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【掌編】光の川を泳ぐ鮮やかな魚。

 クラクッションが鳴った。
 後ろを振り返ると幾つもの車のライトが様々な光りの粒となって浮かび、川のように列なっていた。光りの粒に触れようと手を伸ばしたが、指先はリアガラスに阻まれた。
 ガラスの表面は、しんっと冷たくとても固かった。

 またクラクションが鳴った。
 視界の隅で、灰色の車が前へと進んだ。空いたスペースを後ろにいた黒い車が埋めた。
 車にはひと組のカップルが乗車していた。背の高い外灯が薄い光りで運転席の男と助手席の女を照らしていた。私の見える角度からは助手席の女が確認できた。

 同い年くらいかも知れない、と私は思った。助手席の女がこちらに視線を傾けた。
 気のせいかも知れないが、タクシーに一人乗った私を見て、哀れむような笑みを浮かべた。ざらざらとした気持ちが私の中に広がり、ある地点で留まった。
 自然とため息が洩れた。窓ガラスに映った自分の姿に意識を向ける。陰りが寄った目元の奥に覗く瞳に力は無く、心なしか表情にも生気を感じられなかった。窓ガラスから私は顔をそむけて、後部座席のシートに背中を深く預けた。

 目を閉じてみたが、完全な暗闇が訪れる訳ではなかった。
 光りの層が何重にもなってうねり、私の視界を騒がせる。
 車内には有線のラジオが流れていて、聞き馴染んだ懐かしい曲が鼓膜を刺激する。
 タクシーに乗りこんだ時からラジオは流れていたはずだけれど、私の意識は目を閉じなければ、音を情報として認識することができなかった。
 疲れているのか、混乱しているのか、どちらにしても正常とはほど遠い状態に私は陥っていた。

 聞き馴染んだ懐かしい曲のサビがはじまり、その響きに手を引かれるように、当時の思い出がよみがえってきた。
 私がラジオをよく聴いていたのは母の車の中だった。
 習い事が終わるのは夜で、母は家へ帰るまでの道のりにある本屋に連れて行ってくれたりした。
 あの頃は何も考えなくても母と喋ることができた。
 いつから、私と母は互いに気を使って喋らなくなったのだろうか。
 そう考え始めて、私の心が揺れた。

 思い出したくないことが蘇ってこようとしている気がして、私は足元に置いていたバックを掴み、音楽プレイヤーを取り出してイヤホンで両耳を塞ぎ、音楽を再生した。
 あの頃に聞き馴染んだ曲から離れたかった。
 音量を上げて大きく息を吸い、ゆっくりと息が切れるまで吐き出した。音楽プレイヤーをコートのポケットにいれると、何かとぶつかる感触があって、携帯だと分かった。

 激しく車内が揺れ、イヤホンで塞がれた私の耳にも届くほど大きなブレーキ音が響いた。
 私は前のめりになった格好から、顔を上げ、改めてシートに坐りなおした。運転手が悪態をつくのが、イヤホンから流れる音楽の合間に聞えた。
 乗りこんだ時には気づかなかったが、運転手は私より少し年上で、見る人からすれば同年代と言われても良い風貌だった。
 バックミラーより下の視線で、道路を確認したところ、前に並んでいる車が渋滞の中で無理な動きをしようとしてトラブルを起こしたようだった。

 私は横の窓を見て、見慣れたビルをみつけて、随分と進んだのだと気が付いた。
 走り出したタクシーはすぐに減速をはじめ、焦らすようにして停まった。信号に引っ掛かったのだろう。
 イヤホンから変わらず流れる音楽に私は縋った。それだけが私の平静を保つ唯一のものにさえ思えた。
 コートのポケットに入れた携帯が震えた。誰かからの電話らしく何度もブ、ブ、ブとしつこく振動した。寝ている時に何度も玄関のドアを叩かれるような苛立ちが私を襲った。

 コートのポケットから携帯を取り出そうとした時、イヤホンのコードに携帯が絡まっていたらしく、音楽プレイヤーも一緒に出てきてしまった。更にコードの接続部分が外れ、プレイヤーが太腿に落ちた。
 そうして私の鼓膜に届いたのは、携帯の震えるブ、ブ、ブという振動音と、車の走る音だった。有線のラジオは新しい曲を流しており、それに私は聞き覚えはなかった。

 さきほどの衝撃で耳に嵌め込んでいたイヤホンがずれていて、車の曲る動きだけで左のイヤホンが外れてしまった。左耳には僅かな感触と熱が残った。
 小さな舌打ちの後、音楽プレイやーとイヤホンを拾った。プレイヤーを接続し直した時、イヤホンの先端の耳に嵌め込むドーム型のゴム部分が取れて、突起部分が剥き出しに晒されているのに気がついた。

 携帯は依然に震えており、私は投げ捨ててしまいたい衝動を抑え、携帯をバックの中に放りこんだ。それから音楽プレイヤーをコートのポケットに収めた。左耳に嵌め込む「L」と書かれた突起部分を指でつまんだ。
 これで音楽を聴き続ける事はできない為、突起部分を覆うゴムを私は拾わなければならなかった。携帯の震えがようやく止んだ。

 顎が痙攣し、私は俯き、口元が笑っている錯覚が訪れた。私は恐怖を覚えた。イヤホンの先端に嵌め込むドーム型のゴムが外れただけで、私の心は乱れ、壊れた人形みたいに笑っている。
 心と体が、空高く飛んでいく風船のように、自分の手を離れていってしまうような気がした。
 早く音楽を聴かなければ、と思う。
 そうしなければ壊れてしまう。
 ゆっくりと屈もうとして、手が震えた。歯がカチカチと鳴っていて、舌を何度も噛んだが、痛みはなかった。

「どうかされましたか?」
 と若い運転手が私に声をかけてきた。

 私には答える余裕はなかった。
 足もとに手を這わせる。ざらっとした砂の感触がして、それが海の浜辺と重なった。夜の浜辺の感触だ、と私は思う。
 海の波の音が響く。海は終着点だった。
 私が失い、傷つけ、殺してきたもの達の全てが行き着き、最後には私自身を包む海。
 もう全てを終えてしまっても良いのかも知れない。しかし、指先はしっかりと小さく柔らかなものに触れた。ぶよぶよとしたゴムの感触が、私が捨て去ってしまった一部のように感じられた。

 私は私が捨てたものを求めることで、ちゃんとまた手のひらに戻すことができた。もしかするなら、私はここからもう一度、やり直すことができるのかも知れない。元からあったような形ではなくとも、求めれば、私をとり戻すことができるのかも知れない。

「大丈夫ですか?」運転手が言った。大丈夫です、と私は答えた。声は震えていたが、ちゃんと言葉になっていた。
「そうですか」と運転手は頷いた後、「今日はどこかからのお帰りですか?」と続けた。
 会話をした方が良いと考えたようだった。 
「病院からの帰りです」
 病院? と運転手が顔をしかめた、気がした。

 今向かっている目的地の町には大きな中央病院があった。私がタクシーを捕まえた町には小さな病院しかなかった。
 それも現在は夜の九時、病院はとっくに閉まっている時間だった。運転手は言葉を探すように口を何度も開いては閉じてを繰り返していた。

「簡単な手術をしたんです」
 言葉が漏れた。

 タクシーの後部座席の感触と病院の待合室のソファーの感触が重なる。やけに眩しい日差しが窓から入ってきていた。
 汚してしまいたくなるような白い制服を着た看護婦は、気持ちが悪いほど優しげな笑みを常に浮かべていた。周囲には私と同じような若い女が確認できた。

 その一人の横には母親と思われる女性が付き添っていた。その母親らしい女性は前をじっと見つめ、娘の手を握っていた。娘はずっと俯いていた。
 私が呼ばれる前に、その娘らしい名前が呼ばれた。最後まで娘は前を見なかった。その代わり、母親が前を見ていた。一度だって二人の視線は交わらなかった。
 私はただぼんやりと周りを観察し続けていた。

「それは、大変でしたね」と運転手が言い、視線を下に向けた。ラジオからは明るいヒップホップが流れていた。
 ふと、窓ガラスに映る自分の顔が見えた。口元が緩んでいた。哀れな自分を嘲笑っているようだった。

「僕ね、お客さんが住んでいる町で育ったんですよ」
 と運転手が喋り出した時、私は正直、ほっとした。
「大学は県外に行ったんですけど、なんか合わなくて戻ってきちゃったんです。で、今はタクシーの運転手してるんですけど」
 運転手は窓に視線を向けている為、バックミラーからでは表情が確認できなかった。気付くと前に車はなく、少し離れた後ろの方に数台が走っているだけだった。
「町のど真ん中に大きな川があるじゃないですか?」

 同意を求められたが、私が答える前に運転手が続けた。「高校の時とか、その川辺を通って家に帰ったんです。その川ね、やたら鮮やかな魚とか泳いでるんですよ。祭りの金魚か、鯉かを誰かが川に捨てたんでしょうね。野生の魚ってたくましいもんですよ。マジで」

 確かに私が住み始めた町には川があった。
 運転手が言うほど大きかった覚えはないが、川はあった。けれど、私はその川で一度だって魚を見たことはなく、あまつさえ鮮やかな金魚か鯉がいるなんて話も知らなかった。

「でね、一回。高校のツレとその金魚か鯉を捕まえてやろうって話になって、全員海パンで川に入ったんですよ。捕まりゃしないんです、これが。で、途中で飽きちゃって、好きな女にメールして一時間で返って来なかったヤツ、川に飛び込めとか言って、一時間後全員で飛び降りですよ」
 運転手が陽気に笑った。私は愛想笑いすら浮かべていなかった。ただ飛び込んでくる人の足や手から逃れる為に必死な魚達を思った。

「今も、いるんですかね、その魚は」と呟き、私は車のライトが重なり光りの川のように続いている光景を見た。道路が川であるなら、今走っている車は魚だ。そして、行きつく場所はそれぞれの海だ。

「いると思いますよ、絶対」と若い運転手は無邪気に笑った。
「そう」
 ラジオから静かな笑い声が響いた。遠くで誰かが私を笑っているようだった。

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