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『中井久夫集1 働く患者』 「現代社会に生きること」 60年前の宿題

 60年前の課題が積み残されていると嘆く自分と、未知の新し過ぎる問題という訳でもないので何とかなるのかも知れないと希望を持つ自分がいる。

『中井久夫集 1 働く患者』,中井久夫著,みすず書房,2017年

 昨年亡くなった精神科医の中井久夫さんの本を、ずっと以前から読み続けているのだけれど、今年はみすず書房から出た著作集である「中井久夫集」全11巻を、頭から読み通してみようと思い立った。
 この『中井久夫集』は、基本的には長くても数十ページのものが、1冊に20-40本収録されている。内容も、医療従事者でない人が読んでもそれなりに理解できる内容の論考・エッセイなので、一日一篇読んでいくと、ちょうど一年後くらいに全部読み終える感じだ。
 文章のボリューム自体は気楽に読み始められるけど、内容がものすごく濃密だから、私の頭と気力では一日一篇が限界、という事情もある(笑)。

 そんな『中井久夫集』の最初の一篇がこの「現代社会に生きること」で、最初から衝撃を受ける。
 何が一番驚愕かといえば、この文章が1964年(約60年前!)に書かれたのに、内容が完全に、インターネットとSNSの時代特有と言われがちな問題であることだ。
 1964年は、高度成長時代が終焉を迎える直前である。その時に、すでに、今言われていて「高度成長時代にはそんなことはなかった」とされがちな「生きづらさ」が存在していたことがわかるのは、なかなかにショッキングである。

★★★

「われわれは、自分の心の正常さを、その中で、いわば、日々作り直し、日々、取り戻さねばならないのである。」
という始まりが、この文章のスタートであると同時に結論といえる。健康、正気、自己実現、幸福、ウェルビーイング、生きがい……とにかく時代時代で様々な言葉で追い求められてきた “なにか” は、今この瞬間から始まる日常の中で取り「戻す」ものなのだ。
 作り「直す」、取り「戻す」とあるように、キラキラした遠い星を追いかけて手に掴むことではなく、まだ巨大な建築物を造るように他所から材料をどっと運んできて積み上げることとも違う。
 余力を残した、長く走り続けられる精神状態の中で、何か一つの事柄にしがみつくような依存をせず、自分自身で様々なことを体験していく――という、言葉にすると簡単そうにさえ見える、しかしやってみるとそう簡単ではない日常の積み重ねである。

 社会は、「異常なまでの正常さ」を要求する。
 仕事は、余力を残さぬ最大限のパフォーマンスを要求する。
 自然は、もはや身の回りに感じられない。
 伝統は、時代の変化によって無効化されてしまった。
 過去の体験や教育が、「今の時代には適応できない」とされていく。
 他人は、心の相互作用のない不特定多数の群衆。
 そして、毎日の暮らしの中に、「体験に似たもの」が大量に流入し、その人の「日々に生きる中で自分が経験したもの」という基本的な体験すらも、脅かされている。

 そんな「現代の苦渋」を語りつつも、中井さんは、前近代的な労働や孤独や恋愛や自然との交流を、ひと足飛びに理想化しようとする甘やかな幻想も、否定している。
 過去の人間は、「生木を裂かれるような切ない思いをしながら、おそろしい苦痛と単調さとに耐えて辛うじて生きてきたというのが、むしろ実状に近い」というくだりは、ぞっとするようなリアリティを帯びた言葉だ。

 私達が天国的な歓喜の一体感を追い求めてしまうのは、そういう地獄の積み重ねの反動なのだろう。
 けれどたぶん、永遠の歓喜である天国というのは、やはりもうひとつの異常、もうひとつの地獄であって、そこに救いはなさそうである。

★★★

 中井さんはこのエッセイを、「基本的な体験からの疎外」にどうやって対抗していくかが現代の人間に課せられた最大の課題だ、と締めくくっている。
 どうやらこの課題は、変わらない重みで残っているようだ。

 すでに1960年代にそうだったのだ。このエッセイを何も知らずに読んだら、多くの人は「2020年代特有の今日的な問題ですよね」と言うだろう。しかし実は、そんな最近の新しい問題ではない、ということだ。

 今の若い人たちは(あるいは就職氷河時代は、ミレニアル世代は、Z世代は等々)生きづらい、とよく言われるけれど、実のところ、高度成長時代を生き抜いた人たちが別に生きやすかった訳ではない。
 これは60年ずっと抱え続けた問題なのだ。

 そう思うと、「訳の分からない異常な時代が来ているという不安」が、ちょっと和らぎはしないだろうか。
 まあ、そんなに長く解決できてないのか……というガッカリ感も、味わうのだけれど。

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