「人類誕生~レンとトオルの物語」第3話 渡邊 聡
「人類誕生~レンとトオルの物語」第3話
渡邊 聡
召喚と審問と
「トオルの力は、現時点でまったく未知である」
統治の言をよそに、トオルが慟哭する姿は、一夜にしてトオルに関する流布を、逆方向に、定めつつあった。
「ね~、トオルって、キュウセイシュじゃないよね」
甘い菓子を頬張りながら幼子は、そう、トオルを揶揄した。
ゲンプク前のスクールの子供たちは、トオルが慟哭する姿そのものに、衝撃を受けた。
かつてトオルを信奉していた者ほど、代わり身が、甚だしかった。
彼らはトオルを遠巻きに見、トオルと目が合うとそらし、自分からトオルには、コトバをかけなくなった。
それでも教室の外で。校舎の端で。
「キュウセイシュでないにしても、トオルにはまだ、すごい能力が隠されているかもしれないよね」
なんていう話しがまれに、聞こえたりした。
トオルになんとかして追い付きたいと願って者。
もう一歩積極的に、アンチトオルを標榜していた武闘派は、あからさまにトオルに非難の目を向け、声高に脱トオルを、ふれてまわった。
「なにが出来るのか、みせてもらいたいものだよ」
家をまったくでなくなったトオルが、必要に迫られてスクールに出向くと、聞こえみよがしに、
「変異した後、人でしかないのなら、それこそ突然変異じゃないのかい」
そんなコトバがトオルの耳に入ってくる。
殴りかかりたい衝動を、トオルは歯を食いしばって耐えた。
「レンには器官がないよな。あれこそ突然変異だ」
その時だけは、トオルは黙っていられなかった。
持っていた者を地面に叩きつけると、相手に身体ごと突進し、殴りかかって、逆に叩きのめされ、病院に担ぎ込まれる騒ぎとなった。
それがまた、ニュースと同列に配信される。
統治が掲げていて、解決を躍起になって急ぐよう機間に促した疑問も、それらの流布と内容は等しかった。
ひとつはトオルの変異の科学的な解明。特にビジョンに対する効果を測定すること。
さらには、器官を有しないレンとトオルは、交接が可能か?
トオルゲンプクより丁度一週間後、統治は我を失った。
言論統制のプロパガンダと銘打って、ハデスのゲンプク時の映像が、配信されたからであった。統治は全言論統制を召喚した。
かつてない喧騒の中、召喚された言論統制達を前に、統治は切り出した。
「これをみよ」
画面では、音読が始まる。ゲンプク前の、トオルの声だ。
「キュウセイシュ カノクニニ アラワル
ソノモノ ジンチヲコエタ イギョウナリ
ユエニ マドウベカラズ
スベテノテキハ ウチニアリ
ホロビシトキハ シンヲウシナウトキ」
そこに、ハデスのゲンプク時配信されたショッキングな映像が、音読に被る。
のたうち煙をあげる、やけただれたハデスのなれの果てと、煙の中からその巨大な体躯を現す、伝説の『デビル』に酷似したハデス。
ラストに「言論統制」の字幕。
「これを流布したものは、誰だ。名乗りいでよ」
間髪いれず、総帥が挙手する。
「いかにも、総帥の権限において、配信を決定した」
「なんと。言論統制を名乗る権限は、統治のみが握る」
「いかにも、承知している。が、対ビジョンの危機管理は、総帥の権限とこころえるが、如何に?」
「いかにも。それは貴方の権限だ、総帥」
「対ビジョンに決定打を持たない現在。ハデスが発現する稀有な能力の数々は、大きな唯一の希望となっている。それを早期に打ち出すことは、シティ住人のパニックを抑止する、有効な手段でレンまいか」
「総帥、それは人心掌握であって、対ビジョンの危機管理とは言いがたい」
「対ビジョンに関する風評を、対ビジョンの危機管理と呼ばずして、なんと心得ればよいのか?」
「対ビジョンの風評?」
「キュウセイシュはトオルでなかったという、風評だ」
「それが、何で対ビジョンの風評となるのだ、総帥よ」
「それがビジョンの感知するところとなれば、好季と一気阿呆に攻められる可能性が生じる」
「なんと!」
「キュウセイシュの存在の出現という流布は、ビジョン攻撃の抑止につながると私は信じる」
「だからといって、なぜ、統治の私が預かり知らぬ所で、事をはこぶ」
「むしろ私がそれを問いたい、統治よ。何故貴方が発布しない。だから私が、したまでだ」
「根拠がないではないか」
「事は急を要すだろう、統治」
「そなたの愚行は、言論統制の根幹を揺るがす問題だ。本件で私は、言論統制を発動する」
「それならば私は、総帥の権限において、ここに非常事態を宣言する」
場内は怒号と喧騒に包まれた。
統治には、この場を平定する責任が生じる。
「現在武力行使を伴う侵略の危機は、決定的ではない」
エースが敗れたではないか?意義あり。黙れ。
再び喧騒が飛び交う。
「言論統制は、情報規制と情報操作の権限です。これは統治にのみ発動する権能を付与されています。非常事態宣言は、武力行使主体の侵略に対する防衛策としてのみ、発動され、これは総帥のみが有する権能です。その二律背反は、独裁と滅亡の道として、あってはならぬという掟を、お忘れですか」
一同はスクリーンに釘付けになった。
そこにエースが、映し出されていた。
「エース、これは緊急回線だぞ」
「私は本日付けをもって、言論統制の一員として発布されました」
「そんなのは、机上の手続きだ、若造」
一同は水を打ったように、静かになった。
あらゆるご法度が。あらゆる掟破りが、この一時の間に、しかもシティ唯一の意志決定機間である言論統制で発言されたことを自覚した沈黙で、あった。
「今の発言者、名乗り出よ」
「先生」
「エースよ!場をわきまえよ」
「ビジョンはじき、エリア0に到達します」
統治の顔が糊で固まる。
「これはシティに隠蔽すべき内容ではありません」
「…エースよ」
「皆さん、ビジョンを、防ぐ手立てはありません」
「シャークが、ハデスがいるではないか」
「総帥、彼等の力では残念ながら防ぎ切れない」
「なにを断定するか、エース!根拠を述べよ」
「現存する巫女の、発言です」
再び、静寂の波がホールの端まで到達する。
「あらゆる数値が、レンの巫女の発動を検知し立証しています」
「キュウセイシュはトオルです」
突然声の主をレンと認識した瞬間、怒号があがった。
「あれは変異ではない」
「変異と認めぬ」
「変異の価値が歴史が、否定されるぞ」
怒号が波を高くする。
「レン、そこでなにをしている」
「手当てです」
一拍置いて、さらに高くなった怒号が、レンの余韻を打ち消す。
「突然変異の定義は明らかだ」
総帥の声に、サッと波が呼応し、引く。
「レンは交接器官を有しない」
「総帥」
反応したのは統治とエースの声であった。
「レンとトオルを、異端審問に招聘する」
「バカな!」
指示する声を、叫びが飲み込む。
「その前に」
エースの悲痛な叫びが、全ての耳を捕える。
「トオルの能力を、明らかにするチャンスを」
ゆっくりと波が去って行った。
それぞれの恣意と思惑の収拾は容易ではないと、それぞれが考えていた。
そこに楔を打ち、破綻を避けたのはまぎれもなく、エースの、さらにやせ衰えた姿であった。その容姿が、ビジョンの圧倒的な影となって統制達を畏怖させている。
統治はトオルの可能性にすがり、総帥は、シャークとハデスを利用し突破口を開きたい。
トオルとハデスのスパーリングが再び、発布された。二度の試合でその能力を披見せしめぬ場合、言論統制はトオルとレンを、異端審問に処する決定を下した。その後、言論統制がハデスを、キュウセイシュと認定する運びとなる。
再 び
「許してトオル」
「レン、ぼくのゲンプクは終わったんだ」
トオルが近付くと、ガクガクとレンが震えだす。
「…なんで」
「トオル、私は貴方のものよ」
「…うそだ~」
涙を流さず、しかしトオルの声は、号泣しているように響く。
「トオル、貴方も私のもの」
トオルがレンの胸に飛び込む。
トオルの肩を抱きとめ、レンがそれを阻止し喘ぐ。
「なんでだ!」
「許して、トオル。まだ交接できないの。でも、その時は絶対に来るから」
「いつ?」
「解らないわ、ごめんなさい。でも、必ずくるのよ。私達はパートナーなの」
「…」
「トオル、私が交接できるのは、貴方だけ」
トオルはレンの腕を払って、レンの胸に飛び込む。
「だめ!」
両腕一杯を広げてレンを抱くと、レンの身体が痙攣し、ガクンと胎動すると、トオルの腕の下でレンの内臓がズルリとうごめいた。
その感触にトオルは驚いた。トオルは竦んだまま後に下がった。
その感触がトオルの身をレンから遠ざけさせた。
レンはその身をちぢこませ、嗚咽に震えていた。
トオルの目から、雫がこぼれ、頬を伝わる。
「トオル」
トオルが目をあげる。
レンは必死で身体を外から整えているようだった。
「レン、ごめん」
「トオル」
「レン、ごめんね。大丈夫?」
「トオル」
「…ん?」
「貴方はキュウセイシュなの」
傷つき、瀕死のように、レンが見えた。トオルはコンタクトが及ぼしたレンの肉体への影響に、ただただ畏怖していた。そのレンの口から出た言葉は、なお衝撃的だった。
「そんな、レン」
「そうなの、貴方なのよ、トオル。キュウセイシュは」
信じられるか!まるで途方も無い絵空事を言っている様に、トオルには思えた。
「そんなこと、ない。レン」
「そうなのよ、トオル」
「レン、そんなこと、ないんだよ。なに一つ変化していないんだ」
「あぁ、トオル、信じて。私にはわかる」
「なんで。ぼくが一番わかっているよ」
「違うの、トオル。貴方はまだなにも、わかっていない」
レンのコトバの強さに、トオルは今度は衝撃を、感じる。
そして次には怒りが、ふつふつと煮立ってきた。
「レン、ぼくの変異ってなに?」
「…トオル、ごめんなさい」
突然力を失ったレンを見て、トオルの中で、蓄積していた感情に火がついた。
「レン、ごめんなさいってどういうこと?」
「トオル、私にはトオルの変異が何なのか、わからないわ」
「それで…」
トオルは突き上げてきた感情の波に喉をふさがれ、嗚咽した。
「それで、なんでオレがキュウセイシュってわかるんだ」
「トオル、それはわたしが巫女だから」
レンの髪は宙に舞い、フランキンセンスの香りに、トオルは一瞬気が遠のいた。トオルが愛し続けてきた、レンの匂い。あぁ、レンの、香り。
ふと見ると、顔を両手で覆った、レンがいた。
そのまま、どの位時が流れただろうか。
トオルの耳に、何時の間にかレンの嗚咽が、やわらかな旋律のように届いている。
レンが静かに、顔を上げた。
「トオル」
トオルがレンを見る。
「トオル」
「レン?」
「愛しているわ、トオル」
「レン、ぼくも愛しているよ」
「トオル」
レンの目にはいつのまにか、断固とした力が、宿っていた。
「お願い、乗り越えて、トオル。貴方にしか、出来ないのよ」
「そうだね、レン」
「そうよ、貴方は、トオルなの」
「そうだったね、ぼくはトオルだ、レン。でも、どうやって…」
「トオル、それをお願い。自分で探して」
トオルは頷いた。そうだよ、わかっている。わかりきっている。
そうか、そうだよ。自分で探すんだ。
トオルは久しぶりに、時間が戻ってきたことを感じた。空間が戻ってきたことも。自分がそこに、あることも。産まれ、父と母を失い、レンと出会い今日まで、自分はずっと、自分を探し、その可能性をこの手で、発掘してきた。
「そうよ。貴方にしか、出来ないの。お願い。そのためにこそ私達は、存在している」
トオルにはわからなかった。
けれどレンの変わらぬ想いが、トオルの中に暖かな灯火となって、なだれこんできたことを、感じた。
それしか、ないんだ。嘆き続ける事など、どうせ自分に出来やしない。
そうか、今、出来る事。これから、やるべき事。いや、やりたい、事。
トオルはレンを見る。
まぎれもなくレンが、そこにいる。そのことの、なんといとおしいことか。
そっと顔を近づけ、レンの唇に自分のそれを軽く、ぴったり重ねる。
ブルっとレンは震えた。
その震えが今度は、小さな春の、うごめきのように感じられた。
レンがよろめきながら、部屋を出て行った。
何日も寝ていなかった。身も心も、疲弊し汚れていた。けれどトオルはすぐベットに入ると、寝息を発てた。トオルはひさしぶりにその夜、夢を見なかった。
バトル
トオルは始めて、その会場に足を踏み入れた。
全天候コロシアム。ここはエリア3、通称発現する広間と呼ばれている。
スク―ルの闘技場のスケールアップ版を思い浮かべていたトオルは、その規模と様相に圧倒された。
ドームの天井は、雲が漂う程高く。反対側の審判は米粒の様に小さい。畳敷きと思っていたフロアは、見た事もない素材で、硬度があり、しかし伸縮自在のようだ。
トオルはあまりに小さかった。この広さを一杯に使う闘いなど、今の自分に出来るわけがない。
「トオル!」
レンが飛んでくる。
「レン」
空を飛んでくる。そんなレンの、そんな当たり前な光景すら、トオルの心を疼かせた。
そうか、エースがここで飛べば、ドームのアーチなんてすぐ突き破ってしまうだろう。その規模の戦闘。
自分がまるで蟻に思えた。ここで、あの、ハデスと対峙する。奥歯をギュッと、トオルは噛み締めた。噛み締めないと、まるではずれかけたマウスピースのように、カタカタ鳴った。
「自分を信じて」
自分?自分のなにを?
「落ち付いて」
落ち付いて?どうするの?
音がよく、聞こえなくなる。
自分の鼓動を、うまく嚥下できない。無理に飲み下すと、空気といっしょに吐き気が込み上げてくる。
いつの頃からか、正面に鎮座した黒い塊が見えた。トオルはようやく、それがハデスであることを認識した。
ハデスは、トオルを見ている。
トオルは苦し紛れに笑みを浮かべた。
ハデスは、トオルを見ている。じっと、見ている。
うぉーぅ、息吹が熱風のように下から顔を撫でる。ハデスが、たち上がった。ハデスの細い眼窩の奥で、その眼になにかが宿った。そう思った瞬間、ハデスはレンをむんずとつかむと、持ち上げて自分の顔のところに寄せた。
「なっ、やっ」
もがくレン全身を、ハデスの、像の鼻のようなホースがまさぐる。
「やめろぉー」
トオルが走った、スライディングしハデスの足を蹴る寸前、ハデスは待っていたように無造作に、トオルを蹴り上げる。
トオルはグルグル回る世界を見ていた。
揺らぐ海底から、湖面に明かりが見える。
あれ、吐きそうだ。
ゴフッっと上を向いたまま吐き出すと、揺らぐ湖面が真っ赤に変わった。
下から苦痛が、あらゆる神経に分け入った。
のけぞった瞬間、苦痛は下がり、景色が焦点を結ぶ。
「トオル、トオル」
レンの声に覚醒した。
ガハッっと血を吐きながら、上体を起こすと、引揚げて行くハデスの後ろ姿があった。
「トオル、あと、一回だ」
トオルは、口を拭いながら叫んだ。言葉ではなく、血が、ほとばしった。
「トオル、おまえの足りないものは、なんだ?」
ハデスは、コロシアムを後にした。
痺れの快感と共に、身体が修復されていく。
レンはただ、トオルを抱きしめ、トオルの胸に顔を押し当てていた。
「レン、ごめんよ」
「ごめんなさい、トオル」
「だめだ、勝てない」
「ごめんね、トオル」
「ごめんよ、レン。君を守れない」
トオルは完全に、快癒した。
スクリーンから顔をあげ、統治は超えを荒げた。
「見ろ、レンはトオルを再生させた」
「はい、まぎれもなくレンは、トオルのパートナーです」
エースが上体を起こし、頷く。
「何か、発動したか?」
総帥の声に、シャークが応じた。
「なにも。すべて、フラットのまま」
「耐性はどうなっている?」
「組織は、おそらくゲンプク前と、なんら変わりのない強度です」
皆、それぞれに言葉を失っている。
「レンが不安定になりました」
不思議な光景だった。トオルが快癒した瞬間、レンがビクンと大きく跳ねると、ブルブル小刻みに震え出したのだ。
トオルがレンを、両手を回し抑えようとする。すると、レンの震えが大きくなり、唖然としたトオルが、身を離した。レンはゴトリと、フロアに伏せる。
救護班のブースが、滑るようにレンの横に到着した。
「レンの変異は途上なのか?」
絞り出すように統治が言葉を発した。
「それこそ異端だ」
総帥が、まぜっかえす。
「総帥、いささか悪趣味がすぎるぞ」
「これで判明した。レンは、異端ではない。なぜなら、ハデスと交接できなかったからな」
「そんなことは、わかりきっているだろう」
「統治、入れ知恵は、私の所業にございます」
凍りのようなシャークの眼が、統治を捉える。
「戦闘中にトオルが変態する確率を探りました」
統治はそのまま、考え込んでしまった。
「次は、闘いになるのかな?」
考え込んでいたエースが、顔をあげた。
「トオルと、話してみます」
何かで突然頭が弾かれ、トオルはよろめいた。
弾かれ痺れた側頭部の上辺りを右手で押えると、ヌルっとした暖かみ。見ると手のひらが、真っ赤に染まっている。
と、次は腹に当たり、はうめきながらトオルは、腹を抑えた。
石が、手の平にボトリと落ちた。
「ダッセー」
三人の子供たちが、柱の陰に消える。
また血を流してしまったと、トオルはレンに申し訳なく思った。
異端のレッテルを貼られた方が楽だと、トオルは心底思った。これが変異だとしたら、あまりに常軌を逸している。生粋のバイク乗りのように、変異を手なずけるのは容易なものだ。だとしたら、ぼくにはなにも、ないではないか。トオルはこのまま、幽閉されたいと願った。陰が走り、トオルは頭を庇う。見ると虫を求めてやってきたツバメが、トオルの上空を演舞する。
トオルはレンと話そうと、きびすを返した。すると、通路の奥から、肢を引きずりながら、こちらに歩くエースが見えた。
「トオル、ちょっといいか?」
トオルは小走りでエースに近付き、肩を貸した。
「身体は大丈夫か?」
「なにも、出来ませんでした」
「トオル、それを一緒に、探さないか?」
意味がわからず、トオルはエースを見た。
「ダッセー」
見ると、五・六人に増えた子供達が、柱の陰から半身を出している。
一人が振りかぶって石を投げた。
エースが手をかざすと、石は空中で燃える。燃えた石が、するすると子供に近付きはじめる。ワァと弾ける様に子供たちは、逃げて行った。
「トオル、おまえの変異を、一緒に探そう」
トオルはまじまじと、エースを見た。しばらくすると、目からポタポタと、涙が溢れる。
「トオル、おれはキュウセイシュの役にたちたい」
トオルは自分の腕に顔を押し付けながら、首を横に強く振った。
「おまえがキュウセイシュだ、トオル」
トオルの口から、嗚咽がもれる。
「トオル、レンに、応えてやれ」
トオルは、腕を顔から離すと、思い出した様に、エースと歩を進めた。
「おまえの得手は、視野の広さだ」
トオルは、始めて聞く様に、ポカンとした。
「おい、しっかりしろ、トオル」
昔のように、エースがおどける。
「はい」
「後の先。絶えずクールに、対峙した相手のカウンターを取る」
「ええ」
「視野が広い、目がいい。裏返せばおまえの得手は、クールに見て、状況に応じる闘い方にある」
「はい」
「それと同じだよ、トオル」
「…、なにがですか?」
「今後の闘いも、それが発動のきっかけとなるはずだ」
「…発動」
トオルはブルッと、武者震いした。自分が一番ありえないと実感している、自分の発動。
それを、落ち付いてクールに、良く見て成し得る。
「エース、ぼくには、すごくナンセンスで、困難なことのように、思える」
「トオル、ゲンプク後の発動は、簡単なことなんだよ」
「…」
「たとえば、いつものように自転車に乗るように、それくらい簡単なことなはずだ」
トオルは頭では理解したがっていた。だがトオルの身体は、そう信じる事を拒否していた。
あれから始めて、トオルとエースはスクールの闘技場に、足を運んだ。
「ぼくは、ここで、子ども達に、格闘を教えようかな」
「トオル、それは、仕事をしてからにしてくれ」
「仕事?」
「キュウセイシュとして、成し得る仕事だよ」
久しぶりに取り戻した、穏やかな心に再び小波が走った。でもトオルは、その小波を、エースに見せまいとした。
「トオル、お願いだ。自分を信じてくれ」
「やめて、エース」
トオルは思わず口に出した。小波をこれ以上、波立たせたくなかった。
「今のぼくには、一番難しい注文だよ」
折角差した陽が陰り、羊歯が生い茂る。だがエースはそれ以上、言葉を投げてこなかった。トオルはエースを見、ハッとした。エースは消耗し、疲れて痛んでいて、その瞳は、深い哀しみで溢れていた。
「そうだよ、トオル。ぼくは老いた。今やトオル、ぼくは生きても、なんの価値も感じない」
「…エース?」
「同情しなくていいよ、トオル。何故だかわかるか?」
トオルは僅かばかり逡巡して、頭を横に振った。
「エデンはぼくの、魂だった」
あぁ、そうか、そうだった。最も当たり前で、最も大切なことを一瞬、トオルは忘れていた。
「トオル、レンはおまえを、信じている」
「…わかっているよ、エース」
「いや、おまえはわかっていない、トオル。おまえは自分を、レンが信じている様に信じなければならない」
エースは一旦息を継いでから、再び口を開いた。
「なぜならば。おまえがそれを出来なければ。間違えなくレンは、おまえのために命を犠牲にする。エデンのように」
フワッとプラムが香ったような気がしてトオルは、言葉を失った。
ゲンプク後、出撃時は例外なく、パートナーと一緒に行動することになる。
トオルは再び、最も当たり前で、最も大切なことに気付き、うろたえた。レンの命は、トオルが、自分の命に代えてでも、守らなければならないのに。
「トオル、『おれはキュウセイシュ』と、いつも唱えていろ」
エースが微笑んだ。
「そうすればトオル、おまえはおまえを思い出す」
闘技場で、エースはトオルと対峙した。
「攻撃に、ニュートラルに対峙する。今日はそこまでをやろう」
「エース、大丈夫?」
「おお、まがりなりにも、おれはエースだぜ」
空手の構えをしたトオルは、しかし思い直して構えを解こうとした。
「トオル、好きでいい。一番落ち付いてよく見える構えをとれ」
トオルは思いなおし、両手を前に突き出し、前羽に構える。
「トオル、格闘の心得。覚えているよな?」
あぁと、トオルの顔がほころぶ。
「トオル、そのまま、言ってみてくれ」
トオルは一瞬躊躇したが、すらすらと言葉を発する
「感情を腹の底に、落ち付かせ、整える。一つ、息を吐き、意志を産み、呼吸によって、大きく膨らませ身体の隅々に行き渡らせる。一つ、それをクールに留めて、凛として立つ。一つ、最後に脱力し意志を暖かく熔かし、全てを包み込む」
キーンと空間が、冬の湖面のように澄んだ。あぁ、懐かしいな。この子は、いつもこの音読で、キッチリ自分を整えたっけ。
「見事だ、トオル」
すっと空間が、緩む。
「それでどうするの、エース?組み手は出来ないよね」
「火球でも、投げようか」
突然トオルの顔に、怖れが走った。空気が氷解し、霧散する。
「おいおい、トオル。当てはしない」
ところが一度囚われると、それは中々トオルの元から去ろうとしない。
「トオル」
「なに?」
険しく身構える。
「これは、修練だ、トオル。まず闘いに向かう、自分を創り上げる」
「うん」
「だから力を抜け。見ろ」
「…うん」
だめだな。エースはしばし、考えを巡らす。
「もう一度、言ってみてくれ、トオル」
「…。一つ、感情を腹の底に落ち着かせ…」
「ちがう、トオル。言葉を噛み締めて。言葉通りに、身体を整えながら」
「一つ、感情を腹の底に…。腹の底に、落ち付かせ…、落ち付かせ。一つ、息を吐き、意志を産み、呼吸によって…、呼吸によって、大きく膨らませ身体に行き渡らせる、行き渡らせる…」
また、だ。空間が、澄み渡り温かく、包み込む。
エースは闘いに慣れさせようと、トオルに火球を見舞おうとした。火球を見舞う。火球を見舞おう。火球を、火球が、出来ない。火球が出来ない。火球が…。
腕を挙げかけたエースが、突然その場に崩れ落ちた。
「レン!」
掛けよってエースを抱き起こしながら、トオルは条件反射で、レンを呼んだ。
呼吸はしているようだ。白目を剥いている。脈動は、正常に思える。
「エース、エース」
と、柔らかな羽音。
「トオル」
「レン、エースが倒れた」
レンが小走りに近寄ると、エースを一瞥し、エースの額に手を軽く翳した。
「トオル、何をしたの?」
「なにもしてない、対峙をしたら、突然倒れた」
「我を失っている」
「我を?」
「待ってね、私なら覚醒させられるわ」
そのまま手をエースの額に当てると、ふわっと光彩が、エースの額や顔に振りかかる。
「この辺りにいたの?レン」
「ううん、トオルに呼ばれて。ここだとわかったの」
トオルも実は感じていた。それはゲンプク前には、あり得なかった、感覚である。
エースの顔に生気が宿り、裏返った目が、戻ってきた。
「トオル」
「だいじょうぶかい、エース」
「ああ、トオル。おまえオレに、何をした?」
トオルはレンと、顔を見合わせた。
「違うよ、エース。エースが、倒れたんだ」
エースは、ゆっくりと、確かめる様に、たち上がった。
「ちがうぞ、トオル」
トオルは驚いた。エースが、錯乱している。それほどまでに、エースの体調は、すぐれないのか、と。
「もう一度、いいか?トオル、さっきの状況を、つくれるか?」
トオルは、うろたえた。これ以上無理をさせると、エースが死んでしまうのではないかと、思えた。
「大丈夫だよ、ちょっと、確かめたい」
のろのろとトオル、前羽の構え。エースがそれに対峙する。
「トオル、整えてみてくれ」
今度は声に出す必要がなかった。
凛と立つうちに、空気が澄んで暖かく柔らかに…。
これだ。これが、トオルの発現だ。だが、なにかを忘れている。肝心な、何かを…。
「もう、いい?」
構えを解くと、途端に闘技場の冷気が、押し寄せてきた。
レンとエースが、不思議そうに顔を見合わせた。
エースは、何かをトオルに伝えたかった。伝えたくてたまらなかったが、それが何か?判らずにいた。
「トオル。今度はいつだ?」
トオルの顔が、急に曇る。
「明日だよ、エース」
「…、明日か…」
レンは、心なしか上気して見えた。じゃぁ私は帰るわと言うと、レンがトオルの唇にキスし、ブルっとまた、大きく震えた。
バトル2
長く真っ直ぐ続く、真っ白な動く回廊に、トオルはレンとエースと乗り、コロシアムに向かう。途中の交差でエースは右折し、二人と別れ、言論統制に向かわなければならない。
「トオル、凪だ」
こわばったトオルの顔が、フッと緩む。
「オッケー、エース。静かに凛とたたずむ、湖面だね」
「そうだ、トオル」
「その後は」
「その後は」
同時にエースとレンが続けた。レンがエースを促す。
「考えるな、トオル。その状態で、見て、うごく」
「了解…。それしか、ないよね」
「トオル、昨日のおまえが成し得た何かが、発現するぞ、きっと」
トオルでなく、レンがしっかり頷いた、トオルを見て。
そしてエースは、右に曲がり、言論統制の巨塔に、吸い込まれて行く。
さて、バトルだ。
トオルは正面を見据えた。
点に見えた入り口が、近付くにつれ、黒い何かが、入り口を塞いだり開けたりしているように見える。もしくは黒い何かが、回転しているよう。
そこから雄叫びの強弱が、漏れ出してくる。
ちらちら映った黒い影は実は、巨大なハデスが四肢を踏ん張り入り口に向かって、顔で円を書くように上体を回しながら、牙を剥き出しにして咆えている有り様だった。
トオルは目を疑った。まさに、イギョウ。人の面影はついぞどこにも見出す事は叶わない。つり上がった目を縁取る、幾何学のような模様と、固く立つ二本の触覚。イメージとしてのデビルに、そのイギョウはぴったりフィットする。
「バアゥオー」
真っ黒なハデスが、四肢を踏ん張り、居丈高に叫び、放たれる寸前の猛獣のように、身体を揺すり回しながら吠える。咆える。咆える。
血走った目が、トオルを捉え、さらに号砲を放つ。
「ハデスはあらかじめ、なにか言われている」
レンが放心したように、つぶやく。
ハデスの肩あたり。彼のパートナーとなった真っ黒なガイアが、空中に制止したまま、腕組しているのが見える。まるで、ミニハデスだ。ガイアが大きく映るにしたがって、破れた内臓の記憶が蘇り、胃袋は砂を入れたように下がって、全身の筋肉が硬直する。
「機会を見計らって、全力で攻撃せよ」
ハデスに下された総帥の命が、ハデスをちりぢりに引き裂いていた。
ハデスの心は抵抗し、身体は喜びに震えた。我が身は、闘うために在る。
「ゴァー」
咆哮は空気をビリビリと震わせた。
トオルが肢を踏み入れた時に、ハデスは一足飛びにトオルの面前に、飛来する。トオルはせめてと、覚悟を決めた。
「トオル!」
「レン、また、よろしくたのむね」
トオルはハデスに背を向けレンに頭を下げた。
ハデスの理性が一瞬だけ働き、動きを止めた。
トオルはフッフツと息を吐いていた。
ともすると呼吸が止まるほど、心臓が上に競り上がってきた。
『…間違いなくレンは、おまえの為に命を、犠牲にする』
そのエースの言霊だけが、トオルに我を、忘れさせずにいた。
目の前でデビルそっくりの巨大な山猿が、牙を剥いて咆哮を爆発させた。唇を震わせて息継ぎをすると、トオルはコトバを吐き始めた。
「一つ、感情を腹の底に、落ち付かせ、整える。一つ、息を吐き、意志を産み、呼吸によって、大きく膨らませ身体の隅々に行き渡ら…」
聞き入っていたハデスが、理解した瞬間目を燃え上がらせる。反対にトオルは、コトバにするにしたがって、トオルの周りの空間が、キーンと冬の湖面のように澄んでいくのを自覚した。ハデスが憎しみに顔を歪め、右腕を振りかぶると、右肘に生えた刃を…。
「一つ、それをクールに留めて、凛と立つ。一つ、最後に脱力し意志を暖かく熔かし、全てを包み込む」
すっと空間が、緩む。ハデスは刃でトオルを薙ごうとした姿勢のまま、口から泡を吹き出した。まるで振り下ろす腕に、限りなくパワーと貯めているように。
「チャッ」
泡の飛沫がトオルにかかる。
その思いの他の冷たさに、我に帰ったトオルがブルッと震えた矢先、腕全体でトオルを斜めに薙いで、ドウとハデスが倒れた。
瞬間のことだった。
レンがトオルに体当たりする。そこにガイアの火球が降り注いだが、火球は霧散し、ガイアもまた、落下した。刃はトオルの右肩を切り裂き、ハデスは身体ごとフロアに突き刺さり、動きを止める。
レンがトオルの血飛沫を見る間に止める。
トオルは痺れる痛みの快癒と共に、白目を剥く、ハデスとガイアを、驚きをもって見つめていた。
マザーが映し出した、スクリーン上に起こったこの事件は、言論統制を大混乱に落とし入れた。
一時後、誰も予想し得なかった結末が後を押し、全言論統制の招聘と、トオルとレンの異端審問の開始が採択される。
異端審問
「異端審問を開始する」
統治が宣言する。
マザーから派遣された8人のジャッジマンが、降臨し、腰を下す。
背丈の同じ純白の衣で全身を包んだジャッジマンは、円を描くように座ったまま、身じろぎもしない。
その中心に、レンとトオルが並んで鎮座し、8人の間には、シャーク、ハデス、統治、総帥、が均等に着座している。
総帥が起立し、口を開く。
「私は総帥の名のもとに、異端審問を招聘した。理由は明白である。変異の定義は、外見上の変化に集積される。与えられた能力を発動することなぞ、字を書くより易しい。トオルにはその、変異の象徴である外見上の変化と、与えられた能力の発動が見られない。故に、トオルは異端である」
8人のジャッジマン全員、着座したままだ。トオルは首を垂れ、レンは瞬き一つせず、白い顔をさらに白くし、総帥を食い入る様に覗く。
「一方、レン。レンとトオルがパートナーであることは、データが証明している。一方、レンの巫女の発動。これには、データの、裏付けがない」
すっと5人が、起立した。
「私の予言は、はずれたことがない」
レンの言葉に呼応し、残りの3人が立つ。
「そしてトオルがキュウセイシュであることを、私の巫女は予見している」
8人のジャッジマン全員が、そのぎこちない姿勢で逡巡をあらわした。そこに総帥が口を開く。
「レンが巫女を発動した結果か否か。つまり、トオルがキュウセイシュであることの予見が巫女の発動か?これを証明する手立てはない」「故に、レンに問う、汝のこれまでの予見のように、具体的な証明を予見せよ。トオルが、真にキュウセイシュであるという予見を、ここでして欲しい」
8人のジャッジマンは、全員が着座した。
「巫女は自分の意志で発動しない」
レンが静かに語る。ジャッジマンは微動だにしない。
「さて、レンに対する異端の嫌疑を述べる。レンは器官を有しない」
ジャッジマンの全員が、すべからく、起立する。
「レンがトオル以外の者と交接が出来ないことは、そこにいるハデスが昨日、それを証明した」
ジャッジマンは起立したまま微動だにせず、トオルが顔をあげ、総帥を驚いたように見る。
「しかしトオルと交接が今だ成り立っていない」
やはり微動だにしない、ジャッジマン達。
「これは突然変異の、極めて研著な特徴の一つである。とともに、レンは手当てと称し、負傷した者たちの悪化を食い止める所業を、働いている。これも、突然変異の研著な特徴の、半分を現している」
微動だにしないジャッジマンが続いている。動議に対し、最終的に座ったままが真、立ったままが偽。この結論にトオルもレンも否定出来なければ、早々に二人の異端が、言論統制の名において、確定してしまう。
統治は目をつむり、祈るように空を仰ぐ。経たな反論は、根拠がなければ、詭弁として扱われ、集団に対する煽動とみなされる公算が強い。
「よって、レンとトオルを、異端と処す」
四人が、ゆっくりと座った。それを見届けた総帥は、口を開いた。
「ただし、レンがトオルと交接できるか否か。さらには、トオルの発現がなにか、明らかになるまでは、幽閉しない」
座った四人が、ゆっくりと立った。
場は、水を打ったように、静まり返った。
エデン、そしてレン。
この二人はシティの『みちしるべ』と呼ばれ敬意を評されてきた。
エース、そしてトオル。
ゲンプク前から、この二人を『れいめい』と人々は称し、称えてきた。
それがほんの数夜で、歴史に名を刻む宣告が確定することとなった。
「最後に言論統制はハデスを、キュウセイシュと認定する」
異端審問の場で始めて、どよめきが起きた。
ジャッジマン達は、お互いのベールに包まれた顔を見合す。
スクリーンが突然投射され、ハデスの、あらゆるデーターが、映し出される。
その時、
耳をつんざく号砲が、辺りを包み、いつまでもこだました。
ハデスの、咆哮であった。
これもまた歴史上、前代未聞の出来事である。
「ハデス!」
総帥が、禁を破る。
「総帥」
その言葉に続いて発せられたハデスの言葉は、時間を止めた。
「キュウセイシュは、トオルだ」
永遠の一〇秒が過ぎた。マザーが派遣したジャッジマン8人が、ブンと掻き消される。
「ハデスよ、自分の言っていることが、わかっているであろうな」
「総帥。間違いない。キュウセイシュは、トオルだ」
茶番だ!
まるでその声が、合図かのようであった。
突然補佐役の二人、ミスラとショウキが席を立ち、円錐状の階段を走り降りる。
続いてあらゆる入り口から、総帥の部下である者たちが、姿を現す。
なにか謀が、始まろうとしていた。
ショウキが叫んだのと、マザーのビーコンが、再び鳴り響いたのが、同時だった。
一種警戒態勢を告げる朱の明滅とビーコンの波長。
マザーの声が全てのシティにこだまとなって広がる。
「エリア5、エリア5にビジョン襲来。高度4000.現在時刻より、推定10分後。
不着により推定されるダメージ、エリア3までの壊滅」
総帥が叫ぶ。
「迎撃隊は、ハデスとガイア。援護にシャークが入れ」
「ガイアは治療中です。対応できません」
統治も叫ぶ。
「ではトオルとレンを、同行させよ」
ビーコンが止まりマザーの発言が繰り返され、カウントダウンが始まった。
千客万来の、異端審問が踊る。総帥が慌てて指令を出した。
「ハデス、トオルを連れて行くように。シャークは援護を。レンは被弾せぬ場所で待機」
時間が、さらにそのギアを、加速させる。
出 撃
ドームが開いた。
コロシアムそのものが、瞬時に移動を開始する。
「ゥワァオ」
まだ上手く話せないハデスが、トオルに近付く。
春霞みのような目で、トオルはハデスを見上げた。
「わかるな、トオル」
「…ハデス」
「どうした、トオル」
「おまえ、ハデスだよな」
「おい、トオル、しっかりしろ。エリア3までが、壊滅だぞ」
「どこが、キュウセイシュだ」
「なんだって?」
「おれのどこが、キュウセイシュなんだ?ハデス」
「おい、トオル、おまえ自分でわかってなかったのか」
「なにがだ?」
空を仰ぎ、天地を揺るがしてハデスが、ふたたび咆哮した。
「トオル」
「…、うるせーよ、ハデス」
「おまえにかかっているんだ。トオル」
「意味がわかんないよ、ハデス」
「おまえは昨日、オレのあらゆる機能を無力化した」
「???」
「トオル、おまえは昨日、オレを無力化した」
「どういうことだ」
カウントダウンが警戒音に変わる。見たこともないマザーが、まるで、横にいるようだ。
「ただちに出立せよ。さもなくば、70パーセンタイルの確率で、エリア3までが消失」
答えるようにハデスの咆哮が、大地を揺るがす。ハデスはヨダレを撒き散らしながら、トオルを振りかえった。
「トオル、オレは強い」
「ああ、強いよ。最強だ」
「トオル、だがオマエには、到底勝てない」
うっとトオルは言葉を飲んだ。まぎれもなく、さんざん言葉を交わしてきたハデスの、声色だった。ハデスの情動が、その声色を通して流れ込んできた。
「昨日オレをくたばらしたように、ビジョンを頼む」
あれは単なる自爆だろ?トオルはゲンプク前のハデスそのものの眼に気圧され、言葉を飲んだ。
「おまじないを」
「??」
「ひとつ、感情を…」
「ああ、」
「あれをやって、ビジョンを諌めてくれ」
「あれのこと?あれでいいのか?」
今度はハデスが、四肢を踏ん張ると、身震いを繰り返す。まるで焦っている竜のようだ。
限りなく賭けは、高くけわしい。だが、トオルしかいない。
「わかったか、トオル」
「わかったよ」
「わかったのか、トオル」
「わかった、わかった、昨日を再現すればいいんだろ!」
さぁと、ハデスは跪き、トオルに背を向ける。
つかまる目的で触れたハデスの感触に、トオルは打たれ竦んだ。
「しっかりつかまれよ」
肉を咀嚼中のような、ハデスの声。
コバルトの空、無風。
刺さるのを怖れるようにトオルは、爪の裏からハデスの真っ黒な背毛に分け入ると、手のひらをもぐらせ、泳がす。
鯨鬚のようにしなりがあって、硬さはどんな獣より硬い。しなやかで、刺さるようにトオルの柔肌を威嚇する。指に絡めると、すぐに巻かれた指が、脈打つ。
「ゴソリ」
と、音をたてたように獣毛の下の筋肉が、海面に浮上した鯨の背のように手の中をうねり、あわてて手をそらす。
トオルのこわばり。声をかけようとして言葉が定まらず、ハデスはゴウと息を吐いた。
「トオル」
「…」
「トオル」
「すごいな…」
振り向くと、冬の深い湖面のように澄んだ瞳が今や、風雨にさらされ騒ぐもがきに変容している。
「トオル」
「…おう」
「オレじゃないだろ」
「…ん?」
「変異なんて、あたりまえなことだろ」
「あぁ」
「特別なのは、おまえだろ、トオル」
「ハデス」
絵空事のようなことにしか思えず、トオルは言葉を飲み込む。
「頼むぞ、トオル。昨日を再現すればいい」
「あれを、か?」
「そうだ、おまえだ、トオル。オレじゃない」
「…」
鋼の重厚な鎧を手にしたはずのハデスは、妙な既知感に襲われていた。
ゲンプク前と、少しも変わらぬままの、軽いトオル。
トオルの強烈な回し蹴りが、斜めに顔を薙いだ時の、爆発した鼻の奥の痺れ。飛び関節に抗った時に、突き抜けた鉄柱のような痛みと、強烈な骨の軋み。ハデスは今でもそれらの感触を、覚えている。僅かな力の差を決定付けた、トオルの、決定打。
『あと、少し』
そう思い、手を伸ばし追い続けていたトオルの背が懐かしい。
今ではもう畏怖すら感じないほどに、その背は、手の届かない異次元に行ってしまった。
『キュウセイシュはおまえだ』
ハデスが、もっともトオルに体感させたがっている言葉。その感触がうまく言葉に伝えられないままハデスは、次のアクションに移行する。トオルの瞳に写った情景が、的確な言葉を投げかけない故に悪い結果を引き起こすような気が、ハデスはしてならなかった。なによりトオルの瞳に写った小波を、怒涛に沸立たせる予兆が恐ろしい。
『オレなら』ハデスはごちる。
『オレなら、こんな変異になぞ、微塵も執着しない、おさらばだ』声は発せず、ハデスは続ける。『どんなに強くとも、ビジョンは必ずそれを凌駕する。オマエはそれを、根本から覆す、それほどのものだ、おまえの変異は』
「力なんかじゃ、ない、トオル」
やはり、声にならない。
遠慮がちだったトオルが、身体を安定させようとして、ハデスの背に腕を巻きつけてくる。
力比べなどという次元を超越した能力の発動。
今この世界で、トオルの発動の威力を、最も正確に理解し、評価していたのはハデス一人であった。そして、その威力を、もっとも不当に低く、評価していたのは、トオルに他ならない。
「トオル」
ゴウとハデスの声が鳴った。
ゲンプクは甲高いハデスの声色を、こんなにも力強く、ヘビーに進化させる。
顔を近づけると、松の葉に刺された痛みで、トオルは竦む。
「トオル」
「すごいな…」
機関車のいななきのように、筋肉の下から吐き出されるハデスの息吹が臭い獣そのものだ。
振り向くハデスの顔に連動して、太い繊維の筋が引き絞られ、トオルの神経を、針のむしろで包み、トオルはおののく。
「トオル」
「…おう」
震える呼吸を、静かに吐く。
「オレじゃないんだろ」
なんの事だか解らず、自分のミスを探すトオル。
「…ん?」
「変異なんて、あたりまえだろ」
同じ言葉に共感できないまま、トオルは同調する。
「あぁ」
「トオル、おまえだイギョウは」
「…」
「頼むぞ、トオル」
また、試されるんだ。
トオルは震え目を閉じた。
サッと空が陰り、飛来したシャークが斜め前に、スクっと立つ。
「いくぞ」
この、壮観な在り様。
「オッケー」
サポートというには、あまりに圧倒的な、衣。
「さあ、出撃だ!」
それに引き替え、なんとヤワな肌に布、小さな自分。
やはり自分は、シティにとって有能か否か?フルイにかけられるのだ。
『それが、ちがうだろう』
ウォン。
地面を大きく蹴って跳躍した衝撃に、おもわず顔を、痛みの束に摩り付けながらトオルは、どこからか振って来たエースの声を聞く。
『自分を受け入れる。隅から隅まで、自分にする。そして、立つ。そして信じる、今の自分こそが、ありたい自分を作り上げてきた、その姿であることを』
これが、ありたい自分か?『そうじゃない』またエースの声が、聞こえたような気がした。
グングン高度が上がり、ゴウと音が、渦巻く。耳の奥の膜が、小さくパンパンはためく。
『意味が違うだろ』今度は自分の、しかし借りてきた声。だからもう、自分を封印しなければならない。自分の感情を、封印する。自分の怖れを、封印する。自分の願いを、封印する。そして借りてきた言葉で、借りてきた自分を、切り張りする。
『感情を腹の底に、落ち付かせ、整える』『息を吐き、意志を産み、呼吸によって、大きく膨らませ身体に行き渡らせる』
『それをクールに留めて、凛と立つ』『最後に脱力し意志を暖かく熔かし、全てを包み込む』
言葉が踊る。薄っぺらな小さい紙ヒコーキになって、踊った言葉が、そこらに落ちて、屑になる。
『おまえが、キュウセイシュだ』
そう思いたい。そう思いたい。
「でも、いつまでたってもぼくだけが、ぼくのままじゃないか!」
速度が早過ぎる。高度が高過ぎる。手の痛い、顔が痛い、寒い、うるさい、呼吸が苦しい、息が吸えない。
顔を上げて息を吸おうとすると、身体全体が、引き剥がされそうになった。
ハデスであることを忘れてトオルはしがみつく。
体感がもたらした生理が、トオルをトオルに引きもどした。
それでもトオルは必死でまた、薄っぺらな紙をかき集め、痛い所にはろうとしていた。
キュウイーン
コバルト一色の空が鳴き、割れて黄色い光が射し込むと、空からベロが垂れる。
手立てはもう、他になかった。言論統制達にも、シティの全てのゲンプク後の住人たちにも、ビジョンの出現の予兆が、手に取るように感知できるまでの、パルス量だ。
エリア5の空が、突然縦に裂け、閃光が走った。
その縦の光の裂け目の前で、光沢のない、黒銀の両翼が急停止する。
トオルの下半身が滑って、ハデスからずり落ちる。
ヤァィーン
まるで空全体が、悲鳴した。
空を見上げていたゲンプク前の者達すら、竦み上がった。
身体につもった竦みを振るい落とすように、トオルは固く瞑った眼を上げて、ハデスの背に立つ。
そこに頭上から、デレッと、黄色いヒトデのようなカーテンが、降りてきた。
トオルは反射的に身構えた。トオルに沁み付いた格闘のキャリアが、無意識にトオルを構えさせた。
『対峙できない』
トオルは焦った。
『でかすぎる』
『対峙するのではない』
聞こえないエースの声が、絶叫した。『構えを解け!』だが、解けない。トオルは防衛本能の固まりとなっていた。
喉の根本で、コクッコクッと、心臓の脈動。
息を大きく吸い、慌てて吐く。
長く吐こうとすると、すぐ吐く息がなくなり、むやみに呼吸が粗くなる。
「おちつけ、トオル。感情を腹の底に…」
「わかっているよ」
なにかがトオルの中で弾けた。
それに黄色ヒトデが呼応する。
キュンと鳴って、一瞬で角度を変え、トオルになおる。
脱力し、しかし我を失ったトオルがいた。焦って糊付けした言葉の紙がペラペラ落ちて行く。
『攻撃がこない。ビジョンは揺らいでいる』
『援護するか』
『いや、あらゆる攻撃は無効だ』
『ビジョンが変異するぞ』
『トオルを立て直せ』
『時間をかせげ』
『動いた』
黄色のカーテンが凝縮しはじめ、トオルが眼を開けた時には、丸まったカーテンが、咆哮した。
「ヤーーーン」
空気が震え、トオルが全身を硬直させた。
それにビジョンが呼応する。
「ダメッ」
クリームの翼で空を叩き、レンが離陸した。
レンを制止する者は誰もいなかった。
丸がキュっと尖がる。
「ヤメテ―」
レンの絶叫が、空を木霊した。
ハッとそれに、トオルが呼応した。
急速に状況がトオルの身体に流れ込んだのと、同時だった。
消えたあたりに火球を放り込みながら、シャークが盾になる。そこに光が殺到した。光が細くなり消失する直前に、シャークを直撃する。
トオルは宙に放りだされ、遥か下方で、レンに抱きとめられた。
落下しながらハデスは、消え行く意識の中で、シャークの、食いしばりなお向かっていく凛々しい横顔と銀色の眼を、思い出していた。ハデスは木の葉のように舞いながら、対岸の、山腹の木にひっかかる。
横顔をさらしたままシャークが、この世から、消失した。
「人類誕生~レンとトオルの物語」第4話 URL
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