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徳の誤解

徳について書くと、辛辣な反応を起こす方が毎回いらっしゃいます。

勉強している方こそ、徳が高いのでしょうか。

人間界では、徳を積むという事を、教えを信じて行っている方々がいらっしゃいます。

その行いを否定するものではありません。

わたしの考えですが、徳と、意識・魂の成熟はほぼ同義のように思います。

これは、教えを勉強せずとも、日本人のほとんどの方が知っている事です。

そんなことないですか?

では、

徳が高い人

とは、どのような人でしょう。身近にいる方で、思い当たる方がいらっしゃいますか?

そこに意識を向けるだけで、そこに一定の理解が在る事に気付くかもしれません。

また、その方が徳を積むために教えを信じる事が必要でしょうか?

それもなんとなく感じることができるのではないでしょうか?

みんな知っているのに、それに向き合わないで、的外れな所作をする・・・

徳を積もうと長年努力した方にとって、それが違うとわかる事には、怒ってでも、向き合いたいことではないかもしれません。

教えの奴隷であるとき、その教えの本質は見えません。

なぜなら、教えの奴隷は、教えを否定されたように感じると、信じる考えを守る為に、何らかの衝動に駆られ目を曇らせます。

教えを信じて、徳を積んできたのに・・・否定されて憤慨するなら、徳があるのでしょうか?

以前も、そんなことがありました。

ゴミを拾う事が徳を積む事ではない・・・というような話だったかと思います。

徳は、ゴミを拾う事で得られるものではない。

ゴミを拾う心持ちにかかっているという事。

ゴミを拾ったら、徳が得られると考えるなら、それは徳どころか、餓鬼の行いなのかもしれません。

お金を貯める事と、徳を積むことが同じような感覚であるなら、その徳はいったいどんな徳でしょうか。

徳を積むなら、この人生が天国のようになるはずです。

否定されて、憤慨するなら、地獄の所業ではないでしょうか。

一生懸命やって、何を得たのでしょうか。


悟りとか、徳とか、こういった話をすると、噛みつきたくなる方は、必ずいます。

勉強で、教えで、何を得ているのか知りたい気もしますが、そういった方と縁がありません。

晒していませんが、ごくたまに、そういったコメントをいただきますが、その言葉はわたしから離れたところを通過していくように感じます。

そういった方のプロフィールは、葬儀屋だったり、それらしい事を書いている方々です。

教えを学ぶことで、柔軟性が無くなっているのを見せてもらっているようです。

わたしが、教えを学ぶことについて、お話しする時、このような体験から得ている事も、役に立っています。


お釈迦様は、間違えた教えをしていません。

それを聞いた者が間違えて解釈しているだけです。

その間違えた解釈を教えとして、また間違える・・・

2500年も経てば、随分繰り返されます。

たまに、悟りを開いて、その教えを理解する方がいます。

しかし、その理解を聞いたものは、また、間違えた解釈をするのです。


大切な事は、教えを理解する事ではなく、教えを在る様にする境地に立つことです。

徳は得るものではありません。

自分自身の内側との繋がり。

仏性の現れと表現すれば、よいでしょうか。

厳しいところで奉仕している方は、それに気づいているようにも思います。

日々の生活で気づいている方もいるように思います。

その方々は既に、徳が高い方々です。


徳が高いという言葉をたくさん使う事に、バカバカしさを感じますので、この辺にしたいと思います。

一生懸命向き合って生きている方は、そのような言葉を知らなくても、そうなのですから。




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