生物と社会

生物の定義によっては生物であると言い難い物も含まれますが、生物を増殖するものという観点から捉えると、大まかに言って微生物とはウィロイド、オベリスク、ウィルス、古細菌、細菌、真菌、変形菌、原虫、偽菌類などに分けられるようです。
あるいは「原核生物と真核生物と非生物に近い生物」という分け方や「古細菌、細菌、真核生物とその他」という分け方ができるそうです。

話しは飛びますが植物や動物(哺乳類、爬虫類、昆虫など)の増殖の仕方も微生物の増殖と同様に興味深いものがあります。特に植物の増殖で言えば自家不和合成や雌雄異熟や異型花柱性、アポミクシス(無融合種子形成)および被子植物以外の植物における有性生殖などは多様化への挑戦という視点から面白いです。いずれにせよ、生物が如何にして増殖かつ環境に適応(多様化)しようとしてきたのかという歴史を想うことは、人間も進化の途上にあるのだという事を改めて意識させてくれます。

はたして「女らしさ」や「男らしさ」というジェンダー(性役割あるいは社会的性差)はセックス(性別)とどのような関りがあるのか。そして「女らしさ」や「男らしさ」も変化あるいはは多様化しているのか。また資本主義社会やLGBTなどに見られる社会構造や社会的役割は、社会性昆虫に見られる社会構造や社会的役割と類似点や相似点があると言えるのか、など疑問は尽きません。

いずれにせよ、私はいまだに「社会が変わってしまう」の一言に引っかかり、納得も理解もできていないのです。私は未だにジェンダー(性自認を含む)というものが生得的なものなのか習得的なものなのか、あるいはその混合なのか重なり合う部分があるものとして捉えるべきなのか判断を付けられずにいます。「社会が変わってしまう」の一言は今の社会構造あるいは社会規範がまるで生得的なものであるかのように言っていると私には感じられたのです。もっと言えば、「社会が変わってしまう」の一言はある人々を「社会の外側のもの」であると区別するような言い回しに聞こえてしまったのです。

ちょっと遺伝子中心視点主義的すぎた社会生物学に批判が起きた社会生物学論争に近いような話をしてしまいましたが、遺伝子中心視点主義的な性別二元論に立脚した社会理解に対して「社会はもっと複雑なんじゃないのか」とか「性別=身体=遺伝子は生物学であって、社会学(ジェンダー学)に遺伝子は関係ないでしょう、とは言い切れないんじゃないの」と言えるのは、むしろ社会生物学(行動生態学)なのではないかと私は思っています。

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