見出し画像

『ダロウェイ夫人』 その1: 流れているのは意識ではなく世界

 今読んでよかったなぁと思った。

『ダロウェイ夫人』バージニア・ウルフ著,土屋政男訳,光文社古典新訳文庫

 若い頃、特に十代や二十代の頃に読んでいたら、本当に訳がわからなくて、「??? なななな何が言いたいのこの話意味がわからないんですけど!!??」
だったろうな。
 光文社文庫のあとがきで、訳者の土屋さんが、イギリスの高校生が勉強に苦しむあまり机に頭を打ち付けながら「ダロウェイ夫人がパーティに何色の靴を履いてたかなんて知ったことか」と叫ぶ小説の一説を紹介していたけど、高校生の時に読んだらホントこんな感想になったと思う。
 ちなみに、物語中、ダロウェイ夫人の靴の話は全然出てこないので、少年よ、君は一体何を読んでいたんだ(笑)。ダロウェイ夫人と間違えてチャタレイ夫人でも読んでたんじゃあるまいな。

 いわゆる「意識の流れ」手法の作品、ということになっていて、同じ意識の流れ手法の代表作『ユリシーズ』に心折れた身としては、読み通せるか本当に不安だったのだが、読み始めてみたら意外にも、ものすごく素直にすーーっと読むことができて、読書体験という意味では全然苦痛がなかった。読みやすいな!と思ったくらいである。
 もちろんこれは、訳者の土屋さんの力によるところが大きいと思う。原文だったらたぶん「このwhichはどこにかかるんじゃい」の連続になっただろうことは想像に難くない。

 ただ、それとは別に、私が読みやすさを感じたのは、ここに書かれていることの多くに「覚えがある」感じを受けたからだ。
 あ、知ってる。私、この感じがわかる。こう考えたことがあるしこう見えたことがあるしこう感じた覚えがある。文中何度もそういう瞬間があったので、答え合わせをするように読めた。
 ここ十数年は、小説を読む時には作品世界とすごく距離感があって、登場人物にもさほど共感も感情移入も現実感もおぼえずに読むことが多かったので、すごく久しぶりの体験だった。
 バージニア・ウルフは、才能の面でももちろんだが、境遇や性格の点でも私とは程遠い存在なのだけどね。

 若い頃は、自我というのがみごとに首尾一貫していて、考えていることもすごく純粋だった。もちろん、色々なことを考えるし複雑な悩みを持っているし、自分が自分でない感じに悩まされたり、対立する心的概念の葛藤に苦しんだりした。認知能力もその頃の方が高かったので、頭の中にいくつもの思考が乱舞することもしょっちゅうだったのだが。でもそれは、首尾一貫している純粋な状態だからこその、悩みでありこだわりだった。
 だが今の私は……何と言うか、そもそも首尾一貫性にそこまでこだわらなくなった。複雑性や矛盾を、そのままの状態で持ちこたえる力(あるいはスルーしてしまう鈍感さ)を、少しながら、得た。頭の中に複数の思考が乱舞する、その数は認知能力の衰えで昔よりも確実に減っているはずなのだけれど、それら全体をふんわりと認識できるようになった、やさしさをこめて。
 そして、そういう自分を、若い頃の自分よりも好ましいと思う。周囲はどう思っているのかわからないけれど。
 そういう状態だから、この「意識の流れ」ということになっている記述も、全然違和感なく読んでいた。ああ、いつもやってることだなという感じで。

★★★

 手法という側面で話をするならば、ウルフがこの作品で本当に表現したかったものは、個人の意識の流れではなく、「世界の在り方」ではないだろうか。

 早朝、Aという人が歩きながらBという人のことを考えていて、AとBが過ごした出来事の中にCが出てきて……Aが着ている服を作った人がいて、その服の原料のウールを出荷した牧場があって……Aにクラクションを鳴らすクルマに乗っているDは……朝がなぜ涼しいのかと言えばここ10万年の気候の変化による大気の温度が……といった感じで、世界は様々な要素と時間が繋がり、重なり合い、存在している。
 AとBとCとDと服とウールとクルマと大気は、別個の存在であるが、区別が曖昧なグラデーションの存在でもある。そんな現実の在りようを、言語で表現しようとしている印象を受ける。
 カメラが俯瞰でパンしつつ、映っている全ての要素にそれぞれ個別のカメラが色々な角度で向けられていて、全ての画像と音声がどこかで重なりつつ、映像の上では切れ目なくワンショットで続いていくみたいだ。

 そういう「自然な映像」を作り上げるために、実際には凄まじい計算と編集が必要なように、この作品も複雑な構造をみっちり計算して積み上げているはずだ。
 だが作為性というか、「計算してる感」が全然見えない。本当にただ流れるがままに筆が動いたような錯覚を抱かせる。それがこの作品の凄みだ。

 同じ「意識の流れ」系の『ユリシーズ』が、何と言うか、作者の「どうだああスゴイだろおお!おれはこんなに〜〜カンペキな構造を計算し〜〜古今東西の文学スキルを自由自在に駆使して〜〜作れるのだぞぉ〜!」と言わんばかりの人為感が充ち満ちているのとは、正反対な気がする。
 そっちはそっちで人を惹きつけるので、ファンが多い。オデュッセイアを踏まえての解釈は!? ダブリンのあそこがここだよね聖地巡礼しちゃう! 場面・時刻・学芸・色彩・象徴・技術・神話的対応を一挙解説! みたいなノリ。
『ダロウェイ夫人』でも、ロンドンの描写が細かいのでそういう楽しみ方ができそうに見えるのだが、あんまりそういう空気がない。

『ユリシーズ』を好きという人は『ダロウェイ夫人』がピンとこないと言う傾向があり、逆に『ダロウェイ夫人』が好きという人は『ユリシーズ』はイマイチ好きじゃないと評する傾向があるような気がするのだが、私の偏見かな(笑)。
 でも文学史上では「意識の流れ」としてまとめられるけど、作品が意図する目的も作品自体の性質も、全然違う作品だと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?