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心理的安全性って???

Google re:Workで語られた「心理的安全性」って言葉が引っかかっていて、少し考えてみたいなと。
最近のマイバスワードですねw

心理的安全性: 心理的安全性とは、対人関係においてリスクある行動を取ったときの結果に対する個人の認知の仕方、つまり、「無知、無能、ネガティブ、邪魔だと思われる可能性のある行動をしても、このチームなら大丈夫だ」と信じられるかどうかを意味します。心理的安全性の高いチームのメンバーは、他のメンバーに対してリスクを取ることに不安を感じていません。自分の過ちを認めたり、質問をしたり、新しいアイデアを披露したりしても、誰も自分を馬鹿にしたり罰したりしないと信じられる余地があります。

出典:Google re:Work 「効果的なチームとは何か」を知る

要するに「組織の安心感」ですよね。

日本語訳した「心理的安全性」って語感がひらべったくて違和感あるんですけど、英語だと「psychological safety」。あんま変わらなかったですw


日本における「心理的安全性」って

ただ、語感だけじゃなく、旧来の日本文化からもギャップがありますよね。
と言うのも、最も自分をさらけ出さず空気で読み合うのが日本文化の象徴的なトコあるじゃないですか。
でも、きっとそれが壁にぶち当ってるんですよね。

なんでかと言ったら、現代日本では、ついに(いや、ようやくか)人生観に「多様性」ってものが芽生えた。それが平成だったのかなと思います。
(まぁ、政治は全くそれに着いて来れてませんが。。)
そこに来て、価値観が違うもの同士が空気を読みあったところで、意識共有なんてできないんですよね。すれ違うばかりで。


昭和から平成初頭まで、それでも上手くやれたのは根本的価値観が近かった。いや、もっと言ってしまうと、教育の画一化の元で量産された人同士だったからに他ならないのかなと。
敢えていいますが、ぼくも完全にこの世代ですよ←

例えば、学生運動とかを顧みても、そこに個人の価値観が花開いたと言うより、組織化され統一された集団の価値観が爆発した。そんな風に見えるんです。(社会学者でもなんでもないので的外れだったらすみません。)

バブルもそうだしバンドブームやミリオンセラー連発の小室ブーム時代も然りかなと。
(中心で活躍した人たち自身は究極の個ですけどね。)

そして全てが弾けて、失われた20年がやってきた。

この間にコミュニケーション能力ってのがやけに叫ばれるようになったのも必然なのかな。と思えるわけです。


じゃあ何が必要なのか?

では、どうしたら「心理的安全性」に近づけるのか。
答えは当然「多様性」を認め合うこと。
すなわち「尊重」って言葉に集約されるんじゃないでしょうか。

相手を尊重するからこそ、認めあえる。
認められるからこそ、素直に受け入れられる。
受け入れられるからこそ、意識共有ができる。

完全に理解し合うなんて事は不可能でも、心理的距離が近づくことで1つのものごとを同じような視野で見つめることができますよね。

それをチーム全体で共感し合うことが、「心理的安全性」なんだろう。と解釈しました。


1つのチームに、同じような人は2人と存在しないですし。
だからこそ、チーム全体がお互いを認め合えたら、そんな素晴らしいことはないな。
そんなチームになれたらいいな。

と、深く考えさせられた最近のぼくでした。

今日はここまで。



・・・と言いつつ、

じつは、空気を読むこと自体の本質は、相手の意識や集団と空間・会話の文脈全体を把握することにあるので、実際はちゃんと空気が読めたら、意識共有できるんですが(この辺は齋藤孝教授の受け売り)、また次の機会にでも。

それだけ「空気を読む」って大変なことだよ。ってことですよね。
KY、KY(もう死語だな)なんて、誰が空気なんて読めてんだよ!って、、雑記が長くなってしまった…

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