大内青巒著「六祖法宝壇経講義」を読む(第一 行由-02 五祖に参謁する慧能)

[壇経講義本文]

壇経1-7

六祖、黄梅の東禅寺に到り、五祖弘忍に参謁するや、
五祖いきなり尋ねて曰く「貴様は何処どこの者だ、何の用事があって来た」
六祖答えて曰く「私は嶺南新州の百姓、はるばる遠方より参りましたは、他の用にありませぬ、ただ仏に成りたいと存じます」
五祖曰く「嶺南人か、この獦獠えびすめが、どうして仏になれようぞ」(獦獠とは田夫野人を賤しむる語にして野蛮人というがごとし(獦獠は「かつりょう」と読む、えびす:未開人の意))
六祖曰く「人には南北あれども仏性には南北なし、賤しき私と和尚とは違っていても、仏性に何にも差別はありますまい」
天桂の言えりしごとく、祖曰汝是嶺南人以下四十四字は、伝灯録によるを可とす、伝灯録五祖の章に曰く、

伝灯録1-8

[補足]

(「参謁」以下のやりとりを書き下し文に起こす)
師問うて曰く「汝いずこより来る」
曰く「嶺南」
師曰く「何をもとめんと欲す」
曰く「ただ作仏を求む」(作仏:仏となる)
師曰く「嶺南人に仏性なし。いかに仏を得ん。」
曰く「人に南北あり、仏性あにしからんや。」

[壇経講義本文]

世間、禅に参ずる者、常に趙州狗子無仏性の公案を拈弄し、いまだ黄梅の無仏性を参究する者あるを聞かず、惜しむべしとなす、いわゆる趙州無の公案に曰く「狗子(イヌ)還って仏性有りやまた無しや、州云わく無」と、あえて問う、水に火の性ありや、また無や、花に月の性ありや、また無や、ないし仏に狗子の性ありや、狗子に狗子の性ありや、元来水はこれ水、花はこれ花、何を苦しんでか、水に火の性の有無を問い、花に月の性の有無を問うの要あらん、これを問うは余計なお世話なり、狗子仏性の有無を詮索するよりも、まず人間自性の有無を商量せよ、五祖曰く「嶺南の人に仏性なし、如何ぞ仏と成るを得ん」と、これ単に嶺南の人のみ仏性なしといえるにはあらず、尽十方界の一切衆生すべて仏性なきなり、何ぞ一切衆生の仏性なきのみならんや、三世の諸仏、歴代の祖師もまたみな仏性なきなり、既に衆生も仏も仏性なし、何をよんでか仏とし、何をよんでか衆生とせん、煩悩菩提、生死涅槃、畢竟ただ名字のみ、しかるをなお一切衆生悉有仏性と説けるを聞き、仏性の了ずべく作仏の得べきありと思わば、早くこれ両頭三面、風なきに涙を起こし、平地に骨堆を生じて、娘生の眉目に孤負せん、もしまたしいて生死を厭い涅槃を願い、煩悩を棄てて菩提を求めんと欲せば、これ尚、釣りを繰りて山に登り、斧を掲げて淵に臨むがごとくならんのみ、五祖無仏性の話、実参具眼底の人にあらざるよりは、如何ぞ這裏の消息を解せん、しかるに六祖は曰く「人には南北あり、仏性あに然らんや」と、六祖の識見妙は妙なりといえども、なお人と仏性とを別にし、衆生を仏とを隔つの嫌あり、当時いまだ到らざる所なきにあらざるか、

[感想]

後に六祖となる慧能が五祖である弘忍に初めて参謁する場面。
伝灯録の記述のほうが簡潔で端的だ。
「仏になりたい」という六祖に対して、「嶺南人無仏性」という身も蓋もない答え。
それに対して、「仏性に南北なし」だという答えは素晴らしいように思えるが、
大内居士の解説では「妙は妙なりといえども、なお人と仏性とを別にし、衆生を仏とを隔つの嫌あり」と。(南北の二元論を超えているが、)衆生と仏の二元が残っている。まだ至っていない=不十分なところがあるという。
趙州狗子無仏性の公案ではイヌに仏性が有るか無いかを論ずるが、この場面の無仏性は人間自性に仏性があるかないかを問うているので、より直接的だ。
有無、南北、衆生と仏、といったすべての二元を超えた悟りを目指すべきだということだろう。
また、正法眼蔵では、この場面について、六祖慧能ほどの方ならば仏性について問うべきだと説かれていた。


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