復活祭
3月31日はイースターでした。
アメリカ在住の私は、家族と一緒にエッグハントと言われる「卵探し」のイベントにいくつか参加し、楽しんできました。
アメリカには子供が楽しめるイベントがたくさんあって、とても良い経験になっていると感じます。
今日はそのイベントを通して感じたことを書いてみます。
クリスチャンの方にとってはもしかして不快に感じたりされるのかもしれないですが、あくまで感じたことを書きたいなぁと思っていて、何か私が思う正しさを押し付けたいとか、そういうつもりはないので、悪しからず・・・です。
復活祭(イースター)の経験
イースターはキリスト教では大事な日とされていて、クリスマスとはまた違う形でお祝いされています。
クリスマスは家族全員がそろって、キリストの生誕をお祝いする日で、日本だとお正月に近いかもしれません。
親戚も集まって、みんなでプレゼントを交換し、食事やゲームを楽しみます。
イースターは、家族一同集まる・・という感じではなくて、キリスト教の人であれば教会に行き、それとは別にエッグハントを楽しみます。
エッグハントは子供のための「卵探しゲーム」です。
卵は「生まれる」ことの象徴であり、また、うさぎは多産であるため、うさぎのグッズもたくさん売っていました。
ご近所さんやお友達同士、教会の仲間、家族だけで、お菓子を中に入れた卵型カプセルを隠して、子供たちが探しに行きます。
こちらはお庭が広く、庭中に隠された卵を駆けまわりながら探します。
土日にわたって2つのエッグハントに招待してもらって参加しましたが、とっても面白かったです。
なんとなくですが、アメリカという国が「子供」を大切にしているのかなぁなんてことも感じたりしました。
聖書とイースター
さて、このイースター。
ただ卵探しをするためのイベントではもちろんありません。
ちゃんと意味があります。
ベースは聖書における、イエス・キリストの復活のストーリーです。
聖書のストーリーを知ることでイースターの重要性がわかる
復活祭—キリストが十字架に磔にされてから3日後に復活したときのことをお祝いするもの、ということは知っていたのですが、聖書のお話を聞くようになって、その重要性がわかってきました。
今、私は、クリスチャンのお友達に聖書について週一回くらいの頻度で教えてもらっています。
特に私はなにかの宗教を信じているとかはないのですが(実家も義実家も浄土真宗だったかな・・というくらい)、その土地の風土と歴史、宗教、建築、そして国民性やその人の価値観が関係ある、ということに単純に興味があって、教えもてらっている・・という感じです。
幼稚園がたまたまカトリック系だったことと、小学生のときにキリスト教系の新興宗教のお友達がいて、その話を聞いていたことも、そこに興味を持つきっかけの一つになっているかもしれません。
911で宗教戦争というものを知った
一番衝撃を受けたのは、911のときのテロでしょうか。
高校生だったので、何が起きてるのかわからなかったのですが、背景にあるのが宗教であることだけはなんとなくわかっていて、言ってみれば世界の戦争の原因のほとんどは宗教なんじゃないか・・と感じた時の衝撃が大きかったからこそ宗教に興味を持ったのかもしれません。
当時気が向いたら日記みたいなものを書いていたんですが、そこにも
「神さまは人を殺すことを良しとするのだろうか?」
「そういう神さまを信じてしまえるんだろうか?」
「そんなのは神さまなんだろうか?」
ということを書いたのを今でもはっきり覚えています。
何よりも平和であってほしい
誰もが安全にしあわせに暮らせる世界であってほしい
と、これは小学生のころから思っていた記憶があります。
それで500円を募金したら親に怒られましたね(笑)
今も根本的にはそういう気持ちがあるから、星読みをしているんだろうな、と思うし、聖書を勉強しているのかな~なんて思います。
キリストは存在したのか?キリストは神なのか?
実際のところ私が聖書に関してどう思っているか、というのはあくまで個人的な考えとして書きます。
私自身は、キリストという人物はいたのであろう、と思っています。
そしてキリストが言うところの神の存在もどこかにはあるのだろう、とは思っています。
ただ、キリストが言う神と聖書が言う神が同じか?と聞かれると、そこに違和感があるように感じてしまっています。
ちなみに、聖書では、神(GOD)=イエス(JESUS)=聖霊(HOLY SPIRIT)とされています。
ただ、イエスには人間としての肉体があり、その側面も持っています。
だけれどその本質は神であり、「神の子」とは少しニュアンスが違うようにも感じました。
英語で学んでいるので、正確な情報ではないのかもしれませんが・・
もしかして、イエスが神と同等である、という意味は、私たちにも適用されることを本当は言っていて、それを聖書として書き記すときにはちがう意味になってしまったのでは・・?
とも感じてしまうのです。
というのも、やはり私たちは宇宙の始まりの1つの点から生まれ、その1つが分離してできた存在であることを考えたら、1つの点を「神」としたら、そこから分離した私たちは「分け御霊」であり「神」である・・・と言えると思うのですよね。
同時に神でないのかもしれませんが、神が神を理解するために分離した存在が私たちなのであれば、私たちはやっぱりもとは神なんです。
ということを本質的にイエスは言いたかったのではないか・・とも思うのです。
あるいはそれだと当時の状況では伝わらないから、自分たちと違う絶対的な存在としての神を説いたのではないか・・と。
キリストという人
キリストは、つまるところ「愛」について説いた人であり、それについては本当にそうなんだと共感してしまえるんですよね。
ただ、彼が本当に伝えたいことはあくまで「愛の本質」であり、それそのものが「神」であるか、「神」に近づく要素である、ということなのかな、と思ってしまうんですよね。
「神を信じないと救われない」とか「キリストについていけば必ず救われる」みたいな話ではないんじゃないかな、と思うんです。
キリストについていく、信じる、ということは、「唯一絶対の神」を信じろということではなく、
「世界は愛でできていて、愛を人に与え、そうしてまた愛を受け取ってほしい」
「人間という宇宙においては小さな存在で、目に見えない流れを受け入れて生きていくことが大切だよ」
ということを本当は伝えたかったんじゃないかなぁ、と。
キリスト教の前身であるユダヤ教は、戒律がかなり厳しいんですね。
その戒律の1つに「安息日」というものが週に1回あって、その日は何もしてはいけないんです。
家から一歩も出てはいけないし、実際に今でもユダヤ教の人はその日には家事もしないし、本当になにもしないのだそうです。
キリストが生きていた時代もそうで、目の前で困っている人がいるのに、それを助けることすらも許されないのが安息日。
キリストは、「それおかしくない?その人困っているのに助けないで安息日を守る、というのは結局は神の教えに背いているんじゃないの?神はそういうことを言いたかったわけじゃないはずだ」ということを説いて、その人を助けてあげる・・というストーリーがあります。
そういうことなんじゃないかな、と思うんですよ。
「決まりを守ること」が大切なのではなく、「生き方」を守ることが大切だ、と。
そして、キリストは神さまとほぼイコールな存在なので、自然や天候も操れてしまえる存在なんです。
もちろん病気を治したり。
そういう描写がたくさんあるのですが、言ってみれば、日本でも八大竜王の伝説があったり、あるいは天皇も祈りの力によって天候を操る・・こともできると言われたりしていますよね。
変な話、これってちゃんと信じていれば、誰でもこれをできるようになると思うんですよ。
私たちが観測している世界を共有しているのが、この世界なので、誰かの祈りが重なっていって天候が変わることも実は当たり前にできちゃうのではないか、と。
・・とまぁその辺の話は置いておきまして。
キリストの存在が当時の人にとって大きな存在となりつつあったのは間違いなく、その後ローマ帝国で国の宗教として認められたことで、今や一大宗教となっています。
キリストの死と復活、イースター
で、そのキリストはあまりに目立ちすぎて、多くの人が信じるようになってしまって、面白くないと思った人たちが「人心を惑わす」として、キリストを磔にして処刑します。
それが、春分の後の金曜のできごとだったのですが、「3日後に復活する」という本人の預言通り、日曜に当時のお墓から身体がなくなっていて、復活するんですね。
それこそがキリストが救世主であるという証拠であり、神の子である(というか神そのもの)という証拠となっているんですね。
そしてこの復活が意味することは、
「神のご加護が私たちにはある」
「喜びそのものである」
「信じることが大切である」
ということなのだそうです。
他にもあった気がするのですが、英語だったしちょっと忘れてしまいました・・・
だから、この復活祭をお祝いする、というのがイースターの意味なんですね。
イースターのストーリーの中で大切なこと
もちろんキリストが復活したことそのものが、素晴らしいことで、人々の罪が贖われ、キリストが神の子であり、救世主である、という証明になったことは大切なのですが、その復活のストーリーの中で、重要であり本質であるのは実は他のことなんです。
それは「信じる」ということ。
信じることが一番のベースにあり、信じるからその奇跡を目にすることができ、また奇跡を目の当たりにしたからこそ信じることができる。
ということを牧師さんも仰っていました。
キリストは磔にされる前に、「私は3日後に復活する」と言っているんです。
使徒たちや弟子たちはキリストを信じていたはずなのに、嘆き悲しみ、3日後にキリストが目の前に現れた時にも、信じ切れていなかったんです。
「え?ほんとにイエスさまですか?」
ってなるんですよ。
で、「言ってたでしょ?信じてなかったの?」
みたいなことがあり。
「信じているものしか見えないんだよ」
というようなことを仰るんですよね。
信じるということ
そう、私たちって信じたものしか見えないんですよ。
これって突き詰めたら、引寄せの法則や量子力学の世界とも同じだと思えませんか??
しかも般若心経で描かれる色即是空の世界観とも同じだと思うんです。
そういう宇宙の真理みたいなのとか、地球で適用される法則をキリストは知っていて、それを教えていたんじゃないかな~と思ってしまうんですよね。
まだ人類の意識がそれほど成長していなかったから、今はやっている引寄せみたいな言い方ではなかったのかもしれないですが。
すべては同じ
だから、世界で語り継がれている教えや神話って意外とちゃんと現代科学でも証明されつつあることだったり、真理なんだなぁ、と。
とすれば、全部結局言い方は違うけど、同じなんじゃないのかな?と感じるんです。
日本人の考え方のベースにあるものだって、すべてのものに対する愛だったり畏敬の念だったりするし、言霊や祈りなどもありますよね。
本当に同じことをちがう角度から見て言ってるだけなんじゃ・・・
友人の反応は・・
そこまではっきりは言わなかったけど、聖書を教えてくれる友人に、日本にも同じような考え方があるよ~という話をしたことがあります。
それはこういう話が全部つながっていて、同じ話を違う角度から話しているだけ、だと感じたからです。
なのですが、おそらく友人からすると「全然ちがう」のだと思います。
根本的に、「何一つ間違うことがない常に正しくある、正しさを知っていて光の存在である唯一絶対の神」がいてこそ、この世界が成り立っているので、そもそも日本にいる「人間くさい神さま」は「そんな神さまでいいの?」となるし、「自然に神が宿るのではない、神が自然を操っているのだ」となります。
2つは似て非なるモノであると、感じているのだろうな、とは伝わってくるので、なるほどなぁと思っています。
どちらが正しい、という議論をしたいわけでもないし、相手を否定したいわけでももちろんなくて、友人として大好きだからこそ、適当に話を合わせたくはないな・・と思って、話していました。
なのだけど、たまにもどかしさを感じてしまうんですよね。
どちらもいい、けれど、もどかしい
どちらの考え方もいい、と思っているということは、「唯一絶対の神」がいてもいい、と「いろんな神」がいていいが、両立するのですが、「唯一絶対の神」を信じていたら、その他の神は偽物なわけで・・
精霊みたいな言い方になると考え方としては受け入れやすいのかもしれませんが、逆にそれは神への冒涜になるのかもしれない・・
というところで、本当に分かり合うことはどうしてもできないのか・・という壁をもどかしく感じています。
でも、本当にそれでいいとも思っていて、人間としての私はそれを寂しくも思うけど、それが必要で起きていることなので、宇宙的な視点で見たら本当にどちらもOKで、その価値観や経験が宇宙の記憶として蓄積されていくだけなんですよね。
宗教も教育も洗脳の1つ。だけどそれが悪いわけではない。
宗教ってある意味「洗脳」です。
でも、それは「無宗教」と思っている私たちだって同じで、結局「無宗教」という中に実はいろんな宗教がまぜこぜになって同居していて「それが普通」と思わされている洗脳をされているわけです。
教育だって洗脳の一種だろうと思いますし。
世の中にある「あたりまえ」と思わされていることは極端に言えば全部洗脳です。
でもそういうのを積み重ねて、あるいは互いにそういうものを折り重ね合って生きていて世界や宇宙が成り立っているので、別にそれでいいんですよね。
ただ。
どの宗教であろうとも、どんな「良い教え」であろうとも、根本をたどれば結局同じ話。
宇宙の法則。
なのだとしたら。
平和に、心地よく、誰もが生きられる世界にいたい
だとしたら何のために争う必要があるのか??
何も分けなくていいんじゃないか?
互いを認めやさしい対話をすればよいのではないか?
この地球に境界線なんてあるのか?
誰かのものであるものなんて1つでもあるのか?
全部分解したら、すべてのものの素は光なんだから、何1つ誰のものでもなく、同時に誰のものでもあるんじゃないか?
と思います。
とか夫に言ったら
「悟りでも開きたいの?」
「解脱するの?」
といわれがちなんですが(笑)
みんながそれを望めば争いなんて起こらない。
けれど、本当にどちらもあっていい。
それだけは確かなので、どちらのサイドも存在している・・・
でも、自分の見ている世界は、みんなが自分らしく生きやすくいられたらいいな、と思ってしまうんですよね。
少なくとも私の周りはそういう人が多くて、それはうれしいのですが、世界に目を向けてしまったときに、どうしてもそうじゃない現実が目に入ってくるんですよね。
見たいものを見ているから、結局それも私の見たいもの、ということになるのでしょうけど。
聖書への疑問
話が脱線しましたが。
どうしても拭えない疑問がやっぱり出てきます。
神とは
キリスト教が言うところの神様がもしも本当に完全無欠の神様ならば、なぜ神の言いつけを破って知恵の実を食べただけで人間を赦さないのか。
キリストが人類の罪を背負って、自分を犠牲にして、磔にされたとしたら、なぜ今こういう世の中なのか。
いずれまた新しい地球になってそのときにキリストや神がいるところに、「信じている人だけ」行けるそうですが、なぜキリストがいた2000年前ではなかったのか。
神さまがすべてをコントロールできるのであれば、人間に戦争をさせなければよいだろうし、今すぐ「約束を破った」ことを赦して、なんの恐怖も心配もない、死のない世界にできないのか。
と、いろんな疑問が湧いてきてしまうんですよね。
戦争をして、また罪を作っているのは「人」だとも確かに受け取れますが、それも取り上げちゃえば良いのでは???
という疑問・・
まだ戦争や争いがあるということは、神さまはそういう「悪い」ことも「影」の部分も含めて人間という存在に愚かさも愛しさを感じてくれているのではないか・・?
あるいはすべてフラットに見ているのではないか・・?
とも思えてしまいますよね。
陰と陽、光と影、清濁、善と悪。
全部あっていい。
言葉上、「悪」と言っているものも、本質的には別に悪いわけじゃなくて、どちらも対等なものとして存在していると考える方が自然なのではないか。
と、生まれてからずっと日本にいた私は思ってしまうのですよね。
それすらも洗脳なのかもしれませんが。
キリストも「死」というものを受け入れたうえで再び「生」を受けている。
闇があるからこそ光がいっそう美しく眩い。
それは人間としてごく普通の感覚だけれど、闇を罪として断罪せずとも、受け入れ統合していくことはできないのだろうか。
光を感じる復活祭
復活祭は「光」を表し、でもそこには実は「闇」も内包されているのだと、私は感じました。
光であるがゆえに、愛を受け入れる、愛を分け与える、ということでもあるし、それを信じているからこそごく自然に愛を交換できるのでしょう。
キリスト教ではエデンの園や楽園が「光」の世界で、人間界はいわば地獄に近いもの、罰としてここにいる、みたいな考えがベースにあるのかな~というのも端々に感じるのですが、この世に「生きている」ということこそが「喜び」なんじゃないかって、イースターのお話を聞いて思いました。
本当はキリストはそう伝えたかったんじゃないか、とも。
(たぶんクリスチャンの方にとっては、全然違う!ってなるかもなんですが)
キリストが誰にも平等であったことにも、「神を信じた人だけが天国に行ける」ということではないように感じてしまうんですよね。
神そのものというより、人間には想像もつかないような存在であったり、そうやって人間が生かされているということそのものを信じた人・・とかなのかな。
スピリチュアルな表現で言えばアセンションした世界・・・になるのでしょう。
アセンションした世界が天国で、低次元のままの世界が地獄、ということなのかと。
神さまやイエスはアセンションした側にいる、ってことですね。
このときって、もしかしたら私たちは肉体を持っていなくて意識体だったりするんじゃないかとすら思えますが(つまり今の生は失っている?)、どうなんでしょう?
さいごに
本当に長々書いてしまいました(笑)
もし最後まで読んでくださる方がいたら本当にありがとうございます。
つらつらと自分が感じたことを書いただけの文章ですが。
書いてみて、本当に「平和」に対する切望と「宇宙」へ回帰したい気持ちとが自分の中にあるのだなぁ・・と感じました。
やっぱり自分がほしいものが明確になるので、感情や考えを書き出すのは良きですね(笑)
そしてほしいものがあったら、それになりきるだけです。
もうそれはあるから。
少なくともどこかのタイムラインにはあって、今の私はそれを選択できるはずなので。
モヤモヤが昇華され、改めて自分に集中していきたいと思います!
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