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言葉のことばかり【「あ」と思うとき】

雪舟の次はカンディンスキーの話です。
こっちはさらにすごい。
シュールで何がなんだかわからない。
そのよさは「説明が出来ない」んである。

いや、説明する人はいるんだろう。
良さを自分なりに解釈して、
それをコトバに置き換える技術
というのは確かにある。
しかし、この「コトバに置き換える」
ってのがクセモノだよな。と思う。

感覚と言葉

感じたことを
コトバに変換できることはすごい。
だけど、変換されたコトバだけから
感じをよみがえらせるのはむずかしい。

説明もすなわち、
感覚をコトバに置き換えているってこと。
コトバは便利だけど、
それは替わりにしかすぎない。
日本人はやっぱりコトバが好きで、
それゆえに「鈍い」。
日本のコンテンツが
コトバに頼りすぎるのも
そういうことだと思うわけです。
日本は単一民族で
「コトバが機能しすぎる」んですね。

感じることに「不安」を持ってしまう。
その自分の感覚をコトバにできないと、
それは「無いこと」になってしまう。
そんなことはないのにねえ…。

コトバだけで
「伝わる」と思ってしまうのは危険。
実は中身ではなく、その替わりの
記号だけを伝えているわけで…。

小学校の時、
読書感想文の宿題を本を読まずに、
巻末の解説だけを読んで書いたの思い出した。
それなりに書けちゃうんだが、
やっぱり空っぽだった。(今思うと)

言葉を使わないこと

カンディンスキーから話が逸れちゃったが、
やっぱりこういう芸術家ってのは、
一生かけて「感覚だけ」を
追求しつづけるのがすごい。

いろんな作品を見て結局、
これって全部ひとつの絵じゃん。と思った。

一つの絵は永遠に次の絵のための習作で、
コトバで言い表せない
自分の「感じ」を追い求めている。
ずーっと。一生かけて。
自分にはそういうことはできない。
できないから広告なんてやってんだよなー
と思ったりして…。
でもちょっとあこがれるんですよね。

周りの人に聞いてみると意外に
カンディンスキーってみんな知ってんのね…。
カンディンスキーの「あの絵」がスキ。
っていう意見を持ってる人も
へえ、いるもんだなー、
というくらいいてオドロキでした。

わかっちゃう瞬間

ある友人の話で、
彼はそれまでいろんな展覧会で
いろんな絵を見ても、
それのどこがいいのか
さっぱりわかんなかったそうです。
それがあるとき「あ」という感じ
でわかってしまった…。
それがカンディンスキーの
「コンポジション7」という
作品だったそうです。

なんでもそうですけど、
この「わかっちゃう」瞬間
ってのがあるんですね。

なんでわかっちゃったのかも
わからないわけですけど、というか、
それをコトバで説明できる
くらいなら驚かないというか…。

クラシックでも、落語でも、
能でも狂言でも、
はたまたラーメンのうまさでも、
とにかくいっぱい接していると、
ある瞬間に「あ」となる。
不思議なもんですね。

これは解説書何冊読んでもわからない。
だけどいいものに数多く接していると
わかってくるんですね。
知らず知らずのうちに
何かを学習してるんでしょうか…。

わからなくてもスキ

そして、矛盾しますけど、
逆になーんにも学習してないのに、
いきなり初対面で「あ」がくるケースもある。
とくに子供のころなんかにね。

「ボクはこれがスキだ。
 なぜだかわかんないけどスキだ」
って思ったことが、
きっとみんなあるはずです。

子供はそれが「コトバで説明できない」
ということすら考えていない。
だけど無性にスキなわけです。

コレってけっこう
人生の分かれ目だったりしますね。
コレをちゃんと持ち続けていると、
芸術家になったりできるんでしょう。
大概はいつの間にか消えていってしまう。
だけどふと気がつくと、大人になってから、
それが趣味になってたりするんですね。

オレは何度展覧会に行っても
「あ」なんて思ったことないぞ。
っていう人もいるかもしれません。
だけどそういう人も、
自分の今の趣味を振り返ってみると、
きっといつだったか「あ」と思った瞬間が
あったんじゃないですかねえ…。

「あ」ってそもそも言葉なのか?
口開けて音出してるだけじゃないか。
なんて思ったりもしますけど、
感情を文字にしたものの、
いちばん強いものだったりするので、
これこそ言葉、な気もしますね。

ああ、また長くなってしまった。
「あ」の境地には程遠いですねえ。

次回の言葉は「ヤバ」です。

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