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多くを語らない女性の孤独と強さを我々が語る。一木けい「1ミリの後悔もない、はずがない」について。

 一木けいの「1ミリの後悔もない、はずがない」を読む。

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 こちらは第15回「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞した「西国疾走少女」を含む5つの短編で形成されていた単行本。
 タイトルの「1ミリの後悔もない、はずがない」は読者賞をとった「西国疾走少女」の中に出てくるワンフレーズとなっている。

 ちなみに、あらすじは以下のようなもの。

「俺いま、すごくやましい気持」。ふとした瞬間にフラッシュバックしたのは、あの頃の恋。できたての喉仏が美しい桐原との時間は、わたしにとって生きる実感そのものだった。逃げだせない家庭、理不尽な学校、非力な子どもの自分。誰にも言えない絶望を乗り越えられたのは、あの日々があったから。桐原、今、あなたはどうしてる? ――忘れられない恋が閃光のように突き抜ける、究極の恋愛小説。

 あらすじにあるように、これは「究極の恋愛小説」であり、「逃げだせない家庭、理不尽な学校、非力な子どもの自分」だった女の子が如何に大人となり、親になったか、という大河ドラマ的な小説になっている。
 大河ドラマ的というのは、僕の印象だけれど、この小説の5つの短編はゆるく繋がっており、連作短編のような作りになっていて、学生だった主人公は最後には一児の母になっている。

 初出を見ると以下のようになっていた。

 西国疾走少女 「yomyom」vol.40 2016年春号
 ドライブスルーに行きたい 「小説新潮」2016年11月号(「シオマネキ」改題)
 潮時 「小説新潮」2017年5月号
 穴底の部屋 「小説新潮」2017年11月号
 千波万波 書き下ろし

 ふむふむ。
 まず、2編目「ドライブスルーに行きたい」のタイトルを「シオマネキ」から改題したのは、素晴しい。
 5編目の「千波万波」を読んで「ドライブスルーに行きたい」ってタイトルは読むだけで泣ける。いや、ラスト10ページずーっと泣いてたんだけど!

 で、「1ミリの後悔もない、はずがない」の初版が2018年1月30日だった。
 僕が今、何を気にしているかと言うと読者賞をとった「西国疾走少女」とラストの「千波万波」を読み比べると、一木けいは格段に小説が上手くなっている、という点だった。

 本当にめちゃくちゃ「千波万波」は良い。
 良いんだけど、これは「西国疾走少女」、「ドライブスルーに行きたい」、「潮時」、「穴底の部屋」と順序に読んできたから分かる良さなのだ。

 個人的にだが、最初の三つは小説として、それほど上手い訳じゃない。いや、優れているし、印象的なシーンの描き方もされている。
西国疾走少女」の冒頭は何度読んでも色褪せない強度を持っている。
 けど、物語のエピソードしては地味で繊細だけれど、結局は「閃光のように突き抜ける」良さがあるだけに読めてしまう。

 それは「ドライブスルーに行きたい」、「潮時」も似た部分があって、何か切実な語りがそこにあるのは分かるが、現実にそういうことってあって悲しいよね、くらいの範疇に留まっている。

 この範疇から一歩はみ出したのが「穴底の部屋」だった。
西国疾走少女」、「ドライブスルーに行きたい」の二つは現代から過去を思い返すように書かれている。
潮時」は二人の登場人物が互いの人生を思い返すような構図になっている。
 そんな中で「穴底の部屋」は過去を思い返すことなく、今この瞬間だけを見事に描いていた。不倫した女性の心情、義母の日常に介入してくる様(これがなかなか不快)、不倫相手との遊びの会話。
 どこをとっても申し分ない。

 余談だけれど、浮気ないし不倫がバレる理由に下着が変わる、というのがあるらしい。「穴底の部屋」で義母が突然、訪問してきた際、不倫している主人公は掃除が行き届いてない部屋、干しっぱなしの洗濯物、見られたくない下着にまで頭を巡らせるシーンがあった。
 一瞬でそこまで考えられるから不倫関係をある程度バレずに維持できていたんだろうなぁと思えて、こういう細部が一木けいは徹底的に上手い。

穴底の部屋」で一木けいの小説技術は確実に一段上がり、そこから更に「千波万波」で、もう一段上がったような印象があった。

千波万波」は「潮時」と構図は似ていて、二人の視点人物から語られる。ただ、語られる人物は一人。「西国疾走少女」の主人公だ。
 この一人の人物について、別々の視点から描かれることで、無口で多くを自ら語らない女性の底に眠る孤独と強さが際立ってくる。

 小説で一人の人間を描こうと思う時、その本人の一人称ではなく、その人間の周辺の人たちを描くことが、より一人の人間の存在を色濃く表すことができるんだと改めて実感する一作だった。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。