼくは引退する」
絶句したまま、手探りしてかき集めようとする言葉は、砂のように指からこぼれる。
「言論統制入りするまで、トオル、君の面倒はぼくがみる」
「はい」
「レン」
「…はい」
「君の発現は、あらゆる傷ついた物を治癒する」
エッっと声をあげたのは、トオルだった。トオルはエースを食い入るように見つめ、頭を振って、レンを見上げる。どうもレンは、それを自覚していたようである。
「そんな。治癒の能力は、パートナーだけに有効なのでは、ないのですか?」
「トオル。通常はそうだ。ただ、レンは、交接せずにあらゆる者の傷を癒す能力を獲得した」
うっと、トオルは言葉を飲んだ。
そんなことあり得ない。矛盾している。その能力は本来、交接とセットのはずだった。そしてその対象は、ぼくだけのはず。
いきなり噴出したトオルの驚き、憤り、憤慨。それらを一身に受け、レンはふらついた。
「再生はしない。失った翼の穴は、もどらないし、老化もする。そこが交接した結果と違うところだ。落ち付けトオル。これはすばらしいことなんだよ」
「事実レンが入ってきただけで、ぼくの痛みは和らいでいる」
治癒の成果をトオルに目視させようと、エースはレンの手を取って見せた。
傷など目に入らなかった。レンの手を、エースが取ったことに、トオルは我を忘れ席を立つ。レンは静かに、寂しそうに、トオルを見上げたまま。
トオルは吹き上げる感情を、制御する術を持っていなかった。爆発的に囚われ、首をしめる、逆巻く己の、欲の熱風。
トオルがかつて、一度として感じたことの無い、今、ウブゴエを上げた、強烈な感情。
「それが嫉妬なの」
カタンとレンの声が途切れた瞬間、ウォーンと警戒音が鳴り、ライトの赤い点滅と同時に、崩れるようにレンが、床に昏倒した。今まで嗅いだこともなかった、ラベンダーの香りに包まれる。


切 望

唇の余韻がいとおしい。産毛に邪魔され、トオルの唇を味わう前に、時が来てしまう。
人の目を避けレンに逢いにくるトオルは、レンが変調をきたすまえに、今日もスッと戻って行った。
その姿に、レンは心を絞めつけられるようだった。
変調など、どうでもいい。
トオルに身を任せたい。
いつもそう、思うが、トオルと自分のためにも、言論統制に筒抜けの環境では、自制が働いてしまう。
レンには自分のゆく末だけが、見通せずにいた。しかし憂いていた、人々の向う先を。
エリア10のカフェで、ワインをチューブですすり、ビフテキを飲みこみながら、背の高い犀顔がきり出す。
「エースがやられたって、よ」
肉にかぶりついていた角なし犀が顔をあげ、きりかえす。
「エデンは消失したらしいね」
顔に手をやって、
「あんなキュートなエデンが」
そして二人して手を止めて口々に主張する。
「いよいよ救世主の登場だ」
「トオルしか、いない」
彼等のこの、カフェで交わされた、象徴的な会話。そこに、何千という『トオルしかいない』という声が被さり、共鳴してレンに届き、レンは震える。
平らな大地に広がる、ハリケーンの波動のように、エデンの消失とエースの失脚は、またたくまにシティに広がった。その感染に乗じ、トオルの憂い、憤る姿がライブとなって隅々まで配信されてた。そこにキュウセイシュの、胎動を重ね合わせ、ビジョンの脅威に対抗している。
パートナーであるレン自身の、常と異なる変異の在り方が、さらなるトオルへの待望を加速させる。
まことしやかな歌が、予言にもじってシティ全土で、口ずさまれるようになった。
 キュウセイシュ トオル ケンザン 
 ソノイギョウハ ビジョンヲモ イフサセ
 ヒトタビメニシタモノノキオクニ エイキュウニキザマレル
 ナンジ オソレルナカレ カレノシジニ サアクダラン
キュウセイシュ待望論。
その象徴トオル。新たなビジョンの脅威と、襲来。そんな喧騒が、レンの変調にササクレ立った、トオルの心を僅かばかり、癒した。
けれど、もじりうたの方ではなく、予言の「ジンチヲコエタ イギョウナリ」という一節だけが常に、トオルの頭の中で、以前にも増して大きくコダマした。
レンと一緒にエースを見舞っても、レンが手当てをする時には必ず、トオルは退室し、レンを置いて自宅に戻る。
そのたび、『ここを離れてはいけない』という巫女の声と、トオルの痛みにレンは、引き裂かれるように、心を痛めるのであった。
一人になったトオルもまた、頭を抱えてベッドに突っ伏した。
「痛む人を手当てする。素晴らしい能力じゃないか」
そして、ビジョンの脅威。
「だからこそ、レンの能力は、非常に貴重だろう」
理屈でそう、自分を諭す。
何十回も、何百回も。
だが、あまりに長きに渡った刷込みの成果、「治癒力と交接のセット」を強引に引き離そうとすると、トオルのヤワな感情が、唐突に悲鳴をあげ出す。
レンが施す、女型の治癒は受け入れられても、男型の治癒には例の、産まれたての感情で、トオルはギュウギュウ詰めに押し込まれ、はちきれそうになる。
トオル待望論にはさらに、オヒレがついた。
レンのゲンプクである。レンのゲンプクは、理屈では称えられた。だが陰では、必ずしも両手を挙げて歓迎されていなかった。ショウフなどという古い言葉で揶揄される…。それがまた、トオルの耳に届き、トオルの怒りを、過去にないどす黒い色で染めた。
そんな風評と好奇の目に苛まれながら、気を振り絞り、パートナーを怪我や病気で失い、あるいは自身が怪我や病を負った隔離病棟の住人達を、時間の許す限り訪問し、献身的に手当てするレン。それはこれまでにも増して、トオルの知る、トオルの惚れ込んだ、レンそのものであった。それこそが、トオルが、他に例を見ない、エキゾチックな美しい無二の外見以上に彫れ込んだ、レンの心音であった。
「だいじょうぶ?」「だいじょうぶですか?」「キャー、しっかりしてください」
真剣な、レンのまなざし。トオルが見惚れる、本当の美が、そこに宿っていた。
それに引き替え…。
一人になると最近必ず、振りかえる我が身の所業、その感情の移ろい。そこには始めて出会う、胸を張れない自分がいた。コトバを動員して自分を納得させればさせる程、卑小に見える、小さき、自分。
そこに例の、コトダマが、脳裏からフィードバックしてくる。
「シンヲウシナウトキ」
「ホロビシトキ」
自分を信じれなくなったら、滅びるしかないのかな…。
フッと道化た自分にまた、怖気を感じ、トオルは飛び起きた。
そして、次には必ず、トオルはブラインドを上げ、月明かりの中、鋭角なシルエットを宿す、闘技場を仰ぎ見る。
そこにエースを一回り大きくした、畏怖堂々と佇む、異形を思い描く。そして自分に言い聞かせる。
「ゲンプクがある」
「ぼくを、ゲンプクが、待っている」
そうすると漸く、睡魔が箒に乗って、やってきだ。そして瞼が、重くなる。
「ゲンプクすれば、全てが終わる」
夜明け前、トオルにまどろみが、訪れる。

今も、エリアを侵入し飛来するビジョンの攻撃は、その頻度を増しつつあった。
毎回姿形を変え、飛来したビジョンの姿が、今では一定している。
膜と矢と、見えない攻撃。
迎撃に向かった部隊の大半は、帰還は叶わなかった。
「トオル~」
「トオル~」
「トオールー」
翌朝も家の外から、声が始終かかった。
何日か前までは、カーテンを開け、笑顔で手を振っていたトオルが、ここ数日は反応を返さなくなり、昨日はブラインドは閉め切り、その手で耳を塞いだ。
最近は、闘技場に行く時でさえ、握手を求められる。
同級生達は、トオルが話しかける以外、ほとんど声を掛けなくなった。
そばかすだらけのハデスだけが、以前と変わらぬ、憧憬と憎しみをブラウンの目に宿し、トオルに関わってくるが。
楽天家のトオルの額には、はじめて一文字のシワが、刻まれた。
疲れたら抱かれに行ったレンのもと。今日は行くことすら迷い、諦めた。
闘技場のサンド・バックの音が、この日は遅くまで重い音を発てた。
そして再び夜が訪れた。
今宵もまた、トオルは最後に希望にすがる。
「ゲンプクを向かえればいい」
「そしてキュウセイシュとして、ビジョンとの争いを、ぼくが制圧する」
「そうすれば、今度こそレンと、本当の交接ができる」
それだけが、今のぼくに残された、命綱。
そして眠りに落ちる刹那、また流れゆくあのフレーズ。

 ソノモノ ジンチヲコエタ イギョウナリ
 ユエニ マドウベカラズ
 スベテノテキハ ウチニアリ
 ホロビシトキハ シンヲウシナウトキ

「ごめんね、トオル」
言ってしまってハッとして、トオルの顔を見る。
トオルは感情を能面の裏に畳んで仕舞い、
「なにを誤るんだい、レン。レン、困っている人を助けることが出来るなんて、すばらしいことだよ」
そしてトオルは、スッと目をそらすのだ。言葉とは裏腹に。
「ぼくがゲンプクすれば、レンの見えない器官を捜し当てるよ」
そんな時だけは、以前のトオルに戻る。
けれど男性の手当てする部屋には、絶対に入ってこない。
そんな行動をとることで、主張ぜずにはいられない感情のアリカタなど、一度として味わった事のなかった、おぼっちゃまで、楽天家のトオル。
いとおしく、痛ましい。だだっこのように憎憎しく、愛すべき、私のトオル。


変 異

ゲージが振り切られ、マザーが発動する。ビーコンのサイレンが、高らかに言論統制塔内をコダマした。
ついに来たか。
だらしなくベットに広がって寝ていた統治は、転がり落ちるようにベットを降りると、言論統制の中でも特別なあしらいの、金色のガウンを纏う。
「時は来れり」
そうひとこと、サイレンに乗せると、中枢に急ぐ。
いよいよシティの希望、トオルが覚醒する。
そこに低音のサイレンが重なった。統治が思わずブレーキを踏み、確認する。
「ハデスもかっ」
統治は小躍りした。
これは運命に違いない。
高らかなサイレンと、低音のサイレン。その二つが、少し間を置いて鳴り響く様に、言論統制はすべからく、奮い立った。
足を速め、中枢のアーチをくぐる。
統治はすべてのメンバーを、一人一人確認し、口を開いた。
「いつ何時でも、このように、迅速に」
失笑が起きる。
「さて、諸君。今後12時間、順言論統制を、発動する」
「意義あり」
すかさず総帥が物申し、ショウキが頷く。
「言論統制の発動を、願いたい」
「否。トオルがキュウセイシュであることは、巫女の見解が一致するところだ。したがって、これは非常事態ではない」
「もし事態が覆ったら?」
「その責任は、私がとる」
総帥の目から光がほとばしる。
「意義を取り下げる」
「ありがとう、総帥。では説明を続ける」
「トオルが如何なるイギョウに変異しようとも、言論統制は、一致してトオルをキュウセイシュと認める。さらにライブへの介入は、イギョウの姿を確認する5分のみとし、情報操作はその時間の、5分以内に留める」
「繰り返す。トオルの、いかなるイギョウの変異をも、言論統制は認める。その為の順言論統制の発動である」
「意義無し」
ほぼ同時に、全言論統制が、口を開いた。ざわめきの中、統治は着席し、ショウキがうやうやしく差し出したオレンジを、ガマのような口の端にストローを差し込み、顔を赤らめてすする。
「さぁ、我々が、時代の生き証人となることを、楽しもうではないか」
「しかし統治、少し緊張しますね。統制に悪影響が出ない程度の、イギョウであることを、望むばかりです」
「そんな事を言っていられるか、ミスラよ。滅ぶか、存続するかの瀬戸際なんだよ、君」
「ははぁ、確かに」
「危機が去ってから、それは考えれば良いことだ」
ミスラに対して、次の言葉を統治は口にしなかった。
エースの巨大な羽でさえ異端視する輩が多かった内輪だ。5分間は、寿命を削る時間となるだろう。
ベットの中の、トオルの髪は、確かに深紅に染め上げられている。
ゲージを注視していたミスラが突然、声を荒げる。
「レンが激しく呼応しているようです」
「なんだと」
「レンのゲージが振り切られました」
「どういうことだ」
「トオルと呼応して、非常に不安定な状態を推移しております」
「具体的には?」
「変異と突然変異の、波境にあります」
「まったく、どうなっている」
ミュータントレベルだな、まるで。統治は心の中で、一人ごちた。
「三十分経過。発動の予兆は0」
「0だと?」
「普通はとっくに、苦しみ出す頃だろうに」
「はい」
「前例を探せ!」
統治が赤風船の様相を呈してくる。ミスラは慌てて端末に直接アクセスする。
「シャークが3時間。エースに至っては、2時間で、全てが発動しました」
う~ん。
統治は考え込んでしまった。
トオルがキュウセイシュならば、短時間におそらく、劇的に変容することだろう。ジンチヲコエタイギョウへの変容に、どう、対応すれば良い…?
残りの11時間半が、深い海溝のように彼らを待ち受けていた。
覚 醒

トオルには、そこがどこか、すぐには思い出せなかった。見慣れていて、どこか、決定的に違う光景。
ぐるりと自分の立っている辺りを見渡した。
「あぁ」
トオルはつぶやいた。
後ろを振り向くと、二つに割れ、崩れ落ちた、運命の岩の、赤い残骸が空を向いていた。
空が真黄色に埋め尽くされた。
最も大きなカーテン状のアメーバは、数キロもあるようだった。
これがエースを屠り、エデンを消失させた正体か。
広場を我先に逃げるシティの人たちが、隊列が崩れ逃げ惑うアリのように見える。
そうだ、ぼくには、やるべきことがある…。
「アーン、アーン」
サイレンの音。空が鳴っている。
「アーン、アーン」
なにも見えなくなったよ。
「アーン、アーン」
夢から引き戻されたトオルにまず、音が。続いて定期的にきらめく閃光のような非常灯の明かりが、飛び込んできた。
だが、それが、自身の異常事態を知らせるサインであることに気付くには、今しばらく時間をようした。
あっと言って、トオルは違和感に眼を向ける。斜に構えたトオルの頭髪は、深紅に染め上げられていた。
ロックを解除した瞬間、部屋の中に、3人の白い防菌服に身を包んだ救護班が踊り込んできた。
「トオル」
「…」
「トオル、判るか?」
「はい」
「トオル、マザーは君のゲンプクのサインを確認し、我々は君を『ウブゴエ』に隔離した」
「そうですか」
「トオル、気分はどう?」
「だいじょうぶです」
「トオル、痛みはないか」
「平気です。ここはエリア1ですか?」
「そうだ、南棟42階層」
「あの、ゲンプクが始まって、どの位時間が経ったのでしょう?」
「すでに6時間が経過している」
「6時間?」
「そうだ、あと半分で、トオル、君のゲンプクは終了する」
どーなっている!映像を届けてくるスクリーンの前で、言論統制の心情を総帥が代弁した。
だいたい、ゲンプクを自覚せず6時間余り寝続けるなどということは、前代未聞の事態であった。シャークでさえ、エースでさえ、生理的な変節の予兆に、怯えたものである。マイクに向かって統治が声を掛ける。
「トオルに、なにか変化がないか、聞け」
一拍おいて、トオルの左前に立つ、救護班の中でもっとも大きいリーダーが口を開く
「トオル、ゲンプク後6時間も経過すると、劇的な予兆に見舞われ、錯乱する者まで出ることが多い。体調に変化はなにもないのかね?」
トオルは、固まったままだった。
「トオル、どうだ、なにか変化を自覚するか?」
トオルは、ベットから片足を下した。
「いえ、まったく、変わりません。なんででしょう?」
「さぁ、やはり君は…」
なんだ、アイツは!総帥が我慢できないと言わんばかりにまくしたてる。
「おいウブゴエの管制よ、トオルのフィジカルデータを直接出して、説明しろ」
統治の発現を了解するように、画面の中の一人が、首を左上にあげてカメラを確認した瞬間、画面は切り替わる。
表の詳細の針は、全てニュートラルを示す。まったく振れていない。細胞、血液成分、代謝、構成、全てに微弱な変化も見られない。
「説明せよ」
「…はい」
「現状解ることを、簡潔に」
「はい…。統治。これは過去のデータにありません」
「どういうことだ」
フロアにおちんばかりに疲れきっていた言論統制達は、座りなおしながら、口々に言葉を発する。そのまわりをミスラとショウキが、はらはら動く。
「すみません。過去に例がないので、我々にも解りません」
怒号を統治が手をかざして諌めながら語気を荒げる。
「では状況を説明せよ」
「身体の変異に干渉しない程度に、ダメージを緩和すべく介入するのが、我々救護班です」
「そうだ」
「ところがトオルの場合、変異が発動されたことは明らかでも、あらゆる組織に変異を認められません。今のところですが」
ふ~と統治がため息をつく。その後の言葉を皆、息を殺して待っている。
「変異の終了はなにでわかる」
「遺伝子の変異ですね」
「その予兆は出ているのか?」
「その予兆だけは、順調に推移しており、あと6時間で変異後に、固定されます」
う~ん、皆、各々、どうようにため息をつく。
「わかった、変われ。変化があったらただちに、報告せよ」
「はい」
そして画面はふたたび、トオルを追う。
ちょうど救護班が、トオルの部屋を出て行くところだった。てきぱき動く、トオルをカメラは追った。トオルはシャワーを浴びる。歯を磨く、ローブに着替える。ただし縛らず、座って朝食の準備にかかっている。
レンが心配していることはわかっていた。けれどもトオルは、なにをしていいか、わからなかった。トオルはト―ストにバターを塗り、焼き始める。バターが溶けだし香りを放ち始めた所で、チーズを乗せる。それがフツフツ溶け出した所で厚めのハムを乗せる。そしてハムの表面がフツフツと焼け出した所で、トーストを取り出す。イーストと肉がこんがり焦げた香りを確かめながら、レタスを乗せ、パンを折る…。いつもの香りだ。口に入れ咀嚼する。この弾力。いつもの味。けれど唯一確かなこと、それは、変異が訪れたこと!
トオルだけが、高揚の渦の中にいた。カメラの手前平静を装っていたが、やったぞと叫び出したい衝動をこらえるのに苦労していた。
普段は制御と生体維持に必死な救護班もまた、トオルの心拍と血圧の上昇に色めき立ち、一喜一憂していた。だがそれらの数値も、スパーリング時の8割まで上昇したところで止まり、やがて下降し出した。救護班は、落胆の空気に包まれる。
そこに統治の声が雷鳴のように響き渡る。
「短時間の、劇的な変異にトオルは耐えられるのか?」
あわてて上を仰ぐ。
「…。マザーはそのデータを持っていないので、なんとも言えませんが」
「なにを言ってる、愚か者!どんなに事態が急変しても、だ。なにが起ころうともトオルの変異は成し遂げよ。わかってるな、生体維持をそこなわず、だ」
スクリーンの上にあるライトが淡く点滅し、発せられた言葉が届く瞬間画面が切り替わる。
「どうした」
「統治、報告を」
緊迫感と、後の騒然とした状況が対照的だ。
「ハデスか?」
「はい。変異が解析不能となりました」
「なんだと」
再び言論統制が混乱に陥る
「まったく、どういうことだ!」
「2時間前に、生体維持が不能となりました。意識生死とも不明。現在なんと繭化しております」
画面に映し出された隔離病棟の無菌室無いに、黒い縦長の繭が映し出された。
「どうなっている」
「まったくもって、解りません」
「繭化する前の状況を映せ」
「…」
「…、なんだ、これは」
ライブ映像を凝視していた幾万の人々は、次の瞬間、一斉に嗚咽をもらし、そのほとんどの者が眼を覆った。年端のゆかぬ者は嘔吐し、あるいは親にしがみつき顔を伏せる。
炭化する直前までバーベキューされた死体が、繋がれたロープを切断せんばかりにのたうちまわり、絶叫しながら臓物を吐き散らす…。そんなハデスの変わり果てた姿があった。
「うっ…」
言論統制達は一様に言葉を飲み込みながら、統治を見た。統治が映像を遮断しようとした矢先
「統治、ここです」
「なに?」
まるでスローモーションの様に、事が動く。
アカくテカテカした皮膚が、ヌメリと音をたててハデスから剥がれ落ち、ロープに引っ掛かった。そこに湯気を立てながら、金色の眼力が暗闇を照らす、黒づくめのイギョウが現れた。と、イギョウはひざまずき、両の腕の中に、頭をすぼめる。と、頭から吹き出した黒い繭が、足先まで包み込む。
ハデスはすくっと立つと、そのまま厚みを増した繭の内に、完全に消失したであった。
 「デビルだ」
統治の、総帥の、エースの、シャークの、そして大多数のシティの、住人達の口から、期せずして同じ言葉が発せられた瞬間であった。
トオルの心拍は再び、はちきれんばかりに高揚した。
すばらしい変異だ。ハデスには、まるでシャークの不完全さを完成させたような、美があった。
トオルは眼をつむり、心に想いを刻む。
なにがあっても、たとえ意識を失っても。たとえ錯乱しても。生きて変異をなしとげる。
ハデスの変態を見て、トオルは内心ホッとしていた。本当のイギョウとは、ビジョンの変容のようなものであるはずだ。人知の想像を超える容。それこそイギョウであろう。ハデスのあれが、イギョウであるはずがない。
「だけど…」
トオルはゴチる。なにか、忘れかけている、大切なもの。それに、本当にそうなんだろうか?
真にジンチヲコエタイギョウたらしめた時、本当にトオルはレンと交接が可能なのだろうか?
トオルは密かにかぶりを振った。そんな嫌らしいことを考えてはいけない。ぼくとレンは永遠のパートナーだ。レンはきっと、ぼくを受け入れてくれるだろう。いや、たとえ受け入れてくれなくとも…。またトオルはかぶりを振る。心の臓が早鐘のように、トクトクと喉仏を圧迫し、ゴクリゴクリとつばを飲み込む。いたってトオルらしくない考えにカブリを振る、『らしい』トオルがそこにいた。
回診中のフロアでその有り様を見ていたレンは、矢も盾もたまらず、回診を中断し、エリア1の南棟42階層、通称「ウブゴエ」を目指して部屋を出た。トオルの苦行が始まったという啓示に、レンは我を忘れた。
「レン」
行く手を救護師に阻まれる。
「重篤な患者を診て欲しい、レン」
はっと、レンは我に帰る。
猛烈な機知感と、まるで巨大なトオルに抱かれているような獣臭。眩暈、吐瀉。レンはトオルの変異の波に、強烈に共鳴しながら、フラフラと回診をこなしていた。
幾度か明瞭に意識を回復し、
「トオル」
と声に出して叫びながら、エリア1に向かうレン。
しかし必ずレンは、途中でトオルの変異の波に打たれ歩を緩め、気がつくと、痛みに震える患者の傍で、手当てをしていた。
「お願い、トオル。がんばって」
「はいっ?」
「…」
「レンさん、大丈夫ですか」
ふっと、我に帰るレン。
早くトオルの傍らに行きたいと思いながら、おなじエリアをぐるぐるまわりつづけ、たどり付けないレン。
そうしてすぐに痛みから解放され、安眠につく患者。
トオルの変異に洗われ翻弄されるレンと、今だ体感できずにいるトオル。この時、変異開始後、8時間を経過していた。
トオルは自ら、志願して無菌カプセルの中に移った。
その時になって、自分を失わずにいることを、トオルはあきらめた。
無菌カプセルの中で、浮遊するトオル。
あらゆる事態にそなえる為今は、全身を脱力させ、身体の変調に備えた。


タイム・イズ・アップ

「臨戦体勢をとれ」
啓示のように鳴り響いた統治の指示に、機間が騒然となった。
「統治、復唱願います」
ミスラも叫ぶ。
「うむ、失礼した。トオルの変異が残す所1時間となった」
「はい」
「ハデスの変異ですら、過去の経験を超えるものであった」
「残り1時間、なにが起きるかわからない」
「呼応する事態があるかもしれないし。襲撃がおこるやもしれぬ」
「おお」
「あらゆる事態に備え、各機間は万全の体勢をとるように」
シティ全体の時間が、まるで止まったようであった。
黎明。
シティは固唾を飲んで、カウントダウンに入った。
トオルはカプセルを出て、トイレに行った。
これで三度目である。
カプセルの中でしてくださいという申し出を断り、トオルは急ぐ。
トイレには救護班がついてくる。
トイレを出ると、残り55分。
あわててカプセルに押し込められそうになり、その前に、冷えた水を一杯、口にする。
軽い躁状態のトオルが軽口を叩く
「何十分かなら、死なないようにしのぐから、後はよろしくね」
「めっそうもない、全力を尽くします」
そして無菌カプセルのドアが閉まる。
脱力し眼を閉じると、浮遊を始めるトオル。
「さぁ、来い。もういつでもいいぜ」
「出たらレンに、会いに行こう」
ゲンプク前の、レンの微笑が、突然浮かんでくる。
「あぁ、キレイだね」
ゴオと、頭の上で、音が鳴る。
「あれ、何の音?」
トオルはうたたねの中で、自分のイビキを聞いたような気がする。
待つだけとなり、残り30分を切り、苦痛や変異の恐怖よりも、早く変異を経て、再生したいという思いが強くなった。
またゴオと、音が鳴った。
トオルは丘に立っていた。
逃げ惑っていた人々が、トオルを見上げる。
そしてトオルは空を見上げる。


胎 動

ボフッ
自室に戻った瞬間、昏倒したレンの身体から、ラベンダーの香りと共に、羽が幾本か、舞った。
トオルの変異の余波はとうとう、レンから意識を奪い去った。
波に洗われるように、ときおり痙攣する、レン。
言論統制たちは、呼吸を忘れて画面を凝視していた。
時折トオルの身体が上下し、ゴウというイビキが聞こえてくる。
どこかから煙があがるのではないか。突然音信が、普通になるのではないか。
あれ、揺れたように、見えた。おっ、なにかが横切ったのではないか。
そうしてあらためて画面を見ると、トオルが浮かんでいる。時々、身体が上下に揺れる。
あれ、煙かな。いや、ちがう。おっ、揺れた。横切った?
画面には、トオルが浮かんでいる。時々上下に、身体が揺れる。
ビーッツビーッツ
なんだ、あの音は?
残り十分です。
あれ、浮いている位置が高くないか。
う~ん、変わらないようにも、見えますが。
残り何分だ?
八分です。
本当に大丈夫なんだろうな?
はい。
体勢は?
万端です。
動いたか?
さぁ。
死んでないか。
生命に異常はありません。
トオルは寝ているのか?
そのようですが?
統治、残り三分です。『統治、情報操作の時間を過ぎています』耳元でささやかれた顔を払う様に、統治は立ちあがった。『待て』
ここで皆が立ちあがった。
親の懐の顔を伏せ、寝ている子供達以外の、全ての成人たちも。
ほとんどの者が、時計を目線に掲げながら、スクリーンに食い入った。
そうして…。
ウオーン
マザーが十二時間終了の合図を、シティ全体に鳴り響かせた。

ゲンプク完了
「変異は完了したのか?」
「総帥、遺伝子の変異が、トオルのゲンプク終了を、確認しております」
「トオルは」
「ここに」
「わかってる」
皆は息を飲んだ。
トオルは、なにも変わらず、カプセルの中で浮遊したままだった。
カプセルを解除する。
トオルは浅い眠りから目覚めた。
そして時間を見る。
足で立ち、スタスタカプセルを出た。
「ねぇ、ぼくは、どうなっているの?」
「変異は…。終了しています。トオル、貴方はゲンプクを、終了しました」
「なんだって」
「貴方の遺伝子が、変異終了を告げている」
「うそだ!」
トオルは叫んだ。
血走った目を走らせ統治が叫ぶ。
『情報操作だ!』
『統治無理です』
『なにを言っている。はやく!』
『統治、ゲンプク5分前からゲンプク後1分までしか、システム・マザーに介入できません』
統治は我を失ってスクリーンを凝視する。
ブシュー、重い排気音共に、ハデスのカプセルが空いた。
うっそうと渦巻く白い煙を掻き分けるように、巨大な真っ黒の足と、腕がカプセルを掴む。
牙と裂けた眼孔から光る金色。鋭利なナイフのような、肘と脛のトサカ。ムッと鼻を突く、獣臭。
鉤のように折りたたまれた翼。
どよめきが朝日の中、シティの、いたる所で沸いた。
そのイギョウ…、面影、体躯に、ありし日のハデスの、そばかすだらけの面影は、微塵も感じれなかった。
「うぉう」
咆哮がコダマする。
「デビルだ!」
「デビルの再来だ!」
どよめきはそう認知しつつあった。
「うぉう、どうぅ」
そして、デビルは、いや、ハデスは、トオルを認め、声を絞った。
「トオルよ、どうした、変異はまだか」
トオルは圧倒された。
その、ハデスの大きさに、姿に。そして変異後という、己に。その現実に。
トオルがゆっくりと、砂袋を引きずるように、ドアに向かう。
救護班の者たちは、そんなトオルと、湯気をたて、巨大な獣のようにうなるハデスを交互に見比べ、金縛りを解けずにいた。
「うそだ!」
トオルの叫びが、マイクを貫く。
誰一人言葉を自分のものに、出来ずにいた。
繭を模したウブゴエの、ガラス張りの入り口を出たところで、レンに抱きすくめられた。
「トオル」
脱力したトオルはレンにもちあげられ、ようやくレンを認める。
「トオル、しっかりして」
だが、またしてもあの疼きが、今後は百倍に増幅されてレンを襲った。
貫かれたレンが、あえぐ。フランキンセンスの濃縮な香りが、フロア一面にただよった。
レンの香りに促され、レンの変調に、ようやくトオルは、意識の焦点を絞った。
見ると、さらに不安定になって苦しむ、レンの顔が目の前にある。
トオルは、ふたたび突きつけられたあらゆる現実を認知すると、受けとめきれず、ついにレンを振りきって走り出した。
「トオル!」
レンの声が追う。
「ウォーウ」
ハデスの咆哮を背に受け、トオルはエレベーターに掛け込み、脇に姿を隠した。扉は音も無く閉まった。
トオルは走った。
長い距離を、息を切らせて、トオルは走った。
朝日を浴びたシティには、人っ子一人いなかった。
きらめくビル街を抜け、石畳の道を蹴る。広場を横切り、路地に入る。汗がトオルの顔から後に、球のように弾ける。
鋭利な影に隠れ、再び陽光に飛び出たトオルは、左に曲がると、アーチをくぐり、階段にぶつかる様に飛び込むと、登る、登る。時々ころび。つかえ、よたり。あえぎ。そしてまた、登る。
パルスがトオルに降り注ぐ。だがトオルは干渉されない。
そのまま運命の岩の前に、よろめき出た。
「…、ゲンプクを、完了している…」
うなるような統治の声が、トオルの姿を映し出した画像に被り、シティに響き渡った。
トオルは焼ける様に発光する岩に突進し、両手で岩を突いた。二回、三回。
両の拳が、アカに染まる。
トオルは跪き、顔をくしゃくしゃにして、咆えた。
「どうしてだ」
再び天を仰ぎ、大口を空ける。¥
「どーしてだー」
トオルの慟哭が、割れる様にいつまでも、シティの空にコダマした。


逡 巡

「トオル」
顔を上げると、レンがいた。
「トオル」
トオルはボッとして、レンを眺めていた。
「トオル」
レンはトオルに近付き、トオルに手を伸ばす。レンの息遣いが粗くなり、レンの手がトオルに届いた頃にはレンは、トオルの前にひざまづいていた。
「どうやって、交接するんだ」
トオルが下を向いて、地面を叩く。
「トオル、だめよ」
「レン、どうなっている」
トオルの拳を、レンが包む。
拳が切り取られた様にそこだけ、多幸感に包まれ、見る間に傷が癒える。
呆気にとられてトオルはマジックを見るように、自分の拳を眺めていた。
「私は貴方のものよ、トオル。貴方も、私のもの」
「レン、どうなっているの?」
「トオル、おめでとう。貴方は、ゲンプクしたの」
「うそだぁ」
トオルは再び、地面に拳をめり込ませた。
「やめて~」
レンがトオルの拳を包む。
涙とよだれを、垂らしたトオルがいた。
「どうすればいい?どうすればいい?レン?」
トオルがレンを見る。
レンはトオルを掻き抱いた。
レンは貫かれた違和感に身体を波立たせる。
「ゲンプク前と、明らかに違うわ」
「レン」
「トオル。私達は、パートナーよ」
トオルもレンにしがみつく。
今までより一歩踏み込んだレンを見舞ったものは、痛みに近い、悦楽だった。そこがトオルのゲンプク前と、決定的に異なった。その制御不能なまでの、強烈さ!その体感が、レンの思いを確信へと誘った。しかしレンは目を閉じると、強烈な眩暈に見舞われ、倒れぬ様にと目を開け、トオルに向き合った自分の身体を離した。離さなければ、渦がグルグル周りだし、奈落に落ちそうだった。今ここで、落ちる訳にはいかない。トオルのためにも。トオルを見ている全ての人に写る、トオルのためにも。
トオルを立たせ、トオルを挟むように、レンは介助しながら、振り向く矢先、岩に刻まれた一節が、イカズチの様にレンの視野を打った。
「ソノモノ ジンチヲコエタ イギョウナリ」
ゲンプクを終えたトオルは、イギョウそのものであった。
一瞬レンとトオルの先に続く、棘だらけの道がはっきりと、レンには見渡せた。
励ますように頬に口付けしながら、レンがトオルを階段に誘う。レンの膝も、ブルブル震える。マザーが映し出していた画像がパンし、今度は、対照的に、畏怖堂々としたハデスに迫い始めた。
それぞれは無関係な、何十万の、スクリーンの前に座したシティの住人達の口から、『お~』という同様の感嘆が漏れた。そこに子デビルと疎まれ続けたガイアが飛来した。ハデスはガイアを見ると空に向かって咆えた。
ガイアは威厳を持って、どうどうと、自分の三倍もの身の丈を有すハデスに、歩み寄る。
ハデスは身を縮めガイアの前に平伏すと、象の鼻のような形をした長く蠢く器官を、うやうやしくガイアに差し出す。

「人類誕生~レンとトオルの物語」第3話 URL

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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