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『ある奴隷少女に起こった出来事』 よい奴隷制は存在しない

 人を支配するというのは、支配者を不幸にする仕組みなのだ。

『ある奴隷少女に起こった出来事』,ハリエット・アン・ジェイコブズ著,堀越ゆき訳,新潮文庫

 とにかく、起こる出来事の大半が心を抉られるような辛いものなので、正直に言ってしまうと読みたい本ではなかった。こういう本を読むと、ものすごく落ち込むのである。
 何で読んだかと言うと、高校の卒業生有志で定期的に開催している読書会に参加していて、そのテーマ図書に選定されたからだ。とてもしんどかったが、頑張って読んだ。最終的には主人公の女性が自由を勝ち取ることができたという史実を知っているからこそ、読み通せたというところはある。
 途中で出てくる様々なエピソードは、時に人の善性を感じるような温かいものがある一方で、とにかく暗澹たる気分になるとしか言いようのないものも存在する。残虐、非道、卑劣、それらは正視できない、生理的嫌悪の域に達している。

 主人公の女性が、最後は自由に生きられるようになって本当によかった。

★★★

 一方で、私がこの本で終始意識を引っ張られていたのは、彼女を虐待する「所有者」側の言動である。

 私はそれまで、奴隷制度というのは、奴隷を所有する側が奴隷となってしまった存在を搾取しオイシイところを収奪してしまう、そこにこそ悪があると思っていた。それは実際その通りで、奴隷主は様々なものを不当に詐取しており、「恵まれた」「勝ち組」の存在である。

 だが、この本に出てくる奴隷主たちは、とても不幸だ。

 逃亡奴隷に猟犬をけしかけていたある奴隷主が、臨終の時に「地獄に落ちる」と叫んでのたうちながら亡くなり、死後その墓は何者かに暴かれてハゲタカに食われた、という話が、全然ましに思えるほどである。
 主人公リンダの心身を執拗に支配しようとするドクター・フリントは、DV加害者の典型である。リンダを手に入れようと様々な策略をめぐらすようになり、しかもその策略のレベルはどんどん落ちていって誰も騙せないような代物になっていく。挙げ句にそういった問題で金銭を使い果たして、惨めな精神状態で死ぬ。
 フリント夫人は、奴隷を強姦するような夫の不実に苦悶する。彼女が奴隷を憎むあまり、残り物の食べ物を奴隷が口にしないようにと「あらゆる調理道具に唾を吐いて回る」エピソードは強烈だ。
 鍋釜に唾を吐き散らして回る自分という風景を、フリント夫人はどうやって意識から排除しているのだろう。自尊心を誤魔化すのに必要な精神エネルギーを想像するだに寒気がする。

 奴隷主たちの言動は、どれもこれもおよそ尊厳と誇りのある人間の振る舞いとは思えない。
 しかもそれは、個々人の心性の問題というよりも、奴隷を家庭内に所有することで歪んでいった結果である。

 白人男性たちは常に意識の中に、女性奴隷を性的に支配し、男性奴隷を暴力で支配するという「タスク」を抱えている。それは権力欲の発露ではあるのだけれど、それだけではない。「権力を持っていなければ自分は奴隷に負けてしまう」という強迫観念が生活の隅々にまで染み渡っており、権力の濫用という「内圧」を保たなければ耐えられないのだ。

 そしてそんな白人男性と共に生きなければならない白人女性たちは、夫が奴隷とのセックスに溺れ子供を次々と作っていく、妻としての尊厳を踏みにじられる中で、しかしその奴隷に生活を依存して暮らしていかねばならない。

 生まれた子どもたちは、最初は何の気兼ねもなく遊び、心の交流を持っていたのに、ある日突然「この子は奴隷だから」と強制的に断絶させられてしまう。子どもの発育において「友情」というものがどれだけ大切か、そしてその大切な友情が大人の勝手な都合で破壊されることがいかに心を傷つけることか。

 これは一体、誰を幸せにするシステムなのだろう。

 この社会システムの中では、自分で自分を認めて生きていくのは難しかろう。
 自分を認められなくなった人間は、誤魔化すために自分の精神を複雑骨折させていくのだが、これがデフォルトの社会システムであったらどうすればいいのだろう。生き地獄にありながら、そのことを可視化できず、脱することもできない。
 この本の中に書かれている通り、「奴隷制は、黒人だけでなく、白人にとっても災い」なのだ。「よい奴隷制」は存在しない。関わる全ての人を不幸にする、本質的な悪なのである。

★★★

 そしてもちろんこれは、「奴隷制」と名付けられた特定の社会システムに限った話ではない。
 奴隷制が法律上存在しない現代日本でも、様々な口実を設けて、限りなく近しい関係性を構築しようとする、あるいは構築している場面というのは、残念ながらまだまだ存在する。
 そういう関係において「支配者側」に立っている人は、その立場にいるという事実によって、すでに不幸なのだ。
 自覚がない人もいるだろう。言い訳を流暢に紡ぎ出せる人もいるだろう。だが結局のところそこに大した違いはない。本質的な不幸の中に浸かっており、それに気付いて、支配者であることをやめないと、先はない。

 そして、自分がそういう関係を作っていなくても、他人のその関係性によって利益を得ているのであれば、われわれは皆その不幸に加担しているのだし、その事実ゆえに自らも不幸を負っているのだろう。

 私の中にドクター・フリントとフリント夫人がいる。無様な嘘をつき、鍋に唾を吐いてまわっている私が。
 せめて私の中の誇り高いリンダを思い出して生きていく――
 と同時に、自分が不幸であることと、その本当の原因を、忘れないで、変えていけるように、と願う。

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