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「害」という言葉の暴力性

知人の男性が性暴力の加害者であるというネットニュースを読んだ。そのことや記事の信憑性については、あくまで個人間の問題であるということに尽きるので、コメントは差し控えたい。

ここでは一般論として、被害者と呼ばれる人と加害者と呼ばれる人について言及したい。

私は昔ブログで、「被害者も同じ人間である。加害者も同じ人間である。」と綴ったことがある。このニュースに関して私が思い浮かべたのはその言葉である。

私は加害者側の立場に回ったことがある(大きなものだと、親族に暴力を振るった)。それは病気で我を失っていたからだから仕方がないというのが結論であり、親族も「病気が良くなってくれればうれしい」という反応だったのだが、私が加害者の側に立った時、それはもう辛酸を舐めるような、とだけでは表しがたいような、地獄のような思いがあった。それ以外にもSNS上で大切な友人達に罵詈雑言を並べ立てたこともあった。それが本心なのかと問われると、わからない。何を言ったのか全く覚えていないし、私はその人たち一人ひとりを大切に想っていた(はずだった)からだ。どんなに謝罪しても、今でもそのことを許してはもらえなくなり、絶縁状態になった友人もいる。

「なぜ大切な、ひとりの人を傷つけてしまったのか。」

ふとした瞬間に、このことが脳内をよぎり、心がざわつく。

加害者に人の心はないのか。そんなことはない。日々思いあぐね、逡巡し、猛省し、時には涙し、体調を崩す人も勿論いるだろう。

私は「自分がそうだったから」加害者を擁護したいわけではない。

勿論、被害者は正当な手順を踏んで護られて然りだと思う。

ただ私は、被害/加害という単純な二項対立に、時に嫌気が差すのだ。その人間関係のうちには、当事者にしかわからない葛藤や思惑があり、感情があり、その全てを「被害者擁護、加害者全否定」として裁くことなど誰にもできやしないのだ、ということを思う。

外野の人間は、とある事件について「見解」を述べる。でもそれらは「外野からの」それでしかない。そのことを深く心に刻みたい。

追記:それにしても、「障害者」と言う言葉にせよ、「被害者」「加害者」という言葉にせよ、私は「害」という文字が付く言葉があまり好きではない。そこに孕む暴力性を、わたしはやわらかな、しなやかな言葉で表現し得ない。

誰も傷つかない世の中などあり得ない。だけれど、やはり、言葉(ことば)というものは、大切に扱わなければならない。後輩がいつか呟いた、「生きているだけで、暴力」という言葉が、胸にしみる。

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