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特攻隊平和会館へ。「生きる」とは。

鹿児島県での仕事ができたため、1日宿泊を延ばして南九州市にある知覧特攻平和会館へ。

「家族のために飛び立った」

学生時代、「戦争が数日長引いていたら自分も特攻隊として突撃していた」という元特攻隊のおじいさんから話を聞いたことがある。
その時に伺った話の中で覚えていること。それは、

「みなさん、どんな想いでいらしたんですか?」

という私の質問に、

「みんな、家族がいるこの国を守りたい一心で飛んでいったよ。胸には親や兄弟の写真をもって。」

と答えてくださったこと。

それまでの私は、戦争中の教育が「天皇万歳!祖国のために!」となっていて、特攻隊の皆さんも「天皇万歳!」と散っていったと思い込んでいた。
おじいさんから話を伺った時、『天皇のため』ではなく、『家族のため』だったのだと心に刺さった出来事だった。

会館の中でも元特攻隊員のおじいさんが話をされていたけれど、特攻隊に志願した理由は

「空爆があった時に何もできない自分が悔しくて恥ずかしかったからだ」

とおっしゃっていた。

20歳前後の若者1000人が散った特攻隊

15年ほどして初めて訪れた特攻平和会館。
館内の撮影は禁止のため、ロビーにあった絵画と飛行機の写真のみ撮影。

特攻隊の飛行兵を天女が迎えに来ている画

この絵を見ただけで涙があふれてきた。
遺品展示では、ほぼすべてが直筆の遺書や実物の遺品。

「父上、母上へ。待ちに待った私の番が回ってきました。私は本当に幸せ者です。これまで育ててくださりありがとうございました。
何も親孝行できずに逝くことをお許しください。」

「一番大きな艦隊を散らせてみせます!」

「(婚約者へ)私はもう現実にはおりません。私のことを引きずることなく、幸せに暮らしてください。…略… 本音を言えば、最期に君に逢いたい話したい、触れたい。」

特攻隊として飛び立ったのが1,036名。そのうち400名程が知覧から出撃した。
17歳〜20歳くらいの優秀な青年たちが家族のために散っていった。

さらにショックだったのは、語り部さんの話。敵艦を撃墜できたのは、出撃した数の1割なのだそう(後のアメリカとの調査で判明)。
約900名は機体トラブルや敵からの追撃を受けたりして海に沈んだ。

あの遺書や手紙を書いた9割の若者たちの亡くなる瞬間の無念を想うと、胸が締め付けられる。

「世のため人のために、自由に羽ばたきなさい」

私は「生きることは食べること」「食べることは生きること」ということを思いながら活動をしているけれど、会館に訪れたことで、それよりももっと深い、そもそも「生きることとはどういうことか」を、ドン!と突き付けられた。

何のために私は生きるのか。
私の答えは、

「生命をつなぐために生きる」

人間の生命だけじゃなくて、微生物を含めた「生命」をつなぐということ。
発酵食品は小さな生命を増やしているし、ナチュラルな生活は大地の生命もなるべく殺さないことになる。

前日に行った霧島神宮でおみくじを引いた。そこに書かれていたのは、

「世のため人のために、自由に羽ばたきなさい」

私は十分自由に羽ばたいていると思うから、これ以上羽ばたいていいの?と思ったけれど(笑)、平和会館に行ったことで、その意味をまた深く教えてもらった気がした。

「特攻隊は間違っていた。」「あの戦争は間違っていた。」と言うのは簡単。終わった後で判断するのだから。
「良い悪い」のジャッジではなく、

「この事実をふまえて自分はどうするか。先の未来をどうしていきたいか。」

そういう視点でこれからの物事を見ていきたい。

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