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「いかなる転向療法も禁じられるべき」は本当か? (三浦俊彦 東大教授)

三浦俊彦
                     
 同性愛者とトランスジェンダーへの転向療法を禁ずる法案をイギリス政府が取り下げた! そのことが一部界隈では話題になっている。3月31日にイギリス政府は、転向療法禁止の対象をLGBTではなくLGBに限定した法案を改めて発表した。ボリス・ジョンソンは、トランスジェンダーを除外したのは合理的だったと語り、人権団体などからは反発の声が上がっている。

 本来の人権思想の流れからすると、イギリス政府の方針はまったく正しい。同性愛者への転向療法と、トランスジェンダーへの転向療法とは、論理構造が全く異なるのだ。ジョンソンはこう言っている。「同性愛者への転向療法は忌まわしいものだが、セクシュアリティの領域からジェンダーの領域に移ると、複雑で繊細な問題が生じる」[1]。

 あっぱれだ。立場上、言葉を濁しているが、本当はもっとはっきり言いたかったことだろう。ジェンダーへのこだわりなど保護に値しない、と。

 セクシュアリティ、すなわち身体的性別は、紛れもなく個人の属性である。他方、ジェンダーなるものは個人の属性ではない。むしろ社会の属性である。ジェンダーを個人の属性であるかのように扱い始めた社会のあり方が歪んでいるのだ。個人が「自分のジェンダー」について何か困難を感じたとき、トラブルの源は当人ではなく、社会にある。当人が自分の性別に疑問を抱く必要などない。問われねばならないのは社会の性別観、性別規範など、硬直した性別ステレオタイプなのだ。

 社会が歪んでいるのに自分個人に問題があるかのように思い込んだトランスジェンダーは、社会の性的偏見の代弁者であり犠牲者である。変わるべきは社会の方だ。いや正確に言うと、社会的常識はすでに「性別ステレオタイプに囚われる態度は悪」というふうにすっかり変化している。少なくともイギリスのような先進国社会はそうなっている。その変化に追いついていない当事者の意識こそ、更新されなければならない。その更新手段の別名が「転向療法」である。トランスジェンダーに対しては、禁止どころかぜひとも実行されるべき治療、というより啓蒙なのだ。

 同性愛はどうだろう。イギリス政府は、同性愛に対する転向療法は禁ずるとしたわけだが。

 性的指向には、トランスジェンダーの「性自認」のような勘違いは起こりえない。女性身体に性欲を感じるのか男性身体に性欲を感じるのか、それは個人の生物学的欲求の問題であり、リアルな身体生理であって、変えるのが難しい。食でいえば、好き嫌いというよりアレルギーに近い。異性愛者に無理やり同性愛行為をさせるのが非倫理的であるのと同様、同性愛者に異性愛性欲を感じろと強制するのは拷問に等しい。「性癖に目覚める」という変化が自発的に起こりうることは確かだが、目覚めではなく人為的介入によって性的指向を変えさせるのは人権侵害である。

 身体違和に悩む性同一性障害についても同じことが言える。性同一性障害は、身体完全同一性障害(Body Integrity Identity Disorder,BIID)という深刻な精神障害の一類型であって、身体の脳内地図と現実の身体の食い違いに起因する。自己の第一次性徴・第二次性徴に対して性同一性障害者が抱く嫌悪感は、性的指向の根源的生理に匹敵するもので、容易に変えられない。性同一性障害者のその心理を矯正する転向療法は困難で、のんびりした治療は当人の苦痛を長引かせるだけということがわかっているので、性別適合手術で症状を和らげる「緊急避難措置」が本筋である。さらに、手術で得た新しい身体的特徴に合わせて、必要ならば戸籍性別を変更するのも、社会適応上、理にかなっている。

 対して、身体違和を伴わないジェンダー違和はどうだろうか。

 「トランスジェンダー」と呼ばれる人たちの大多数は、性同一性障害者ではない。つまり、身体違和なしで性別違和を訴える人々だ。自分の第一次性徴・第二次性徴に対して逼迫した不快感を覚えることはなく、できれば怖い手術なしで社会的性別・法的性別を変えたいと願っている。身体変更と社会的性別変更の優先順位(手段目的関係)が性同一性障害者とは逆なのだ。

 トランスジェンダーのこの心理は何によって生じるのだろうか? そう、認知の歪み、錯覚である。「女の子らしい服が好きだった」「男の子と一緒にサッカーばかりやっていた」など、「男らしさ・女らしさ」への適合や不適合を理由に挙げて「性自認が男性だ」「女性だ」「どちらでもない」「両方だ」などと主張するのがトランスジェンダーやノンバイナリーと呼ばれる人々だが、「らしさ」と性別を安易に結び付けてはいけないということは、道徳の基本だったはずだ。それがなぜか最近、ジェンダーがやたら尊重されるようになり、「らしさ」にもとづく思い込みをそのまま公認するのが人権尊重、といった詭弁が支持されるようになってきたのである。

 ジェンダーは、まともな学術的定義がないために曲解・乱用されている概念だが、セックス(身体的性別)と区別されるジェンダーとは大体次のようなものだ。〈男女のセックスの違いから社会的に派生した、性格、趣味、仕草、能力、好む役割や期待される役割などの、ボトムアップの統計的偏りと道徳習慣、ならびにそこからトップダウンで設定された社会規範〉。生殖的身体と社会環境が相互作用した結果として生ずる集団的傾向がジェンダーなのであって、個人ひとりひとりが持つ属性ではありえない。乱暴な遊びが好きだから男の子、花柄の服を着たがるから女の子、などと個人について決めつけるのは、「カテゴリーミステイク」と呼ばれる初歩的な誤謬である。

 論理構造が露出した定義の方がわかりやすいという人もいると思うので、別の述べ方もしておこう。ジェンダーとは、〈特定の社会と身体的性別を入力すると統計的心理属性&規範が出力される関数〉である。令和日本の男性ジェンダーと紀元一世紀のローマ帝国の男性ジェンダーは異なる属性&規範に対応する。ビクトリア時代英国の女性ジェンダーと10世紀アマゾネス社会の女性ジェンダーも全く異なる属性&規範に対応する。同時代でも、カナダのイヌイットとカメルーンのピグミーとでは、ジェンダーはかなり違った属性&規範に対応するだろう。ジェンダーの属性&規範は社会ごとに異なるので、社会を絞らないと決定しない。対してセックスは、全時代・全地域を通じて人類共通である。

 性別とは、染色体と生殖器で決まるセックスのことだ。それ以外に個人の性別というものは存在しない。よって、身体違和がないのに性別違和があるというトランスジェンダーは、性別という概念を誤解しているだけなのだ。男はこう、女はこうと決めつけてきたジェンダーという疑似性別に疑いの目を向けるべきなのに、ジェンダーに合わない自分を否定してしまい、自分の法的性別が間違っている、と勘違いしてしまうのである。

 このような倒錯的態度は、「他人に向けたら悪だが、自分に向けられる限りは問題ないのでは?」そう思う人もいるかもしれない。それは甘いのだ。たとえば内面化されたホモフォビアを考えてみよう。自分が同性愛者であることに違和感を覚え、異性愛者になれる魔法の手段として「性別変更」という書類手続きに頼ったトランスジェンダーが欧米には少なくない。自分の性的指向を否定するそのような態度は、他者の性的指向への不寛容、社会の同性愛差別の容認などを、当人の心の中に固着させる。そのような人には、「あなたは異性愛トランスジェンダーではなくて、同性愛者だったでしょ。変えられない性別を変えてまで逃げるなんて、どれだけ同性愛が嫌なの?」とツッコむことはある程度正しい。

 これは同性愛に限ったことではなく、一般の「男らしさ・女らしさ」についても成り立つ。性別規範に合わないから自分は男ではない、女ではないと思い込むトランスたちは、性別ステレオタイプを内面化している。そうした偏見、多様性拒否の心は、矯正されるのが望ましい。その矯正は、べつに「スカートをはくのはやめろ」「自分のことを俺なんて言うんじゃない」などと、当人の好みや欲求を捨てさせるわけではない。やりたいことはそのまま尊重して、ただ、その意味付けを正しく認識しろと教育するだけだ。ものの見方を変えさせるだけなので、同性愛矯正や身体違和矯正のような暴力にはならない。社会の概念ネットワークを論理的に理解させ、辻褄の合った人間観を悟らせるような認知行動療法で十分である。

 もちろん、性別ステレオタイプで自己束縛しているだけなら、「ココロのセーベツ教」の信者として、信教の自由を保証されなければならないだろう。転向療法は人権侵害となる。しかし現在、一部のトランスジェンダーは、心が女性だから女子更衣室を使わせろ、女子トイレを使わせろ、女子スポーツに出場させろと裁判を起こすところまで来てしまった。これは、自分と同じ宗教を信じろと他人に強制しているに等しい。もはや信仰の権利を逸脱している。単なる承認欲求を基本的人権と称して譲らない迷惑行為者に対しては、刑事事件で裁くより前に心理療法を施すというのは、倫理的に認められて当然だろう。

 さて、このたびイギリス政府がトランスジェンダーに対する転向療法を認めることにした最大の理由は、そうした迷惑トランスジェンダーの問題よりも、子どもの性別移行の問題であった。子どもが身体違和を訴えてホルモン療法や性別適合手術に進んでしまい、あとで後悔するというケースがイギリスでは多発していたのである。たしかに身体違和は単なるジェンダー違和とは違って、生理的リアルである。ただ、リアルだからといって、錯覚でないとは限らない。実際は身体違和など感じていないのに、感じていると思い込んでしまう場合があるのだ。

 思春期前後のとくに女性は、身体の変化を不安に思うことが珍しくない。とくに、内向的で友だちのいない子は、体つきの変化、初潮の予期や経験に対して、誰もが不安や違和感を覚えるものだということがわからない。自分だけが特別な不安に襲われていると錯覚し、それを「クイアな身体違和、性別違和」と受け止め、LGBTブームの甘言に誘われて自分もトランスなのだという「アイデンティティ獲得」で安心を得てしまう。宗教的洗脳のお定まりパターンだ。

 子どもが身体違和を訴える場合、それが錯覚でないかどうかを慎重に診断して、ニセの性同一性障害を性別移行ルートから除外しなければならない。つまりイギリス政府が許容するとした「転向療法」とは、子どもを気の迷いから醒めさせる治療であり、不要で有害な性別移行治療を防ぐための治療なのである。治療予防の治療、すなわちメタ治療なのだ。そこが同性愛者転向療法と決定的に異なる。

 若年者に限らず、身体違和の無いトランスジェンダーがむやみにホルモンを摂取するのは自傷行為であるし、女性スペースに入るのは迷惑行為である。自他を傷つけるそうした行為者に心理療法で対応するのは、覚醒剤やギャンブル、買売春などに法律や更生プログラムで対処するのに比べても、十分に合理的であると言える。転向療法という大雑把なレッテルのもとに非難されるべきことではない。

 イギリスの平等法(Equality Act 2010)[2]は、身体の性別をしっかり基本に据えて書かれているため、迷信的な「性自認」の教義がアメリカでのように感染を広げることを許さないだろう。日本では、国や東京都、埼玉県をはじめ各自治体で、性的指向と性自認を同列に並べた法案、パートナーシップ制度や差別禁止条例などの素案が策定されつつある。その新しがりはあいにく周回遅れなのだ。ニュートン、ダーウィンの知的伝統を誇るイギリスはさすがに一時の迷妄から醒めて、「性自認尊重」「セルフID」へのバックラッシュの先陣を切っている。今いちばん新しいのは、オーソドックスな反ジェンダリズム、反トランスジェンダリズムである。トレンドに従えと言うつもりはないが、「個人の属性としてのジェンダー」という概念的混乱に巻き込まれずに思考できる世代が育ちつつある気配は日本でも感じられる。人権と性道徳の未来は明るい。そう勇気づけられるイギリスからのニュースだった。


[1] https://www.youtube.com/watch?v=I_WPIuWgTkk
[2] https://www.legislation.gov.uk/ukpga/2010/15/contents

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