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分かち合う喜びと不完全であることの幸せ。

すっかりnoteから遠のいていました。

「何か書きたい」気持ちはあるのだけど、なかなか言葉にしきれななかったり、言語化してはみたけれど、なんだか嘘っぽくて、借りてきた言葉のような感じがぬぐえず、結局、下書きのままというものもいくつか。自分の文体を探していて、だけどまだつかみきれなくて。
その時にしか感じられないことがあるし、表現しなければそれはすぐに消え去ってしまう。それは真実ではあるけれど、言うは易し、行うは難しです。

1.「オムソーリ」――「悲しみの分かち合い」

さて、「オムソーリ」というスウェーデン語が好きです。
この言葉を知ったきっかけとなったのは神野直彦先生ですが、その意味はご著書のひとつから引用します。

「オムソーリ」とは「社会サービス」を意味するけれども、その原義は「悲しみの分かち合い」である。「オムソーリ」は「悲しみの分かち合い」、「優しさを与え合い」ながら生きている、スウェーデン社会の秘密を解き明かす言葉だといってもいいすぎではない。

「悲しみの分かち合い」という原義のある言葉を「社会サービス」に当てるなんて、なんてステキな国なんだろう――はじめて知ったのは10年以上前だと思いますが、とても心を動かされました。
そして、今は、この言葉の意味を、もう少しだけ深く感じられるようになった気がします。

いかんともしがたい人生の悲しみや儚さのようなものを知ることで、自分に対しても、誰かに対しても優しくなれるものです。そして、悲しみを分かち合うことだけではなくて、誰かに優しさをあげられること(受け取ってもらえること)もまた、とても幸せなことだと感じます。

2.「すべては正しい。しかし、部分的である」

あともうひとつ、近ごろ色んなところでよく使っている言葉があります。

「すべては正しい。しかし、部分的である」(true but partial)

これは、「インテグラル理論」を提唱したケン・ウィルバーの言葉です。

ウィルバーによると、「どれだけ創造的で、どれだけ精緻に組み立てられていたとしても、ひとつの視点からでは限界がある(Partial)。でも、同時に、どの視点も何らかの真実は含んでいる(true)」とのこと。

もっと詳しくは、こちらをご参照ください。

私にとって身近な例でいうと、こんなシチュエーションが考えられます。

「良い本をつくるためには、時間をかける必要があるから締切は守らなくてもいい」
「仕事は、締切があってこそ。まずは期日を守ることが何より大事」

締切を守れない派の私にとっては下の言葉は自然にわいてくるものではないけれど、、、編集者という立場からいうと、どちらも「正しいけれど部分的」と言わざるを得ません。

「締切を守らなくてもいい」の場合。誰かに読んでもらうことを想定した文章であれば、「タイミング」もまた重要なのは言わずもがな。コンテンツは、「テキスト(文章)」だけではなくて、どういうタイミング、どういうシチュエーションで読むかという「コンテキスト(文脈)」も大事であり、締切はその辺りを考慮して設定されているという視点をもつことは欠かせません。
一方、「締切は絶対に守る」の場合も、「締切さえ守ればいい」というわけではないのも事実です。文章を書くことの目的は、読んでもらうに値する質に仕上げることは、書き手のプライドに関わるはず。

ちなみに、「すべては正しい。しかし、部分的である」で言い表したいのは、「みんな正しいのだから、好き勝手にすればいいよね」というわけではないです。
その時々によって、より正しいもの、より多くの真実を含んでいる「最適解」はあります。そして、それを探す努力は必要だし、インテグラル理論のフレームワークも、そのためにあると理解しています。
だけど、それは「最適」なものであって、「絶対」なものではないわけではないわけです。

あと、私がこの言葉の好きな理由は、「完全に正しいものはない」ということだけではなくて(それだと虚無主義に陥るかもしれません…汗)、「完全に間違っているものもない」と言い切ってくれているところ。

「正しさ」と「間違い」の配合成分の比率は、ケース・バイ・ケース。
だけど、「正しさ100%」もなければ「間違い100%」もない。

もう少し身近な話題に引き付けてみると、100%正しい人もいなれなければ、100%間違った人もいない。100%正しい方法もなければ、100%間違っている方法もない。

1~99の間で揺らぎ、たゆたうのが、私たちなのかもしれません。


3.不確かさの中で生きる「悲しみ」と「喜び」

このことは、スッキリしない気持ち悪さも多少はあるけれど、救いでもあると感じています。ただ、この配分もまた人それぞれで、個体差がありそうです。真剣に考えれば考えるほど、「白黒」「善悪」という単純な話ではいかないから、どうしても歯切れの悪い問答になってしまうことは近ごろの自分の課題です。最適解を探るのは、決してラクではないし、分かり合えない経験もずいぶんありました。そして、これから先もまだまだ続いていくのだろうと思います。

もちろん、願わくば、できる限り最適な解を見つけたいし、その努力は怠りたくはないと思っています。と言いつつも、いつでも正しくあれるわけではないし、その努力ができるわけでもないのが、私たち人間が生まれながらにもった特徴のようなものなのでしょうか。

100%正しくも、100%間違った存在にもなれない。

そんな不確かな中で生きることもまた、「悲しみ」なのかもしれません。

でも、これって悪いことじゃないと思います。

みんながみんな「悲しみ」を抱えている。そして、みんな同じように「悲しみ」を抱いているから、「優しさ」を分け与えることもできる、そんな気もしています。誰かに優しさを受け取ってもらえることもまた、とても幸せなことだから。

それに、100%正しいわけではない不完全な存在だからこそ、自分に足りないところを誰かに補ってもらえる。同じように、自分が誰かの不完全さを補うこともできる。
そうやって誰かと共に生きられることは、「悲しみ」や「不完全さ」が与えてくれる幸せなのではないか――そんなことを、ぼんやりと考えていた38歳最後の夜。

この一年間お世話になったみなさま、ほんとうにありがとうございました。みなさまと悲しみ、そして優しさを分かち合える喜びを感じつつ、心からの感謝を込めて。

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柏原里美|編集者・ファシリテーター
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