見出し画像

『「人それぞれ」がさみしい』 でもつながる苦労を誰が負担するのか

 人それぞれ、という言葉を、共存の提案と受け止めるか、切断の呪いとして聞くか。

 ちくまプリマー新書『「人そぞれ」がさみしい――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(石田光規著,2022年,筑摩書房)

 個を尊重し多様性を受け容れる社会を作ろうとしたはずが、今の日本社会は「意見の合う人とだけ結びつき、合わない人は寄せ付けない分断型社会」になってしまった。
 それを象徴するのが、「人それぞれ」という言葉を、「許容するかに見せかけて互いを分断して対話を拒絶する」という意味で使用することである。
 それぞれ人の意向には配慮しましょう、でも時に深く話しましょう、という「いいとこどり」をすることは、原理的にできない。深い対話を取り戻すためには、つながりへの期待値を下げ、期待にそぐわないことがあっても共に過ごしてゆける社会を目指すしかない――。

 へー、最近は「人それぞれ」ってそういう用法で使われるのかー。というのが、間抜けな個人的感想だった。
 私個人が「人それぞれ」という言葉を使う時、どんな意味をこめてるのかなぁと振り返ってみると、

「自分だったらその選択をしてうまくやっていくことはできないので、助力できることは何も思いつかないのだが、他人がその選択をする理由や価値観や流れは理解できるので、うまくいってほしいと願う。願う以外のことはできないけど」

という長ったらしい表現になる。
 これを「受け容れるようでいて、距離を置きます」という意思表明と受け止められるとしたら、うーん。違うんだけどな、と言いたい。
 けれど、著者からは「その姿勢こそがまさに対話の拒絶です!」と言われそうな気もする。

★★★

 面白かったのは、人それぞれという言葉によって分断された社会において、人々が「暗い部分を完全に除去した、無菌化された友情の物語」を「消費」することで癒やしを得ているという指摘だ。
 確かに、近頃「友情」というものは、至上の愛とほぼ同義のように取り扱われているよなぁ。

 テレビや動画コンテンツなんかで、数人の仲間や芸人が、わやわやしゃべったり、何かの活動をしていたりするのが延々流れるのを観ている時にただよう、
「面白さや芸を堪能する時と全く違う、でも不思議なポジティブ感」
とでも言いたくなるあの感覚は何だろうと思っていたのだけど、「無菌化された友情を消費している」のだと言われると、すごく腑に落ちる。
 もっと言えば、BLや百合やバディものの関係性も、そのジャンルの愛好者ではない無責任な外野として見ていると、「限りなく恋愛に近しい友情みたいなもの」を愛でたいという欲望が凝縮されているように感じられる。

★★★

 そういうロマンティック・フレンドシップ・イデオロギーの指摘についてはなるほどー!と手放しに感心してしまったのだが、この本の結論である、
「相手がマイナスかプラスかにとらわれず、目の前の他者と腰を据えてつきあうことを、積極的に意識するべき」
という論点については、それもまた別の、甘いロマンティシズムじゃないのかな……というのが私の結論だ。

 理由は簡単で、「マイナスの相手でもつながっていくためのエネルギーの負担」というものは、基本的にものすごく不平等に分配されるからだ。

 つながりを頑健にするために、ある程度個々人の選択や自由を犠牲にしましょうと言った時、そのままに任せておいたら、その「犠牲」が社会全体で公平に配分されるなどということは絶対にない。
 多数派や権力者が、全く悪意なく、無意識に、その犠牲を少数派と弱者に丸投げするということはわかりきっている――いや「そうなるだろう」という予想ではなく、現に歴史的に、我々はそうしてきた。
 性的志向を無視して異性同士を婚姻させる、少数派の価値観と選択を圧殺する、家や会社といった枠の維持を個人の希望より優先させる、ストレスを「発散」させるためのスケープゴートを作る、精神的肉体的ケアを特定の人物に集中させる、etc.etc…
 それらは、人々が悪意を持って「差別してやろう、あいつに押し付けよう」と思ってやってきたことでは、全くないのだ。たくさんの人が、ごく普通に生きようとして、個々の心がけのレベルでは気を遣って、何なら善意すら抱いて、行ってきたことの積み重ねなのである。

 つながらない方がお互いにとって幸せなはずの人々を、「頑健なつながりの安定感によって対話させよう」とつなげていくことは、果たして本当によいことなのだろうか。
 頑健なつながりが要求するストレスに耐える力、そして同時に「つながりが要求するストレスを拒否する力」は、個人の特性や状況によってかなり違う。多くの弱者は、「拒絶能力」そのものが弱い。
 なので「他人のマイナスも受け容れましょう」と単純に人に求めれば、ストレスを拒否できない弱者のもとに、皺寄せが向かっていく。

「人それぞれ」の孤独の中で、ようやく守られている人だって、存在するのだ。

 だから、この本の理想を叶えるためには、つながりの負担をどうやって社会全体に不公平にならないよう分散させていくのかという視点が、不可欠なはずである。
 放置しておけばつながりの負担はどうしても特定の存在に偏っていくのだから、個々人の気の持ちように丸投げすれば、「頑健なつながり」のために不平等と差別の累々たる屍を積み上げてきた、過去の歴史を繰り返すだけだ。
 だがこの本はその視点に触れない。「期待にそぐわないことがあっても共に過ごしてゆける」なんていうマイルドな表現で夢を描いている。そこがどうにも、不満だった。

★★★

 自分が生きていくに当たって、他人の、プラス部分だけ選り好みして付き合っていく、なんてことはもちろん不可能だ。
 けれど、社会が多様性を確保していられるのなら、マイナス面を「プラスとまでは思わないけど、そこまでコストとは思わない」と感じてくれる相手や場に巡り合うことだってできる。
 むしろ、多様性があるからこそ、他人のマイナス面を耐え忍ぶのではなく、受容できる関係性が生まれるのだろう。あるいはマイナスとすら感じない奇跡だって起こるかも知れない。

 だから、つながりを堅牢にする安心感と引き換えに、「人それぞれ」という言葉で放置してもらうことを捨てなければならないのなら、私は淋しさの中に放置してもらえる方を選びたい。
 そのために淋しくて死んでしまうとしても。「あなたはマイナスだけど、つながりを強固にするために、がまんしてただつきあっていく」と扱われたくはない。

 やっぱり、「人それぞれ」の向こうにこそ、本当の意味で「期待にそぐわないことがあっても共に過ごしてゆける」世界があると思うから。これもまた、別の種類のロマンティシズム、甘い夢かも知れないけれど。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?