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『ダロウェイ夫人』その2: 理解されなくても生きていける

 イエスが着ていたという「縫い目のない衣」のような、完全な理解は、人には望むべくもないけれど、それが不幸とも限らない。

『ダロウェイ夫人』バージニア・ウルフ著,土屋政男訳,光文社古典新訳文庫

『ダロウェイ夫人』の最大の魅力は、月並みな視点だけれど、やはり主人公のクラリッサ・ダロウェイの複雑性だと思う。
 いわゆるキャラクター的な「属性」を搭載された存在ではないのだが、魂の複雑性があらゆるところににじみでている。

 彼女の周囲の人が、クラリッサをどういう人だと思っているか。そしてクラリッサ自身が自分のことをどう思っているか。逆に、クラリッサが他の人をどう思っているか。
 それが手の込んだ織物の文様のように密度高く描写されていくが、全体として一貫した何かを指し示すことがない。

★★★

 この物語で、恐らく最もクラリッサのことを長く考え理解している存在である、旧友にしてかつて恋人に近い存在だったピーター・ウォルシュの認識さえ、クラリッサを正確には捉えていない。
 彼はクラリッサが複雑な懐疑主義と危うい心を抱いた、「外から見えるところより見えないところが多い人間」であることを見抜いているが、それでもクラリッサがパーティを開くことを「俗物根性で、人に囲まれないと生きていられないから」と思っている。
 だがクラリッサにとっては、パーティは、それがなければ出会わなかったかも知れない人と人を結び合わせ、世界の美しさを可視化する創造性の発露、「捧げ物」であって、不安からの逃避や浮かれ騒ぎやマウンティングではないのだ。クラリッサの最大の理解者さえも、クラリッサの最も繊細で大切な創造性をわかっていない。

 クラリッサがかつて同性愛的熱情を抱いた相手である親友、サリーのくだりも面白いところである。
 クラリッサの思い出の中でかなり美化された彼女の描写がずっと続いた末に、物語の終盤で突如、サリーは現実の姿を現す。クラリッサの熱っぽく神々しいイメージとはかなり異なる、しかし社会の中に立派に自分の居場所を構築した揺るぎない存在として。
 その落差に読んでいてびっくりするのだが、経年変化したところはあっても彼女の才気煥発な性質は衰えておらず、ピーターと丁々発止のバディ的やり取りをするくだりは、その時空だけ青春時代をリプレイしているかのようだ。サリーの「心に比べたら、頭なんて何よ」という最後の台詞は、何とも痛快なカッコよさがある。
 そして、サリーは回転の速い頭で、ピーターとクラリッサの性質と関係を見抜いている人物なのだが、彼女の理解もまた、表面的ではないにせよ、クラリッサの重層的人格の中層部分にまでしか到達していない。
 これは彼女が頭が良い人であるがゆえに、直観的かつ短時間にある程度まで「わかって」しまうため、逆にそれ以上の深い掘り下げに至らないのでは……? と、私などは想像してしまった。とはいえ、人間は他人のことをそんなに深く理解できないものだから、これが正しい在り方なのかも知れないのだが。
 また、現実のサリーという存在が物語内でちゃんと現れることによって、クラリッサ側のサリーへの感情もまた、ある種の誤解というか偶像視だったことが明らかになる。
 
 物語構成上、クラリッサの「分身」として造形されている、帰還兵セプティマスは、精神失調に苦しんだ末にようやく妻と心が通い合ったその時、医師(が代表する社会)に追いつめられて自殺してしまう。
 だが彼にとってその自殺は、決して望んだものでも選び取ったものでもない。彼はまさに飛び降りんとする時「生はよいものだ」と絶唱する。彼はできることなら生きたかったのであり、その死は自殺というよりも殺害なのだ。
 だが、セプティマスの死を受容したクラリッサは、「彼はやりおおせた」と感じる。
 彼女はセプティマスを通じて、自らの虚無と死への傾斜を理解するのだが、セプティマスの死をある種の達成、自分が成しえなかった純粋な生を全うした存在として捉えている。セプティマスがそれを知ったとしたら、断絶に立ちすくむかも知れない。
 この物語世界では、分身同士ですら完全に「理解する」ことはない。

★★★

 そんな調子で、この物語は全体的に、無理解が交錯している。
 だが普通ならば悲劇、あるいはあってはならない過ちとして否定される「無理解」だが、この物語ではそれを断罪しない。非難もしないし、That’s Lifeと諦観することもない。
 セプティマスの死を「誤解」することでクラリッサが生を掴み取っていくように、 断絶や無理解や誤解や狂気があっても、まさにその中に真正の善きものが咲くことがあるのが世界だ――そういうウルフの強さのようなものを感じるのである。

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