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ダロウェイ夫人:その4

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」とは言うけれど、その重荷とは何だろう。

『ダロウェイ夫人』バージニア・ウルフ著,土屋政男訳,光文社古典新訳文庫

 物語構造において、主人公クラリッサの「分身」として描写されている存在、第一次大戦の帰還兵セプティマスのエピソードは、透けるような神々しさ美しさをただよわせつつも、全体としては悲痛さがみなぎっている。

 セプティマスは、戦争中に深い絆を築いた上官が戦死し、その時に感情を失ってしまって以来、精神的失調の只中にある。
 彼の目から見える世界の描写は、怖い。
 精神科医の中井久夫さんや神谷美恵子さんの著作に、所々に統合失調症に陥った人から見える世界の記述(中井さんたちが「翻訳」したものや、回復した患者さん本人が過去を振り返って説明したものなど)があるのだが、まさにそこに描かれていた世界が、ウルフの筆致によって生々しく描写されていて、セプティマスが閉じこめられている状態の苦しさが読んでいるこちらに伝わってくる。
 世界の全てが自分を圧迫してくる容赦のなさと、あまりに圧倒的なので美しさとすら錯覚する、凍りつく恐怖に覆われる時間だ。
 ものすごくリアルなので、これは想像で書いたものではなく、ウルフが精神失調に苦しんだ時に見えたものそのものなのではないか?と感じてしまう。

 上官エバンスとセプティマスの関係は、友情ではなく同性愛だと捉える解釈もあり、「犬のようにじゃれあった」という表現は確かにそういう匂いを感じさせる。
 彼と対の存在であるクラリッサが、やはり若い頃にサリーと恋愛の瞬間があったことを回想し、自分が熱情を覚えるのは同性相手だと独白しているので、それを踏まえると、セプティマスが上官と同性愛関係であったとしても作品上不思議はない。

 けれど、クラリッサの同性愛的瞬間はあれほど濃密に描写されるのに、セプティマスとエバンスの関係性は、物語の中では謎に包まれている。同性愛だったと明言されない(物語の中ではあくまで「友情」という言葉が使われる)のはもちろん、エバンスは物静かで赤毛の男性だったということが述べられるだけで、どんな会話をしどんな感情のやりとりがあったのかは描写されない。ほとんど概念上の存在だ。
 ウルフの時代において、男性同士の同性愛へのタブーがそれほど大きかったのか、それともセプティマスにとって彼との関係はポジティブなものというよりも抑圧の対象だったのか。
 抑圧されているとしたら、失ったことを認識するのに耐えられないほど愛していたからなのか、思い出すだけで自分が壊れるほど苦痛のある関係だったのか。

 もし二人の間にあったのものが同性愛だったという解釈がウルフの意図と一致しているとすると、セプティマスは恋愛対象を戦争で失い、一方で妻とは恋愛感情というよりも安定性を求めて結婚したことになる。そして、恋愛の相手だった上官が結果的に彼を狂気に導いたのに対し、妻は彼をそこから救い出し現実に連れ出してくれる。
 それはクラリッサとサリーやピーターの恋愛が成就することなく、リチャードとの結婚で安定を取り戻す過程と、相似している。

 ウルフ自身、非常に仲が良く近しい存在であったとされるリットン・ストレイチーとは結婚せず、かなり差異のある相手だったレナードと結婚し、子どもはもうけなかったが、愛情に満ちた関係を築いている。もしかしたら、クラリッサとセプティマスのこの人間関係は、ウルフという人間における「恋愛対象」と「伴侶」の違いをも暗示しているのかも知れない。

 だがセプティマスは、妻に理解されて現実に立ち戻ってもそこから生き続けることができない。一方でクラリッサは生き延びる。二人の道を分かつのは階級であり、社会の圧力から自分を守る力を(自分の努力とは関係なく、たまたま)持っているか否かなのだ。それが哀しい。

 ウルフは有名な「自分ひとりだけの部屋」で、女性が小説を書くためには生活を安定させるお金と自分ひとりになれる空間がなければならないと訴えているが、それは小説という狭い分野に限ったことではなく、「余裕」がなければそもそもひとは尊厳を持って生きられない、ということを、自らの不安定さからも知り抜いていたのだろう。
 そして性別や階級や国籍によって、その「余裕」が与えられたり与えられなかったりするという現実に、ウルフ自身が苦々しさと罪悪感を抱いていたのでは……と、『ダロウェイ夫人』の描写の端々から感じるのだ。

★★★

 クラリッサが、生きていることに両義性を感じていることは、端々に描写されている。
 彼女は母と妹を若くして喪っており、その二人は自分よりも生きる価値のある存在だったと感じている節がある。彼女にとって自分の生は、「母から譲り受けた大事な命」であるのだが、同時に「盗んだ」ものであり、サバイバーズ・ギルトから逃れることができない。
 その感覚は、戦乱で故郷を追われ難民となっている「気の毒なアルバニア人」のことを思いながらも、彼らのために何かする訳でもなく、それより夫が贈ってくれた薔薇を愛でることの方に思いが向かってしまう自分、しかもそれが「自然なこと」であって偽善で良心をごまかすことすらできない自分を、冷ややかに俯瞰する視点にも現れる。

 毎日様々な経路で伝わってくる世界中の苦しみ――難民、ホームレス、戦争、独裁者の弾圧、児童や女性への性的搾取、低賃金で長時間働くエッセンシャルワーカー、etc.etc…――を目の当たりにしつつも、せいぜい小額の募金程度のことしかせず、日々おいしいお茶とチョコレートを味わっている私には、クラリッサのこの感情がわかる気がする。

 セプティマスの死を受容したクラリッサが生に立ち戻るシーンは、安らぎがあるが、しかし生の善性を高らかに謳うようなものではない。
「もはや恐れるな」……なぜ恐れる必要がないかといえばこの言葉はもともと、すでに死んだ者に捧げられた言葉だからだ。それを自らへの言葉として受け取るクラリッサは、すでに死者なのか、それとも。クラリッサの、生に感じる両義性は決して解決されない。
 盗み、嫉妬し、怒り、性愛に醒め、そういう自分を軽蔑する。だが全く同時に、支えてくれる人の愛情を喜び、感謝し、世界や他者の美点に感動し、自分という存在を祝福する。どちらかに傾くのではなく、その解決されない両義性を持ち堪えて生きていく。

 クラリッサにとって、両義性は解決や止揚の対象というよりも、「持ち堪えて」いくものである。
 その生き方は、目立たないし賞賛もされない。(ピーターがクラリッサに再三言うように)現実に尻尾を振る俗物呼ばわりされる一方で、(レディ・プルートンがクラリッサを評するように)別の視点からは現実において役立たずと嘲られる。 だから、そうやって生きていくクラリッサは、リチャードが言うように「弱くはないが支えを欲しがる」のだ。

★★★

 そして、現実世界に生きている私も、クラリッサのように生きている。
 両義性を解決したり、止揚したりできるほどの力はない。さりとて投げ捨てて無視することもできない。できるのは、それを見据えて持ち堪えていくことだけだ。
 もしかしたら、その向こうに、クラリッサのように何かの光を放つ瞬間があるのかも知れないけれど、そうでなかったとしても私はこうして生きていくだろう。そんな私にとって、『ダロウェイ夫人』は今まで読んだどの小説よりも、近しさを覚える作品だった。

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