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自由に興味の赴くままに遊ぶということ

clusterをちゃんと使ってみた。
clusterとは、スマホやタブレットなどでも簡単に遊べるVRチャットのようなメタバースプラットフォームである。(詳しくは以下のリンクを見てほしい)

前に遊んだことはあったが、知らない人と交流することはなかった。
ふと気が向いたので、ちゃんとSNSとして使ってみることにした。


交流したのは(恐らく)小学生と中学生くらいの子。


中学生の子が作ったワールドに私がたまたま入ったところ、気さくに話しかけてくれて楽しかった。
その子はワールドを作ることがとても楽しいと言う。
blenderを教えたらとても興味を持っていた。

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この年頃の自分をふと思い返す。

山積みにしたコピー用紙を机に置いて、ひたすら好きなアニメの絵を描いたり、コスプレイヤーに憧れて小道具を自作してみたり、無心で手芸に明け暮れた日々を思い出した。インターネットも大好きだった。
興味はどこまでも深掘っていけたし、時間もあるので無限に遊べた。

時を戻して大人になった今。
自分自身のクリエイティビティはどこから来るのかについて考える。

この数年間、環境変化とコロナ禍がダブルブッキングした影響で、自分は何が楽しくて今まで行動できていたのかさっぱり分からなくなってしまった。

今は状況も仕事も落ち着いてそれなりに出来ているが、やるべきことに追われる日々が続くと、自分のやりたいことを本当に忘れてしまう。
「家でゆっくり本を読みたい」レベルの願望でも、意識的にならないと気付けない。
呆けていることに気付かされる

落合陽一さん著の「デジタルネイチャー」をこのGWの課題図書にしているのだが、
そこに、モチベーションとアート的衝動(それをやらずにはいられない衝動)を持ちえるか持ちえないかの格差について記載があった。(詳しくは読んでください)

私の場合、モチベーションがあることは自覚しているが、アート的衝動は燻っている。
やるべきことをやりたいことにすり替えるのも上手だったこともあり、毎度仕事を終えるごとに燃え尽き症候群のような感覚を持っていたのだなと思った。

その後にやりたいことを考えても、結局やるべきことに繋げようという下心のある「やりたいこと(仮)」になってしまっていた。
本当にそれがやりたいことだったら全然良いのだが、どこか自分らしくない気持ち悪さを抱えつつも、やるべきことをやりたいことだと言い聞かせていた。

そうしてできた「やりたいこと(仮)」にアート的衝動が起こり、突き動かされるように行動できるだろうか?
私の場合、衝動が起きない自分に罪悪感を募らせるという悪循環に陥った。

やるべきことドリブンで動きすぎたことを反省する。
やるべきことをこなしてきた今までの自分は肯定しつつ、やるべきこととやりたいことは切り分けた上でやりたいことドリブンにシフトチェンジすることが今後課題だなと思う。

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ここまで書いてみたが、「クリエイティビティはどこから来るのか」という問いは依然として問いのままである。

もう一つヒントとして、
0→1の0はどこから来るのかという話を会社の大先輩が聞かせてくれたことがある。
その0は、自分の今いる組織の外側から来ると言う。つまり自分の興味や自由な探究だ。

clusterでワールドを作り始めた中学生。
夢中で創作に明け暮れた中学生の私。
やるべきことドリブンで燃え尽きがちな社会人の私。

これらをみて振り返ると、
「自由に、興味の赴くままに遊ぶ」
というのは一つ答えというか、そりゃそうだろという真理かもしれない。

自分がやりたいことを起点に、
「自由」が「無責任な放棄」にならないようやるべきことも上手くこなしつつ、
その結果の良し悪しをドンと受け入れられる。
そんな大人に私はなりたい。

という私なりの雨ニモマケズで締めることにする。

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