『「いかなる転向療法も禁じられるべき」は本当か?』を読んで

こういう形で初記事を書くことになるとは思いませんでした。
文字数制限の為にnoteのコメント欄への投稿が現実的ではない(幾つに分割されるかも分からないコメントの全てをいちいち公開設定していただくのも申し訳ないと感じた)ため、暫定的にここに置いておくことにしました。

元記事はnoteの女性スペースを守る会の2022年4月18日の記事として投稿されている三浦俊彦さんが書かれたとされているもの『 「いかなる転向療法も禁じられるべき」は本当か? (三浦俊彦 東大教授)|女性スペースを守る会 (note.com) 』(https://note.com/sws_jp/n/ne2b76ab8761c)です。
以下【】内における『』内の言葉は上記の記事よりの引用です。

以下【】内に自身のコメントの原案をそのまま転記いたします(元記事の著者へ一応連絡を入れておくべきなのか、別に連絡を取る必要はないのか、どのように連絡を取るべきかとかいろいろ考えたのですが、どうするのが誠意のある行動なのか確信が持てず、未だ迷い中です)。


【こんにちは、はじめまして。
いま私は「転向療法」は可能かどうか及びその是非について調べたり考えたりしています。
私はトランスジェンダーについてそれほど詳しいわけではないのですが、著者の意見に対して同意できる部分と違和感を覚える部分がそれぞれありました。
いま私は著者と同じく『「いかなる転向療法も禁じられるべき」は本当か?』を私の言葉で以下のようにコメントにしようとしています、ぶしつけなお願いで恐縮ですがこのコメントを公開設定にしていただけますでしょうか。


『「トランスジェンダー」と呼ばれる人たちの大多数は、性同一性障害者ではない。つまり、身体違和なしで性別違和を訴える人々だ。自分の第一次性徴・第二次性徴に対して逼迫した不快感を覚えることはなく、できれば怖い手術なしで社会的性別・法的性別を変えたいと願っている。身体変更と社会的性別変更の優先順位(手段目的関係)が性同一性障害者とは逆なのだ。』というのは著者ご自身で『大多数は』とおっしゃられているように(『大多数』かどうかも議論の余地があるように思えますが)、これが正しいと言えるのは限定的ではないでしょうか。と言うのも、この記事で使われている『転向療法』の意味合いは性自認の矯正または性自認側での適合という意味での『転向療法』(「性自認における性同一性=安定している性自認」を再度越境させるような治療法または不安定な性自認の選択的固定化)ではなく『社会適応』を主題としたものであるように私には感じられるからです。

現時点においては記事内容にほぼ全面的に同意できるのですが、『不要で有害な性別移行治療を防ぐための治療』だけでは根本的な解決にならず、著者が『錯覚』と呼ぶ根本問題をどのように解決するのか、治療によって解決するのか及び治療できるのか、または治療しないのかが問題として残るように私には感じられます。著者が『社会の概念ネットワークを論理的に理解させ、辻褄の合った人間観を悟らせるような認知行動療法で十分である。』と言っているように、一般的に誤って認知または選択されていると思われている『性自認(性同一性)』の『治療』よりも『社会適応』を優先課題とするのであれば、それは『転向療法』ではないし、『転向療法』という呼び方もするべきではないと私は考えます。

確かに『錯覚』であるのであれば『認知の歪み』を自覚すると共に『社会のあり方』や『社会環境』を整えることで「適合」(ここで言う「適合」は社会的・法的な性別の調整)も「越境」(ここで言う「越境」は現行の各性別における規範の調整や規範が包摂する範囲の拡大または失っていたものを各性別の多様性の内に包摂されるものとしての再取得)も「転向」(ここで言う「転向」は各性別内の規範に適合する為の自身の認知の調整または排除および欺瞞)もそれぞれ『社会適応』の手段の一つと理論上は言えるように思えます。「『トランスジェンダー』の『性自認』は『錯覚』」という前提が本当に成り立つ場合であれば、『トランスジェンダー』と『性同一性障害者』を分けることで『社会適応』の仕方に幅を持たせたり『社会適応』を推進したりすることは可能であるかもしれないと私も思います。

一方で『社会の性別観、性別規範など』に対する『トランスジェンダー』の「『社会適応』の内向的な自発的要請(自身の認知および意思に反する自身に対する自身の「性自認の影響」=ここでは「自身の認知または選択により可能な性自認の表明」ではなく自身では選択不可能な『性自認の影響』と表現して差支えがないと思われる)」の全てが『錯覚』によるものと言えるのでしょうか。現象として現れる行動や感情や思考に対しては認知による調整が可能である可能性はあり、この部分においてはいわゆる一般的な『社会適応』が可能な根拠となり妥当性を得るのかもしれないが、外部から『社会適応』が要請されたときに起こる『錯覚』の根本の部分の問題つまりどの様に『社会適応』に応答するのかという「『社会適応』の内向的な自発的要請」の部分にはやはり問題が残るように感じられます。つまり極論をいうと『社会適応』によって『症状を和らげる』ことは可能でも、当事者の『性自認』に一般的な認識としての問題があり続けるのであれば『性自認』という当事者の抱える問題そのものが解決される訳では無いと私には感じられるのです。もちろん当事者の抱える『性自認』という問題を個人の問題か社会の問題かと議論することも可能ではあると思いますし、『症状を和らげる』ことが可能な部分を「社会の問題」と捉えることも可能ではあると思います。

『性自認』がどうであるかと『「男らしさ・女らしさ」への適合や不適合』を混同してはならないことには完全に同意します。『「男らしさ・女らしさ」への適合や不適合』というのも結果であって必ずしも原因ではないと感じると同時に、「適合」や「越境」や「転向」も『社会適応』の手段の一つであって対処療法にすぎないと私は考えています。「女性/男性だから、女性/男性らしい」というのも「女性/男性らしいから、女性/男性だ」というのも著者が言うように論理破綻していると私も感じます。もちろんそういう「らしさ」はあっていいし否定はしません。その上で『性自認』とは「女性/男性らしいから、女性/男性だ」と感じるもの(=『錯覚』)だとは言い切れないと私は思います。それは他者に対して「女性/男性らしくないから、女性/男性ではない」と感じるということが抱える論理矛盾の裏返しでしかないと感じられます。つまり『性自認』や『性別違和』を『社会適応』においてのみ解決しようと試みる限り『身体の性別』とは別の次元に「解決しきれない問題(『性自認』や『性別違和』の問題)」を残すことになります。ひるがえって「解決しきれない問題」は「『社会適応』の場において例えば「『トランスジェンダー』といったあり方を選択する」といった影響を残す可能性がある」という事が言えると私は思います。ここに著者が『錯覚』と呼ぶものの論理矛盾があるように私には感じられます。はたして「女性/男性が自身の事を女性/男性であると認知するだけにとどまらず感覚的な体験として経験していること(一般的な女性および男性における性同一性=性自認の安定)」やそれを基本として成立している『社会規範』や『社会環境』をも『錯覚』と呼ぶべきものなのでしょうか?同様の論理に従うのであれば『錯覚』と呼ばざるを得なくなってしまいます。このことは端的に「どのような社会の性別規範への応答も身体的性別に依るものではなく、紛れもなく個人の属性であり、全時代・全地域を通じて人類共通のものである」とも言えてしまうのではないでしょうか(故に逆説的にはそれぞれの社会においてトランスジェンダーやそれに類するものは社会規範への応答にあたり社会環境の違いによりそれぞれの社会でそれぞれの社会に合わせるかたちで表現をしているから異なるように見えるのではないかとも言えてしまうのではないでしょうか)。

著者が『人為的介入によって性的指向を変えさせるのは人権侵害である』と言われているように『性自認(自身では選択不可能な『性自認の影響』)』についても同様に『人権侵害』とならない方法で行われる必要がありますが、現在行われている『社会適応』によって『症状を和らげる』という対処療法よりも「性自認の矯正という本来の意味での『転向療法(性自認における「性同一性=性自認の安定」を再度越境させるような治療法)』」が“実際に可能であるのであれば”それも治療法という選択肢の一つにしたいと希望される方々は現行の「性別不合」(改定前に「性同一性障害」と呼ばれていたものを含む改定後のICD-11(国際疾病分類の第11回改訂版として2018年6月に世界保健機関(WHO)により公開され、2019年5月に世界保健機関(WHO)の総会で承認されたもの)の和訳において使用されている診断名または呼び方および診断基準におけるもの。DSM-5(アメリカ精神医学会が作成する、精神疾患の診断・統計マニュアルの第5版として2013年に公開されたもの)の和訳においては診断名または呼び方および診断基準において「性別違和」と表現されているもの。)をかかえる人々の中に少なからずおられるのではないかとも言えるのではないでしょうか。

最後に、性同一性障害を『性同一性障害は、身体完全同一性障害(Body Integrity Identity Disorder,BIID)という深刻な精神障害の一類型』と表現しきるのは、関係性が皆無とまでは言い切れないかもしれませんが語弊があると私には感じられます。また、『社会が歪んでいるのに自分個人に問題があるかのように思い込んだトランスジェンダーは、社会の性的偏見の代弁者であり犠牲者である。変わるべきは社会の方だ。いや正確に言うと、社会的常識はすでに「性別ステレオタイプに囚われる態度は悪」というふうにすっかり変化している。少なくともイギリスのような先進国社会はそうなっている。』と言いつつ(ここで『イギリスのような先進国社会は』と持ち出すのも『ジェンダーとは、〈特定の社会と身体的性別を入力すると統計的心理属性&規範が出力される関数〉である。』『ジェンダーの属性&規範は社会ごとに異なるので、社会を絞らないと決定しない。』とご自身が述べている事と論理矛盾が起きているように感じられるが疑問を捨て置くにしても)同時にまさしく当事者を「治療対象」ではなく「啓蒙対象」とする言葉選び、「性自認(性同一性)または性自認の弊害(性同一性がもたらす自己同一性への弊害)の治療」よりも『社会適応』を上位に位置付け優先し『転向療法』と呼ぶべきでないものを『転向療法』と称し人為的介入によって実行されることを推奨する『禁止どころかぜひとも実行されるべき治療、というより啓蒙』という表現をされるのには安易な言葉づかいなのではないのかとの違和感を覚えました。この記事の『性自認』『性別違和』『転向療法』の定義(前提)は私とは異なるようで、この部分に対する議論は足りていないように私には感じられました。

とりあえずは以上までということで、お許し願います。】


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