セレンディピティの島 4
正確にいつのことだったか覚えていないが、たぶん2012年頃のことだったと思う。
わたしは日本にいた。
ある日、地元の図書館で、何気なく目をやった書架の飾り棚に、「セレンディップの三人の王子」という本が、こちらに表紙を向けて鎮座していた。
なんと。
邦訳版が出版されていたのか。いつのまに。
もちろん、すぐさま手に取り、閲覧用のテーブルに着いた。
まず奥付を見ると、もう何年も前に出版されている。
15年ほども読んでみたいと思っていた本を手にして、さあ、いったいどんな物語なんだろう、とページをめくって読み始めたわたしは、冒頭の一箇所で立ち止まってしまった。
「アヌラダプラ」という地名が出てきたからだ。
頭のなかが、クエスチョン・マークでいっぱいになった。
「えっ、どういうこと??」
アヌラダプラ(より正しい発音は、アヌラーダプラ)とは、スリランカの古都の名前なのだ。
仏教の聖地として、また古代遺跡の町として有名な観光名所であり、その地名はいまも使われている。
つまり、「セレンディピティ」の語源となった「セレンディップ」とは、スリランカのことだった!
わたしは、サンドラと旅したサウス・コーストの海の色を見たとき、「ここは、セレンディピティの島だ」と思ったことを思い出していた。
ほんとうに、そうだったのだ。
スリランカは、正しく「セレンディピティの島」だったのだ……。
この一件がきっかけだったのか、それとももっと後になってのことだったのか覚えていないが、あるときわたしは、「セレンディピティ」の絵本のもととなったアニメ「ピュア島の仲間たち」のことをインターネットで検索して、以前より詳細な記述が Wikipedia に掲載されているのを見つけた。
何気なく目を通していたが、物語の主人公であり、ただひとりピュア島に住むことを許された人間、コーナ少年の声優の欄に「野村道子」と書かれていることに気づいて驚いた。
えっ、ミチコさん!!
なんとなんと、ミチコさんが、コーナだったのかぁ……。
わたしは考えた。
「いったいいつから、『これ』は決まっていたんだろう」
わたしが幼い日に絵本を読んで、「セレンディピティの島に行きたい」と願ったから、念願叶ってスリランカにたどり着いたのでは、ないように思えた。
そうではなく、その反対で、わたしがスリランカへと導かれることは最初から決まっていたのであり、それが計画の内だったのだとわたしにわかるように、あちこちに道しるべが伏線のように張りめぐらされていたのだ、という気がした。
それから数年後、わたしがまたスリランカにいたとき、やはりミチコさんが遊びに訪れ、アノージャさんと三人でサウス・コーストへと旅をしたことがあった。
ひとつの建物に一組だけを泊める、別荘のような造りのホテルに滞在していた日のこと。
わたしはミチコさんとふたり、屋上から夕暮れの海を眺めていた。
長い沈黙の後、ミチコさんがため息を吐いて、おもむろにつぶやいた。
「ここはほんとうに、セレンディピティの島ね……」
わたしたちの間で、そのアニメについて言及されたことはそれまで一度もなく、またその物語の島には「ピュア島」という名前がついているのに、ミチコさんは「セレンディピティの島」と言ったのだった。
それは何年も前、わたしが初めてこの同じ海を見たとき、
「ここは、セレンディピティの島だ。子どもの頃、あんなにも行きたいと夢見ていた場所に、いつのまにか来ていた」
と思ったことへの、最後のコンファメーションのように響いた。
「あなたがここへ来ることは、計画されていた」
このすべては、計画されていた……、そう告げられたのだと思った。
この道の上では、たびたび、このようなことが起きてきた。
偶然にしてはできすぎている、と思えるような、わざとらしい偶然の出来事が起きて、これまでの人生にちりばめられていた、あれやこれやの伏線が回収され、「ものごとはランダムに起きているのではない」ということが垣間見える。
それが見えるとき、わたしは、自分が「よき御手のうち」にあり、何か大きな存在により、愛され、守られ、導かれているのだと感じることができる。
そして、その「よき御手」をより信頼し、コントロールを手放して、身を任せても大丈夫なのだ、と確信を深めることができるのだ。
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