図書の国  ― プルーフ・リーダー ―

今日も一通りの物語を読み終えた。

「読み終えた」とは言っても、僕のこれは仕事なのであって、楽しく読書するという行為からは程遠い。

気付けば部屋は暗く、僕の机以外の照明はすべて落とされていた。いつの間にかみんな帰ってしまったようだ。

だだっぴろい部屋、それぞれの机に山と積まれた物語たち。彼らはこれから世界へと羽ばたいていくたまごたちだ。僕たちはそんな彼らが人々にしなやかに受け入れられるように、ほんの少し体裁を整える手伝いをしている。

世界中の本が一堂に集まり、生まれ、死んでいくこの王国の中で、純粋に本を、言葉を楽しめない「校正者」と呼ばれる仕事はあまり人気職ではない。時にはいつつながるやもわからない著者の電報を待たないといけないこともあるし、そのために何度もこの机で月を眺めた。

今夜もこの机から、月を眺めてしまったな。

椅子にかかった上着を羽織って、僕は机と窓の月に一時の別れを告げた。

「今日も遅いのね!眠ってしまうところだったわ!」

ドアを出ると一匹のみつばちが僕に語り掛けてくる。

図書の王国と呼ばれ、本で国が構成されるこの国では、人の感覚だけで街を歩き回るのは非常に危険なことだ。文字通りの言葉の迷宮。僕の同僚にも、もう何日も顔を見ていない人も多い。大方迷い込んだ先で別の人生を歩んでいるのだろうけれど。

だから、人はそうなることを最小限に留めるため生まれ落ちてすぐ、誕生月やら、生まれた場所やらを照らしあわされて、道案内役のパートナーをあてがわれる。

僕の場合はこの金色みつばち、名前はマリー・ゴールド。母の好きだった花から名づけられた。

「仕方ないだろ。今日も連絡のつかない著者が15人もいたんだ」

「昨日までは7人だったのに増えちゃったわね!その前は5人、その前の前は4人だったかしら!でも最高は57人でしょ!それを思えばなんてことはないわね!だってその――」

マリーは僕の耳元で気持ちよさそうに羽を動かし、言葉を紡ぎ続ける。僕はこれを「マリーの相変わらず早口おしゃべり」と呼ぶようにしている。遮らねば、道案内どころか一歩も前に進めない。僕はこういう時、かならず食べ物の話をするようにしている。

「マリー、お腹がすいた。餓死しそうだ。マダム・モーガンの居酒屋へ連れてってくれ。今晩はあそこのロースト・ポークの気分なんだ」

「あら!死んじゃうのは可哀想だわ!こっちよ!」

今日は歩き出すまで、5分か。まずまずだろう。

道案内をマリーに任せて、僕はやり残した仕事の本を開いた。

視界の端でマリーの金色の鱗粉をとらえながら、歩き、ページをめくる。我ながらなんと器用なことかと思う。もう何年もこんな帰路をあるいているのだから。

香ばしい匂いがしてきた。

ロースト・ポークはもうすぐだ。

店はもうそろそろ閉店という頃合いで、店内に人はまばらだった。今年で80になるとは思えない足取りでモーガンさんが、特製グレービー・ソースのたっぷりかかったロースト・ポークを大皿いっぱいに持ってきてくれる。付け合わせのこれまた大盛りマッシュ・ポテトにソースをからめて、オーブンでじっくりじんわり焼き上げられた厚切りのポークと一緒にこれでもかと頬張るのがここの流儀だ。

「うん。美味いよ。週に1回はこれを食べないと」

モーガンさんは、しわくちゃの顔をもっとしわくちゃにして、マリー用のハチミツを小皿に注いだ。

「当たり前じゃないか。あたしの料理に外れはないのさ。それにこのロースト・ポークのレシピは、あんたのひいばあさんから教わったものだからね。余計あんたの口にあうんだろう。あんたと同じ、綺麗な銀髪に鈍色の眼の人だったんだよ」

「そうなんだ。初めて聞いたなぁ。僕のひいばあちゃんがモーガンさんの料理の先生だったなんて」

「あぁ、そうさ。素晴らしい人だった。優しくて、知恵もあった。あんたとおんなじ、地質学の本が好きでねぇ。ほうら、あんたが読み残してるあの本だって、もとはあの人のものなんだよ」

そう言ってモーガンさんは、本棚の一冊を指さした。

『ジョルジオ・ステファンの鉱石いろいろ』。なつかしい本だ。たしかここで最初に読んだ一冊。またあれも読まないといけないな。ラピスラズリの章で読み止まってるはずだ。

「また、仕事が空いたときに読むよ」

「最近、働きすぎなんじゃないかい?この間もこんな時間だったじゃないか。そんな暗い顔して、ご飯は食べるもんじゃないんだけどねぇ」

マダム・モーガンの言葉が、心にしみた。

店を出ると、夜風がふき出していた。コートの襟をたてて、軽く身震いする。

「今日はこの後、家に直行でいいのかしら!」

マリーの言葉をしばし頭で浮遊させたあと、僕は口を開いた。

「いや、マリー。今日は僕の肩にいてほしい。そして、僕がどこへ行ってもどっちへ曲がっても、そこで静かにいてほしいんだ」

「え、それってどういう――」

「マリー、みんなこの街を、この国を言葉の迷宮って呼ぶ。でもね、今わかった。迷宮は僕らの言葉と心の内にしかなかったんだ」

マダム・モーガンのロースト・ポークが食べおさめになるのは寂しいけれど、それでも僕は僕なりに不器用に歩き出してみようと想う。この世界にちゃんと向き合ってみようと想う。

きっとみんなそうなのだろう。迷い込んだんじゃない。進みだしたんだ。

今なら、はっきりとわかる。

ふいに、僕は振り向いた。

店の窓からマダム・モーガンの店じまいをする背中が見える。

その優しく、強い背中に僕は一度会釈して、歩き出した。

もちろん、『ジョルジオ・ステファンの鉱石いろいろ』の、ラピスラズリの章を読みながら。

僕の、僕自身の校正は、ここから。


※「モノカキ空想のおと」にも掲載しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?