見出し画像

【感想文】分離派建築会100年

「分離派建築会100年 建築は芸術か?」
京都国立近代美術館 2021.1.6-3.7


 以前にも訪れた展覧会ではありますが、今回は後期日程だったので前回までの2回とは展示の内容の一部が入れ替わったので再訪することにしました。

 もともと土木構造物が好きな私にとって1920年代の前後は日本の橋梁史においてエポック的な年代と捉えていましたが、未来派やロシア構成主義といった芸術運動や、ノイエ・タンツの誕生やバレエリュスの台頭といった舞踊やバレエの発展、印象派主義音楽やジャズの誕生など新しい音楽の隆盛など、芸術的にも大きな転換点となる年代であったと思えるのです。それら、いわゆる「モダニズム」と呼ばれる大きなうねりが建築に及んだ時に、「分離派建築会」が日本で最初の近代建築運動として誕生しました。私がこの展覧会に足を運んだのは、当初、彼らの足跡を辿ることによって1920年代の大きなうねりを少しでも知り得たいというのが目的でした。
 しかしながら、そこで感じたのは同じ構造物ながらも建築物と土木構造物との間にある違いだったのです。

 展覧会では、既存の(西洋の)建築様式に頼らない日本らしい様式を模索すべく、新たな造形を求めて保守的な世界から“分離”したウィーン分離派(セセッション)の影響を受けて「分離派建築会」が派生した印象ですが、その下支えにあるのはガラスや鋼鉄、鉄筋コンクリートといった新素材の台頭による新しい造形の可能性であり、野田俊彦の『建築非芸術論』への抵抗でもあるように思えます。
 『建築非芸術論』は造形を「実用品」と「装飾品」との二つに分け、建築は前者であるべきだとするやや乱暴な論に受け止められがちですが、最も美しい構造物の一つに「六郷川の鐡道の鐵橋」を挙げているように、実際には機能主義への萌芽でもあったと思います。しかし、そこに反発するように「建築は芸術である」とした分離派建築会は表現主義的なデザインを模索したように見受けられました。
 その最たる例が、山田守が設計した聖橋に見ることができます。

 聖橋のアーチと橋桁の間に並ぶ小さなアーチは山田が当時「パラボラ式」として取り入れていたデザインであり、力学的には作用していません。野田の指摘する「装飾品」、あるいは分離派建築会の「芸術」とは恐らくこういった部分に見ることができるのでしょう。一方、分離派建築会とは関係が無いので展覧会にはもちろんありませんでしたが、聖橋に隣接する御茶の水橋には一足先に架けられた聖橋の「重量感」「曲線」といった印象に対抗するように、「軽さ」「直線」を重視して鋼製ラーメン橋が架けられます。

そこには力学的に作用しない構造上の「芸術」は見受けられません。

 ところで、聖橋やお茶の水橋同様、震災復興橋として隅田川に“隅田川橋梁群”と称されるいくつもの橋が架けられていきます。その際に、東京の中心を流れる河川とその周囲の合わせた美観と構造がセットで考えられ、同じデザインの橋を架けない、トラス構造を用いないといった、律儀にも現在でも守られているデザイン上のルールが設定されます。しかし、それに対して野田は「同じ環境にあるものは同じ様式であるべし」として異を唱えます。そこには「橋梁は実用品と同時に一種の芸術品という考えには躊躇する」という『建築非芸術論』にも似た論調が展開されます。

 これらの事例から鑑みると、土木構造物には山田の「装飾品」でも野田の「実用品」でもないデザイン思想があるように思えます。つまり、建築物は山田の「パラボラ式」のように形に意味を持たせる“記号論的なデザイン”であり、土木構造物はお茶の水橋のデザインのように“造形論的なデザイン”といった、アプローチの違いが建築物と土木構造物とを隔てている要素だと思うのです。そこから俯瞰すると、土木構造物好きの私には聖橋のデザインにいささか違和感を覚えるのです。

 新しい造形を模索した分離派建築会は第7回展まで発表した後に自然消滅してしまいます。それは「建築は芸術である」とするために求めた造形が、ある種「表現主義的」で「ロマンティック」なものとなり、「機能主義的」で「リアリティ」のあるモダニズム建築の前ではやや前時代的なものと映ってしまったためかもしれません。もしくは、後にモダニズム建築を手掛ける山田や山口文象にとっての「芸術」が機能主義的な美に変わったのかもしれません。山口が手掛けた黒部川第2発電所はモダニズム建築でまとめられていますが、その傍らに架けられた目黒橋にはフィーレンディール橋という珍しい形式が採用されています。これは復興橋梁の一つである豊海橋に採用されたフィーレンディール橋のデザインに感動した山口が目黒橋に反映させたと言われており、そこにはもう聖橋で見られた「芸術」は存在していないように思うのです。


 分離派建築会の運動は現代建築に及ぼす直接的な影響はそれほど大きくないのかもしれません。しかし、1920年代前後の、世界が大きく動こうとするうねりで生じた様々な芸術運動の中で彼らの足跡は現代に通じるものであり、その模索は100年後に生きる我々に追求の可能性を示しているように思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?