見出し画像

『夏物語』感想 思想カタログみたい

 カタログみたいな小説だなあ、という印象だった。
 妊娠出産ということについて、今現在東京に住むホワイトカラー30代から40代の女性が、触れて何らかのリアリティと実感を抱けるであろうあらゆる考え方を、偏りがないようにまんべんなく集めて並べてみたという感じである。

 小説というより、他人の脳内議論を聞かされてるような体験で、そして自分でも奇妙に感じるほど悲しくなるほど、それが私の中に何の関係性も作らず、交わらずに終わってしまった。
 こんなに世界中で絶賛されている小説なのに……と、自分の感受性のなさと世界との隔絶っぷりを感じて、ガックリきてしまう。

 出てくる登場人物が、悩みや苦しみや悲しみというものはあふれるほど持っていても、矛盾は抱えていなくて、それぞれの中ではきっぱりと「世界とはこういうもの妊娠出産とはこういうもの」と決めてしまっているので、揺らぎがない。
 唯一揺らいでいる主人公が、彷徨しつつ、ついにひとつの決断に至るという話なので、主人公ひとりだけが人間で、あとは全部主人公の影だ。そして主人公が作者に近しい印象に設定されているので、どうしてもオーバーラップしてしまい、作者の脳内議論だなぁと感じてしまうのである。
 いや小説なんて、特に純文学なんて、みんなそうだろと言われてしまえばそれまでなのだけど。
 この小説の登場人物は、どれも表層部分ではものすごくいきいきと人間らしく描写されているので、透けて見える象徴性が逆に浮き上がって、なんか不気味の谷に陥ってしまったような気がする。

★★★

 作者が「イチオシ」とどこかのインタビューで言っていた気がする、善百合子という登場人物は、恐らくこの小説の中で最も尖った「反出生主義」を担当していて、台詞も登場する場面もむしろ少ないくらいなのだが、その数少ない台詞で強烈な印象を与えてくる。

 反出生主義そのものは、理論の肝心なところがおかしな繋がり方をしている気がして、個人的には全然首肯しない。
 生を否定することへの嫌悪感から反対しているのではなく、端的に論理的な間違いがあるというか、「え、その二つを比べるのは論理的におかしくない?」というか、間違った方程式を立ててるので出た答えがズレてる、みたいな印象がある。
 だが、トロッコの思考実験のような魔性があって、多くの人が引っかかりを覚えたり惹かれたりするのはよくわかるし、思考の触媒として一定の意味があるんだろうなぁとは感じる。
 なので、反出生主義というものにどんな風に決着をつけるのか(あるいは決着をつけないことを選ぶのか)、そこはすごく興味があるところだった。

 なのだが、この物語の最後、善百合子は主人公に「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけないから」と告白する。
 この瞬間、私はさーっと心が冷めてしまった。つまり善百合子にとって反出生主義は、自分の生を維持するための依存対象、リストカットや過食嘔吐やアルコール過剰摂取と同じ「とりあえず生きるための道具立て」ということになり、彼女の心の問題に回収されてしまったからだ。
 もしも善百合子が、自分でも幸せを感じるような「生きやすい人」だったら、反出生主義は関係のないものだったということになってしまう。

 本当の本当に「生まれてきたことが最大の不幸」であるなら、生が常に苦痛の源泉であるなら、なぜ反出生主義者は即座に死のうとしないのか、すべての子供と人を殺さないのか?という難しい問いに対し、この物語の用意した答えは、「本当は生まれてきたことが最大の不幸とは思ってないのだが、そう思い込まないと当座をしのげないから」というものだった。
 これは、この問いについて考えうるあらゆる答えの中でも、かなりがっかりする答えだと思う。

 まあ、もしかしたら、そもそも反出生主義というものが結局のところそこまでしか射程のない存在なのかも知れない。哲学や思想ではなく、精神医療の対象か、そうでなければ「気持ちわかるー!」と似た者同士でキャッキャする共感であって、外部の人に広がって何かを生み出していく性質のものでは、ないのかも。

★★★

 物語のストーリーとしては、主人公夏子を登場人物全員が取り合う勝ち抜き戦である。
 夏子は、無意識のうちに相手の胸襟を開かせてしまうような「真に親切」な人間であり、会う人全てが夏子に何かを感じて自分の打ち明け話をし、何かを期待してそれを伝えてくる。
「私以外の人が私の望むように生きて欲しい」という欲望をかきたて、またその欲望にある程度までは応えてしまう存在なのだ。
 夏子は自分の幻想の中でさえ、自分を捨てた父親を責めるのではなく、その父親にむしろ自分を責めさせる。父親の身勝手さを自分の中に引き受けてしまう、そういう人間として描写されている。
 ある意味では、夏子自身が無力な赤ちゃんそのもの、全ての登場人物の「願い(欲望と言ってもいい)」の象徴である。

 物語の中で、たくさんの人が夏子に何かを期待し、一人また一人と敗れていく。マンスプレイニングの権化の男編集者や、嫌悪感を煮詰めたような恩田はもちろん、昔の恋人成瀬くんは別れ、かつての同僚紺野さんは共感を得られず、編集者の仙川は小説を書いてもらえないまま死に、同じ作家の遊佐は仙川の死を乗り越えるために共に過ごそうと誘っても夏子から「今はひとりの方がいい」と断られる。

 恐らくこのハーレムで勝ち残ったのは、逢沢のように見えて、本当は善百合子で、彼女は夏子を通じて「生まれ直す」ことに成功したのだと思う。夏子が産もうと決意したのは、夏子自身が否応なく内に宿した善百合子なのだ。

 だがそういう象徴てんこもりのカタログの中において、あらゆる願いの旗の下に生まれてきたこどもは、「誰にも似ていない、わたしが初めて会う人」である。産む方には色々なことがあるけれど、産まれてくるこどもそのものは、何の象徴でもない。
 どんな風に生きようと、親を愛そうと嫌おうと、産まれたことを喜ぼうと、生そのものを呪おうと、どうしたってかまわない、というより、そんなことは一切、関係がないのだ。
 それがこの物語の結論なのだろう。

★★★

 しかし、まあ、生まれてくるのはやはり女の子なのですね。
 男の子が生まれてきたら、どんな話になったのだろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?