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瀬戸内寂聴から学ぶ最後には勝つ粘り方。

 年が明けると僕は占いを調べている。
 考えてみると毎年、調べて今年は良いことがあるという実感をなんとか得ようとしている気がする。

 初詣に行って、手を合わせる時もぼんやりそんなことを考えている。とはいえ、そこに何かしら具体的な願いはないから、聞く方からすれば、「え? 結局なに?」となることは必至だ。
 あと、神社で神頼みをする時って、願いごとをする場ではないって話も聞く。

 何にしても、せっかく一年が新たに始まるのなら、良いことがあって欲しいと僕は願っている。
 とはいえ、どれを調べても今年はすごく良い訳でもすごく悪い訳でもない感じの結果が出てくる。

 空から幸運が降ってくるのを期待せず、地道にやっていけってことなんだろう。
 それこそ、階段を一つ一つ昇っていくように。

 では、今回のエッセイです。

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(2021年)11月9日、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが99歳で死去した。

 そのニュースを知ってから、ウィキペディアなどを見ると生まれが1922年5月15日とあって、「大正・昭和・平成・令和と4つの時代を生きた作家である」と書かれていた。
 瀬戸内寂聴のウィキペディアをスクロールすると分かるけれど、彼女はとんでもない量の文章を書いて出版していた。
 山田詠美との対談(だったと記憶している)で、瀬戸内寂聴の展示会をする、ということで過去に自分が書いたものを壁一面に飾ってもらったら、そのあまりにもな量に眩暈がした、と語っていた。

 そんな瀬戸内寂聴のことを少し考えてみたくて、今回手に取ったのがイルメラ・日地谷=キルシュネライト編の『〈女流〉放談-昭和を生きた女性作家たち』だった。
 この本は少々特殊で、一九八二年から日本を代表する女性作家にドイツ生まれのイルメラ・日地谷=キルシュネライトがインタビューをしていったものが収録されている。

 ただ、一九八〇年代当時のドイツでは日本の女性作家たちとの対談を出版することはできなかった。理由としては「あらゆる条件が整っていなかった。時期尚早だった。」としている。
 そんな対談を三十六年後の二〇一八年にイルメラ・日地谷=キルシュネライトは「この記録は、むしろ三十六年前よりも、現代の日本人の関心を引くものではないかとの確信が私の内で徐々に固まっていった。」と書く。

 そして、三十六年後に出版するに辺り、当初計画していたが諸般の事情で不可能だった瀬戸内寂聴のインタビューが実現できた、として、本書のラストにそれが掲載されている。
 本作『〈女流〉放談-昭和を生きた女性作家たち』でインタビューを受けた河野多恵子大庭みな子津島佑子たちは全て一九八二年だが、瀬戸内寂聴だけが二〇一八年のものとなっていて、結果的にこのインタビュー本をまとめる形となっている。

 個人的に響いた箇所が幾つかあって、その一つに最近、僕が性描写のある小説を書いていたからこそ、頷けるものがあった。

瀬戸内 よくセックスを書く女って言われましたけど、そうじゃない。私は人間を書いているんです。私が書くものは特別じゃない。その特別なものじゃない人間が一人ひとり面白いんですよね。だからやっぱり小説は書くのが楽しい、面白い。

 僕が性描写のある小説を書いて友人に読んでもらったら、「いままでの作品の延長線上で生まれた作品という印象を受けました。」という感想が届いて、そりゃあそうでしょ性描写があろうとなかろうと、書いている対象は「人間」なんだし、僕自身が書いていることからは逃れられない。

 比べるのもおこがましいが、瀬戸内寂聴はインタビューの中で出家しても「(小説を書く内容や形式は)変わらなかったし、変える必要もないと思います。」と答えている。

 何にしても、これから「特別なものじゃない人間」を書いて行きたいと考えている僕からすると、瀬戸内寂聴から学ぶものは多い。
 例えば、以下のような一節。

私の書いた小説は映画にも芝居にもなりにくいんです。私は、物語を書いていないから。心情を書いているから。物語を書いた方が、多くの読者を得ます。

 むちゃくちゃ分かる。
 物語を書いた方が絶対に良いのは確かだ。
 けど、僕は心情を書いた小説が好きだし、本当に心から誠実に小説に取り組むと僕は物語なんてどうでも良いって気持ちになってしまう。

 性描写のある小説(情愛小説か性愛小説か、どっちかで統一させたい)を書く前の僕は青春ミステリーを書いている、と言っていた。

 そう言っている以上は青春ミステリーをいっぱい読むべきだろうと片っ端から手に取って行き、こんなに素晴らしい作品群があるジャンルで新たに何かを書いて参入したい、こんな青春ミステリーがまだあるよ!と提示できるのか?と首を傾げ続けた。
 結果、僕にそれだけの実力はない、という結論に至った。

 大体において、僕の興味があるのは物語ではなくて、心情だ。何が起きるかには、あんまり興味がなくて、その起きたことで誰が何を思うかの方が僕には興味があった。

 だから、瀬戸内寂聴の言うことは分かると思うと同時に、「花芯」は安藤尋監督の手で映画化されている。

 1958年に出版された瀬戸内寂聴(当時は瀬戸内晴美名義)の小説で、子宮小説やエロ小説と揶揄され、その後五年間、文学雑誌から干された作品だった。
 個人的に、心情を主に置いた作品が映画化できる土壌が現代にはある、という点を素晴しいと思う。
 同時に、「花芯」が制作されたのは2016年で58年もの時間を経て映画化される背景に瀬戸内寂聴の活動やキャラクターがあったことも間違いない。
 これは文学雑誌から干した人々に対する瀬戸内寂聴の粘り勝ちと言って良いだろう。

花芯」はその時代背景があったにせよ、「子宮小説やエロ小説と揶揄され」、結果干されている以上、ある種の人たちに軽視された作品であることは間違いない。
 ある種の人たち(とあえて、濁して言うけれど)は、性について書かれたものを軽視したがる節がある。

 それは時代が変わった今も一定数の人がいるのを肌で感じもする。個人的にそういうある種の人たちに向けて僕は小説を書かないけれど、軽視され続けるのであれば、その視線に抗って行きたいとは思うし、その過程で瀬戸内寂聴から学ぶべきものは多いと感じる。

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