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幸せに溢れた日々

写真に興味のない人が撮った写真てなんだか好き。
見たものをただシャッターを押しただけっていう感じが機械的でいい。
その写真には感情が写らない。無機質。
撮りたいものがある、見せたい景色があると
どうしても感情が移って(写って)しまう。
それが時に人を感動させ
センセーショナルな作品を生み出す。
でもわたしは敢えて無機質な写真に時折ふれたくなる。
解説のない絵は見た人の感性が反映されるように
無機質な写真では写し手の感情は消えて
見た人の心情が写りこむ。

単にわたしは無機質に命を感じる瞬間が好き。
例えばビルの灯りや工場の灯り。
どこか切なくて寂しくて。
その硬く冷え切ったコンクリートで覆われた
ビルや工場の壁面の内側に
そこに誰かがいて
灯りをつけて仕事をしたり生活をしていたりする。
遠くから見ると明かりがゆらゆら揺れて
ついたり消えたりして
まるで建物にも命があるみたい。
全てのものに神が宿り
無機質なものも生きているという
八百萬の神信仰の話をしているのではない。
あのビルの灯りや工場の灯り、
感情のこもらない写真も
知らない誰かの日常で作られていて
なんとなくみている風景も誰かが作り出し
無機質なものに命を与えているのも
人でありまた誰かの大切な人生なのだ。


名前も知らないその人の人生にも
同じように苦楽があって
きっと交わることはないのだろうけど
場所は違えど同じ時を過ごしてきた人が
作り出すその景色を見ていると
嬉しくなって胸が高鳴り
なぜだか「生かされている命」を実感し
目頭が熱くなる。
この感情に名前をつけるとしたら
何と呼ぶのが正しいのだろうか。
夏の終りに道で干からびているセミを見るたびに深みを感じてしまう人間には理解されそうな感情。
深いようで案外浅いのかもしれない。




外出自粛期間が開けて
ありがたい事に忙しくお仕事ができていて
休みの日は大切な人たちとゆっくり過ごす時間を楽しんでいる。
丁寧な生活で、欲しいものが見つからないくらい充実した人生。
それでも、いつの日かこの幸せが
壊れてしまう気がして未来を憂いてしまう。


その日は突然やってきて
当たり前に終わりが来たとき
その普遍的な日々を思い出して
悲しくなったりさみしくなったりしてしまうから
今ある当たり前の幸せを
大切にして生きていきたい。


支えてきてくれた周りの人たちには本当に感謝の言葉しかでてこない。
手を離さないでくれて
同じ歩幅で歩いてくれてありがとう。
おかげで去年とは違う夏を迎えようとしている。
特別な事は何も望んでいない。
真夏の夜風に当たりながら散歩をしたり
遠くで鳴る花火を一緒に見上げたり
扇風機の風に揺蕩いながらアイスを食べて
いつだってできる事を当たり前に過ごしたい。
みんなが健康で楽しい日々を送れたら
それだけでいい。


きっと楽しい夏になるんだろうな。
楽しい行事を控えた子どものような感覚。


そしたらたくさん写真を撮ろう。
たくさん笑おう。



見たものをただ撮るのは辞めて
刹那の幸せを逃がさないように閉じ込めるように
噛み締めてシャッターを切る。




Song of the week

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flumpool/フレイム

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