「わからなくなってきました」の快感
以前、何気に買ってしまった本、
タイトルが『わからなくなってきました』。
宮沢章夫というヒトの書いたエッセイ集だ。
(今だと古本が安く買えますね・・)
この「わからなくなってきました」
というひとことに、妙に魅力を感じてしまう。
わからないのになぜ言い切る
このひとことから感じる余韻はなんなんだろう。
「わかる」でも「わからない」でもない、
この「なってきました」な感じ。
自分で言っているのに、
自分のことがどんどんわからなくなってゆく、
それなのにこの語尾の
妙に言い切ったはっきりした感じ。
この言葉は、野球中継でアナウンサーが
負けていたチームが追いつきそうに
なったときのコトバで、
「勝負の行方がわからなくなってきた」
ことが「わかってきた」
ということをはっきりと宣言する、
わからないのにわかってきたという・・
ホントにへんなニュアンスである。
こういうコトバを見つけるとすごくうれしい。
今回は自分が見つけたのではなく、
見つけたヒト(宮沢さん)を見つけたのだが。
なってきた感じ
この「わからなくなってきた」状態が、
なぜかとっても好きである。
感覚的には、お酒を飲んでちょっと酔ってきて
完璧に酔っ払ったところまでは行ってなくて、
それでも自分が何を言ってるのか、
「わからなくなってきた」ころの感じ。
これってちょっと気持ちいいのである。
大概そういうときって自分を失ってるので
あらためて「わからなくなってきた」ことを
自覚することはないんだが、
ごく稀に「あ、わからなくなってきた」と、
気がついて図らずも宣言しちゃうことって
実はある。
そのときってたぶん、
そんな自分が気持ちいいのだ。
野球中継のアナウンサーの場合は
この快感を悪用してる感じだな。
「さあ、わからなくなってきましたよ」って
明らかにこの状態を煽っている。
サンドイッチマンの富澤さんがよく言う
「ちょっと何言ってんだかわからない」
ってツッコミも同じような
わからない状態の煽りな気がする。
わかんない感じを共有したい
わからない状態っておもしろいってのを
みんな感覚的にはわかってるってことだ。
わかってるのにわからない。
なんかそれこそ
何言ってんだかわからなくなってきたが、
そういう不安定な感覚を好むところが
人間にはあるんじゃないかと思う。
ここまで付き合ってもらって何だが、
説明できない事を説明しようとしてるので
たぶんほとんどの人が
ついて来れてないんだろうと思う。
それは本当に申し訳ないと思いつつ、
なんだ?何言ってんだ?ふわふわ・・
って感覚を共有できれば幸いです。
無責任ですが。