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『ダロウェイ夫人』その3:少年のまま生きるのは、自分も周囲もしんどいものだ

 ピーターって、どこか永遠の少年イメージを負わされがちな名前ですよね。ピーター・パンはもちろんだけど、ピーター卿とかも。

『ダロウェイ夫人』バージニア・ウルフ著,土屋政男訳,光文社古典新訳文庫

「ダロウェイ夫人」の中には対構造が何度も出てくるというのは、多くの人から指摘されている。
 大英帝国と外国、上流階級と労働者階級、生と死、同性と異性、といった対構造の中でも、ピーター・ウォルシュとリチャード・ダロウェイという二人の人物はこれ以上ないくらい明確だ。

★★★

 物語の登場人物として、無関係に傍から見てて面白いのは、ピーター・ウォルシュである。 “ひとりメロドラマ”としか言いようのない存在で、まず登場シーンが良くも悪くも鮮烈すぎる。

「おれには必ず会ってくれる。必ず、必ず、必ず」「そう、五年ぶりにインドから戻ったおれに、クラリッサが会わないはずがない」

 いきなりハーレクインの強引な王子様みたいな言動である。
 クラリッサが書いてよこした儀礼的な手紙を、「こんな手紙二度と読まない!」と憤慨しながら、「読まないけど持ってると嬉しい」と大事にしまいこんだりする。絵に描いたような存在で、見ている分にはなんだか「カワイイ」(笑)。

 だがこの王子様、やっぱり絵に描いたようなダメ男くんで、インドでも身を持ち崩して休職中、しかも不倫の恋愛遊戯にうつつを抜かし、イギリスに帰国しても美人女性を見かけるとつい尾行して色々妄想してしまう。現実処理能力はゼロで、不安定で、社会性にあえて背を向けたように生きる永遠の少年だ。

 とはいえ、もちろんピーターはただのダメんずという訳ではない。彼はクラリッサの中に潜む虚無、懐疑主義、不安定さ、複雑性を、誰よりも理解する人物である。
 彼とクラリッサは若い頃、ほとんど恋人同士だった。だがクラリッサは、少年の心性から変わろうとしないピーターと共に生きることは不可能と実感し、彼のもとを去る。クラリッサを失ったことは、ピーターにとって大きな痛手だったのだが、ピーター自身もまた、クラリッサを支えることはできなかっただろうと自覚をしている。
 次々と不毛な恋愛遊戯に身をやつし、ポケットナイフをかちゃかちゃいじる癖が抜けない、という彼の生き様は、クラリッサが再三言うように「昔のままだわ」。そして彼は50年以上の人生において、そういう人間が現実から受ける手酷い仕打ちをさんざんに味わっているのだが、それでも彼なりの求道をやめない。
 ここまでいくと、ある種あっぱれである……現実に彼の就職を斡旋するような立場になるのはイヤだけれど(笑)。

★★★

 そして彼の対となる存在、リチャード・ダロウェイは、大英帝国の貴族にして政治家、安定性と現実処理能力に満ちた、善良にしてセンスのないおじさんである。
 シェークスピアのソネットを「不道徳だ」と罵るようなタイプで、その単純さまっとうさは、ピーター・ウォルシュが吐き捨てるように嫌悪するところである。そしてリチャードは、クラリッサの死への傾斜、虚無、複雑性を理解しているとは到底言えない。

 だがこのおじさん、決して「退屈な夫」ではない。なんか、そういう誤解をして、「退屈な日常に飽きて過去の刺激的なアバンチュールを思い出す〜」みたいな読解をしている人が結構いるらしい。誤読にもほどがあると思うのだが。
 クラリッサの飼い犬が大けがした時に完璧な処置で犬の命を救い、クラリッサを支えるエピソードからも、リチャードの「平時でも非常時でもやるべきことをやれる男」ぶりはよくわかる。
 また彼は、実は決してクラリッサに対する扱いを「間違わない」人物でもある。

 クラリッサとリチャードは寝室が別だというエピソードがある。
 これについては、NHK Eテレで以前放送した「100分de名著パンデミックスペシャル」で、英文学研究者の小川公代さんが、クラリッサが当時大流行したスペインかぜに罹患したことから「家庭内隔離を暗示している」と指摘しているが、クラリッサがある時から性交渉が後ろ向きになっている心情を吐露する描写も出ているので、やはり二人の間の性生活がなくなっていることの方が比重が大きいエピソードだと思う。

 けれどリチャードは、性交渉がなくなったクラリッサを、女として魅力のない「家庭の付属物」と認識することは、決してない。
 彼は、政治家同士の昼食会で、ふいにクラリッサをどれほど愛しているかということを実感し、「クラリッサに愛していると伝えよう」と強く思ったりする。そして、実際に家に帰ってきたら、照れ臭くなってしまって「愛している」などとは言えなくなってしまうところが、読者の立場からは微笑ましい。
 その代わり彼は赤と白の薔薇の花束を無言で持ってくる。それはクラリッサが初めて会った時に着ていたドレスの色なのだ。……すごい! 彼はクラリッサをちゃんと観察し、記憶し、思いやり、しかもそれを相手に伝わるように表現しようと努力している! 彼にとってクラリッサは、「いつもそこにあるのでおざなりに扱う日常風景の一部」とは違うのだ。
 多くの人が無意識無造作に踏んでしまい、そして伴侶の信頼を失う結果を招く地雷に、リチャードは近付いてもいないのである。
(ちなみに、この薔薇の件は特別で彼の普段のプレゼントのセンスは最悪らしく、一度だけ買ってきたブローチをクラリッサは全然身に付けない、というエピソードがまた苦笑を誘う)

 クラリッサがピーターではなくリチャードを選んだのは、その揺るぎない安定性からなのは物語中も明言されるのだが、決してそれだけではないことを、読者は理解できるはずである。
 リチャードは、クラリッサを「ほどよく理解」する人間だ。彼はクラリッサの繊細で危険な部分に、無遠慮に踏み込むことはない。なので彼はクラリッサを「完全に理解する」ことは決してない。ピーターとクラリッサが、ひそやかながらも精神的血飛沫が舞う感情のやり取りをしたのとは対照的である。
 だがリチャードはクラリッサを支え、守り、思いやり、自分にはよくわからない部分も全てひっくるめて、「ひとりの人間」として尊重することができる。
 恋愛至上主義では説明できない、到達できないような、美しい関係性がここにはあるのだ。

 私は、人間の感情というのは様々なベクトルを持って複数共存しているものだと考えているので、「クラリッサは、ピーターに恋しつつ、リチャードも夫として愛している」という解釈も、間違っているとは言わない。そういう関係も十分ありえるだろうなと思う。
 だが私自身は、やはり、クラリッサはリチャードに対して、「安定性の体現としての夫」に留まらない、深い愛情を捧げていると感じる。一方でピーターは、クラリッサにとって「もうひとりの自分」のようなもので、長い関係を持続できる存在ではないのだ。

★★★

 ピーターは、ロマンティック・ラブ・イデオロギーに貫かれた存在なのだと思う。彼はクラリッサを「自分だけのもの」にし、互いが互いだけを至高のものとして永遠に見つめ合う関係を成就しなければ、満足できなかったのではないだろうか。
「運命の相手と互いに呪縛しあう」世界観。ピーターが恋愛小説からそのまま抜け出してきたような言動をするのは、彼がその価値の中で生きているからに他ならない。
 だがクラリッサはそういう生き方を拒絶した。一方でピーターはそこから抜け出すことができず、少なくとも物語に登場した時には未だにクラリッサ(というより彼女が象徴する関係性への憧憬)の幻影を追いながら生きている。

「ダロウェイ夫人」という物語は、クラリッサがまばゆいばかりに輝いて見えるピーターの視点で締めくくられる。
 このシーンは、最後までクラリッサに己の理想を投影するピーターのどうしようもなさとも見えるけれど、一方でピーターが(自らの老いへの自覚を通じて)クラリッサのありのままの姿を受け入れ、ようやく彼女の本質的な存在に目覚めることができた場面という解釈もある。
 どちらも十分にありうる状態だし、後者であってくれればどんなによいだろうとは思うのだが、ピーターの50年にわたる筋金入りの成長拒否(笑)を思うとちょっと楽観できない、というのも正直な感想だ……。
 でも、人は突然変わることもあるから、後者であってほしいと、やっぱり思う。

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