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証明する写真

世界報道写真展に行った。毎年必ず開催される写真展で(去年はコロナの為に中止)、私も毎年行っている。日本に限らず、世界中で活躍している報道カメラマンが撮った写真を応募し、その中で順位の高かった写真が展示される企画で、毎年圧倒されるのだが、毎年「順位って要るのかな」と思う。まぁこれは余計な一言。

自然災害、紛争、スポーツなど、様々な写真があったが、今年はやはりコロナに関しての写真が多かった。ビニール越しに抱き合う人達、マスクの跡が傷になってしまった看護婦、ビニールに巻かれたコロナ患者の遺体。世界中がコロナと闘っていて、私達はそれに守られていて、そして都合よく見て見ぬふりをしている。そう思わざるを得ない写真達だった。

世界中で起こっている出来事を把握することは不可能に近い。多くの人にとって、見なかったことは、なかったことと変わらない。それを撮ることにより、なかったことにさせないのが報道写真だ。だから報道写真は、誰かの存在を訴える写真とも言える。そして、その誰かの幸せが願われている。少なくとも私はそう思っている。例え写っているものが、どれだけ悲惨なものだったとしても。

ニュースをよく見る訳でもなく、普段撮ってる写真とも違う分野の写真展に、何故毎年必ず行っているかと言うと、目を逸らしてはならないような気がするからだ。もちろん世界で起こっている出来事に対してもだが、私はそこに飾られている写真から、「これが写真だ」と見せつけられているような気持ちになる。そこから目を逸らしてはならないように思うのだ。

報道写真展に展示されている写真には嘘がない。本当に存在している世界しか写っていない。本当に存在している人しか写っていない。誰も誤魔化されたり、誰も偽られたり、誰も飾られたりしていない。だからこそ、この写真は現実であり、事実であり、真実だと言える。

絵を描くために作られたカメラが、唯一絵に勝る部分。被写体の存在を認め、事実として記録し、確実にそこにあったものの証明として伝えることが出来る。写真にしか出来ないことだ。その写真にしか出来ないことを、報道写真はやっている。

私もそれを行わなければならない。カメラの前に立つお客さんを、確実にそこにいた人間の証明として撮る。誤魔化して、偽って、飾って作った写真に、仮に美しさがあったとしても、それはその人の美しさの証明にならない。誤魔化さず、偽らず、飾らず、美しい写真を撮ることで、初めて「あなたは美しい」という証明になる。

写真を好き勝手に歪めることがいくらでも可能な時代で、私が目を逸らさずにいたいと思うこと。ぬくぬくした場所で撮る私が、唯一報道カメラマンと通じていると思うこと。

在るものを撮る。

勝手に共感して申し訳ないのだけれど。

今も世界中で、誰かを証明し続ける報道カメラマンに、心から敬意を表します。



※たまに加工を悪みたいに言うな、とか言ってくる人いるけどそういう話じゃないのが分からない奴とは話せねえ。おつ。

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