私以外私じゃない

嘘つきは泥棒の始まりだ。

という、ことわざは有名ですね。

平気で嘘をつくようになると、盗みも平気でするようになる。嘘をつくのは悪の道へ入る第一歩であるということ。

嘘とは、一体悪いことなのでしょうか。


嘘をつかないで生きる

私は昔、嘘がつけない子供でした。

「髪の毛を思い切ってショートカットにしたんだけど似合うかな?」

友達にそう聞かれ私は、ロングの方が似合っていたなと思ったら、「私はロングの方が似合っていたと思うよ!」と正直に言っていました。だって、聞かれたし、本当にそう思ったからです。

「浮気したらバレて振られたよ!あっちがまめに連絡してくれないし、わたし悪くないよね?」

と愚痴られたら、「いや、価値観は人それぞれだけど浮気して振られたなら、あなたが悪いし、しょうがないと思うよ」と言っていました。そうだと思ったからです。

私は嘘が下手で物事は正直に言うのが正しいのだと、ずっと疑わずに子供時代を過ごしました。

今では、そうやって正直に物事を発言していたから、私は学生時代イジメにあったのだと思っています。


ですが、人間は嘘をついた方が良い時があるのだと、正直なだけでは生きられないのだと、初めてアルバイトをした時に学びました。

自分が悪くなくても謝り、思ってもいない感謝を言う。実際の仕事というものは、人間関係を良好に保つと言うのは、そういうものなのだと知りました。


優しい嘘

私は片親で、育て親はおばあちゃんです。

「ちょっと今日はご飯の味が濃くなっちゃったかも知れない」

ある日おばあちゃんにそう言われました。確かに、その日のおばあちゃんのご飯は味が濃くていつもより少ししょっぱかったです。でもそう言ったおばあちゃんに、私は「そんなことないよ!おいしいよ!」と言いました。なぜなら、大好きなおばあちゃんに喜んで欲しいからです。おばあちゃんに暗い気持ちになって欲しくないからです。

おばあちゃんがネガティヴなことを言っても、私は全て肯定していました。

でも、気づいたんです。これって、嘘ですよね?

私は嘘をつけないと言いながら、ずっとおばあちゃんには、喜んで欲しいからと本心ではないことを言っていたのだと、ある時気付きました。私は、嘘はつかないと言いながら、おばあちゃんにだけはずっと嘘をついていたのです。

私はおばあちゃんに、ずっと嘘をついている。

お世辞とでも言うのでしょうか。ただ、これは、よくないことなのでしょうか。

私の小さな嘘で大好きなおばあちゃんが笑顔になってくれるのです。私の小さな嘘で大好きな人が笑顔になってくれるなら、私は嘘つきでいいと思えました。

私はそれから、正直に全ての物事を言うよりも、思っていないことを言うのが正解なのかも知れないと思いました。


お世辞

「髪型を変えたんだけど似合っているかな?」

「似合っているよ。前のもかわいかったよ。」(前の方がよかったし、今の髪型は似合ってないよ)

「これ食べてみて!おいしくない?」

「美味しい!ありがとう!」(苦手な味だし好きじゃないなあ)

「新しく彼氏ができたの?見て!かっこいい?」

「かっこいいし、優しいそうで素敵な人だね!おめでとう!よかったね!」(たぶん中の下くらいだし、この人はあなたの友達に告白して振られていたし、たぶん良い人ではないよ)


私はだんだんと本心を隠して、嘘をつくことに慣れていきました。

この人は、きっとこう言って欲しいんだろうな。

正直に物事を言うよりも、その人が欲しい言葉を考えて、それを言うようになっていきました。

私が無意識におばあちゃんにしていた、本心を隠して嘘をつくということを、周りにするようになりました。

本当はそう思っていなくても、正直に言う必要がないと思ったからです。

最初は本当のことを言ってあげた方が親切なのだと、正直でいることが正しいのだと思っていましたが、それは自分がそうしたいだけで、相手がそれを望んでいないのならば、ただの自分のエゴなのではないかと思いました。

もちろん正直に言って欲しそうな人や、正確なアドバイスが欲しい人には正直に思ったことを言います。ただそれは、本当に親しい人間か、かなり信頼関係がないと難しいと思います。


「似合っているよ」「かわいいよ」「大丈夫だよ」「辛かったね」

そうやって、私が小さな嘘をつくだけで、少しお世辞を言うだけで、相手は笑顔になってくれるのです。わざわざ正直に全てを言わなくても、相手がそれで嬉しい気持ちになって喜んでくれるなら、そちらの方が良いことなんだと思うようになりました。


私はこれを、優しい嘘だと思いました。


優しい嘘

学生時代のいじめのnote『健全な人間は他人を虐げないのか』を、読んで頂いた方はわかるかも知れませんが、子供時代の私は全然違います。嫌いな物は嫌いで、興味がないものには興味がなく、好きな物は好きな、率直な子供でした。わざわざ遠回しに物事を言う意味もわからなかったですし、ストレートしか投げらない人間でした。


お世辞を覚え、時には嘘をつき、物事を正直に言わないようになった私は、優しい嘘をつくのが当たり前になっていきました。すると周りからは「悟りちゃんは優しい!」と言われるようになりました。

他人に好かれることに味を占めてしまった私は、今度は他人から嫌われることを極端に恐れるようになっていきました。他人にはできるだけ好かれていた方が人生は過ごしやすいと、生きやすいと、知ってしまったからです。

他人から嫌われたくないという気持ちからか、「本心を言ったら嫌われてしまうのかな」という考えが加わるからなのか、「きっとこの人はこう言って欲しいんだろう」と勝手に予想して、その人が欲しい言葉をかけるようになりました。

いつからか、私は「相手を喜ばせて気分よくさせてあげる言葉」を常に考えて発言するようになりたした。

それは最初、とても疲れることでした。


たくさんの嘘

元から私は嫌味や人の悪意には鈍感で、人を疑うことを知らず、騙されやすく、搾取されやすい人間です。だから、嘘やお世辞は得意ではありませんでした。

ですが、私は、たぶん"その人がその時に欲しい言葉"を予想してあげるのが、意外と得意になったみたいです。

人からは好かれやすいようになりました。本当に好かれていたのかは、わかりませんが。ただ、表面上、私は友達のような、知り合いのような人はたくさん増えました。そして人付き合いというものが上手くなりました。

この世界は本音で、正直に、率直に、全てを言ってしまっていた時よりも、少しだけ生きやすい世界になりました。


そんな生活が当たり前になっていき、いつからか私は、嘘と自分の本心の境目がわからなくなってしまいました。

嘘をつき続けているうちに、私はそれが自分の本心なのか、嘘なのか、いつからか、わからなくなってしまったのです。

本心ではこう思うけれど、言わないでおこう。
お世辞か嘘だけど、本心ではないことを言おう。

最初は、本当の自分の考えと、嘘やお世辞は分けて考えていたはずなのに、いつからかそれらは、混ざってしまうようになりました。

嘘が苦手な私は、"嘘をついている"という罪悪感からか、それを本心だと、自分で思い込むようになりました。

「楽しい」「嬉しい」「友達は優しい人」「周りはみんな良い人」

建前、お世辞、嘘。

不器用な私は、それらと自分の本心を分けることができなくなり、いつからか自分で自分に嘘をつくようになりました。

人は他人に対して自分を偽るうちに、ついには自分自身に対しても偽ることになる。

フランスの公爵の言葉ですが、私はまさにその通りになりました。


ですが私は、たぶんその時、幸せでした。

宗教も、詐欺みたいな自己啓発セミナーも、嘘のスピリチュアルも、本当にそうなんだと信じている間って幸せじゃないですか?

信じる者は救われる。

なんて言葉もありますよね。気づかない方が幸せなこともたくさんありましたし、まだまだたくさんあるのだと思います。

私は偽善者で、嘘つきですが、嘘はいつからか本心と混ざり合い、"嘘が本心"になりました。

それに気づいていなかったうちは、ただの能天気なハッピーバカだったと思います。元から自己肯定感の低い私は、騙されたとわかった時も、裏切られたとしても、「悲しいな」と少し思うくらいで、"今まで仲良くしてくれてありがとう"としか思わないような、病んだことすらないくらい、本当に能天気に生きていました。


自分を偽るということ

自分自身を偽るのは、嘘をつき続けるのは私みたいな不器用な人間には難しいです。

そんな私が、今も水商売をしています。明るく楽しく接客をしてお金を貰うお仕事です。「君はずっと笑顔だね」とよく言われますし、「面白い」「明るいね」と言われます。

それと同時に私は、今も鬱病です。家に帰ると生きているだけで、つらくて、苦しくて、なにがつらいのか苦しいのかすらもわかりずに、ただただ早く死にたいと思います。

本当の私は、どこにいるのだろう。

そう考えても答えは見つかりそうにありません。考えるだけ無駄なのだとすら思います。

全部本当の私なんです。

その時、楽しいと感じていれば、それが思い込みだとしても、その時は楽しいですし、明るいですし、嬉しいんです。その時、つらいと、苦しいと感じていれば、死にたいですし、消えてなくなりたいんです。


私以外私じゃない

あえて言わないということ。お世辞を言うこと。嘘をつくこと。どこからが嘘で、どこからが本当なのか、私にはわかりません。嘘をつくのが悪いことなのか、優しいことなのか、結局それ自体も、私にはわかりません。

本当の自分でなにが嘘なのかなんて考えるのも辞めにします。その時私が感じていることが、その時の本当の私なのだと思えばいいのだと思いました。

今日は今日の思いや考えや感情があって、明日には全く違うことを思い、考えるのかも知れません。楽しいと思った数時間後には、急に死にたいと思うのかも知れません。

このnoteも全く違う考えや思いを、その時の気分で書くと思います。配信も明るい時もあれば、暗い時もあると思います。

私のnoteや配信は無料コンテンツです。読みたくない人は読ませければいいし、聞きたくない人は聞かないという選択ができます。

だから、もう少し気楽に考えて、noteも配信もその時の気分で好きにやらせて頂こうと思います。


私は鬱病で、自殺志願者です。次いつ死のうとするのかも、いつまで生きるという選択をいつまで続けられるかもわかりません。

そんな私には、自分を見つめ直す必要も、未来を見つめる必要も、本当の自分がなにかなんて考える必要も、ないのだと思います。

死後にものをいうのは何年生きたかでなく、いかに生きたかだ。

そう、リンカーンはそう言っていましたね。

ですが、哲学者のエピクロスも言っていたように、死ぬということは私にとってなにものでもありません。誰にとっても"死"というものは、なにものでもありません。私は、まだ死んでいないですし、私が死んだ時に、私は、もう存在していないからです。それは全ての人が同じだと思います。

私はリンカーンとは違って、自分の死んだ後に、他人にどう思われようか、いかに自分が生きたかなんて大それたことなんて、どうでもいいです。

今日たまたま生き延びた。たまたま死のうと実行に移さなかった。たまたま生きて、無駄に生きています。私にとっての今日なんて、そんなものなのです。


そんな私には、リンカーンの言葉よりも、ジミ・ヘンドリックスのこの言葉の方が好きです。

死が訪れた時に死ぬのは俺なんだ。だから自分の好きなように生きさせてくれ。

私ももう少し気楽に、好きに生きて、好きに死なせてもらいますね。ただ死にたくならない日が、少しでも増えたらいいとは思います。








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