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建築は「不気味」たりうるか? ——《新国立競技場》をめぐる建築的強度

※以下に掲載するのは、かつて私・左藤が企画編集を担当していた批評系同人誌「前衛批評集団 大失敗」の2020年の5月に発売された機関紙『大失敗Ⅰ-2 からだ——身体・文体・国体』に掲載した「建築論」である。わりと時事的な問題も扱っているが、執筆時期は2020年の2〜4月ごろであり、情報はさらに更新されている可能性があることに留意されたい。

※元の本文には33個の注があったが、Noteには脚注機能がないため、やや手を入れた。本文中に組み込んだりしている。このため、若干の見辛さをご容赦願いたい。

※このほか、本文には大きな変更を加えていない(全部で26000字程度)。そして、このNote版では新たに「後書」を付し、この論の発想の経緯や、いま現在、新たに考えたこと、絓秀実に対する所感、暗黒啓蒙批判などを加えた(5000字程度)。この部分は有料だが、全体を読んだ上で何か得ることがあったら、投げ銭の気持ちでご購入いただければ幸いである。それでは、以下本文。

「不気味なものはさまざまにあるが、人間以上に不気味なものはない」(『アンティゴネー』)

1. 「魔女狩り」と〈建築家〉の死

 「建築思想」は、種々の言説の中で不気味なほどの特権性を持ってきた。その特権の理由には、誰もが建築を必要とし、そこにすでに住んでしまっているという当たり前の事実以上のものが含まれている。思うに、その特権は、「建築」という隠喩の特権性に関わるからである。

 カントにとって「純粋理性の建築術」が重要であったように、それは対象を立てる(=建てる)はたらきそれ自体の謂として、私たちの思考に深く関わる。ということは逆説的に、いかなる「建築思想」であれ、具体的な建築物についての批評めいた言説=レビューや、あるいは建築家による作品解説には留まりえない。それは私たちの思考一般についてのメタ的・隠喩的メッセージとして機能してしまうだろう。すなわち文字通りの「隠喩としての建築」(柄谷行人)、それが私たちの出発点である。すなわち、建築一般について、つまり建築そのものについて、ある種の隠喩的な逆転を仕掛ける必要があるのだ——「建築思想」が存在するのではない。あらゆる思想が、あらゆる言説がすでに建築的なのだ。事実、今もこうして、幾つもの建築物が建っていく。今、こうして、ここで、語ることによって。

 私たちの主題は「不気味なもの」にある。だが、それが登場するまでにはそれなりの時間を必要とするだろう。まず来歴を確認しよう。二〇一三年九月、ブエノスアイレスで開催された第125次IOC総会で二〇二〇年に東京オリンピック・パラリンピックが開催されることが決議され、これまでその開催に向けて準備がなされてきた。これを書いている段階(2020年3月)で、COVID-19の「パンデミック」が始まり現在も続いており、大変な混乱が起きている。オリンピックは延期が決まった。

 しかし、「世界」がこのまま滅びないかぎりは、オリンピックはより観念的かつ熱狂的になって——さらに相変わらず「復興五輪」としての色合いを強めて——回帰するであろう(それは抑圧されたものの回帰ではなく抑圧の回帰である)。この騒動はおそらく、そのイデオロギーを補強しこそすれ、傷をつけるものではない。

 さしあたっては、まずオリンピックの主会場となる《新国立競技場》を考えることが重要である。《国立霞ヶ丘陸上競技場》(いわゆる「旧国立競技場」)の老朽化は以前から指摘されており、この建て直し計画自体は東京オリンピック招致決定以前より動き出している。「炎上」が巻き起こったのは、主にザハ・ハディドの案が国際コンペで採用されたあとだった(二〇一二年一一月)。「建たず(アンビルト)の女王」とも呼ばれるハディドのいかにもポスト・モダン的で「巨大=ビッグネス」な建築は、採用後すぐにテレビをはじめとしたメディアに取り上げられ、「エキセントリックな女性建築家」とのレッテル貼りが行われた。

 その後、コストの膨張に伴う案の見直しが行われたが、その対案については槇文彦や磯崎新を筆頭とした建築家からも「亀のような鈍重な姿」になったと批判が集まる。決定的だったのは、安倍首相自ら登場した「白紙化」(二〇一五年七月)である。そこから再度コンペが行われることになるわけだが、そこから最終的な隈研吾案——「環境に調和」したデザイン——の採用(二〇一五年一二月)まではほとんど一手で行われた印象がある。

 なお、この一連の「ゴタゴタ」の中、ハディドは最後まで《新国立競技場》の設立に関与しようと動きを見せていたが、二〇一六年に心臓発作で逝去した。それを磯崎は「〈建築〉が暗殺された」という。

 国際コンペで一度採用されたにもかかわらず、首相自らが登場し「ゼロ・ベース」から建て直される、という前代未聞の「魔女狩り」(磯崎新)については、ここで再度説明しなくても、様々なネット記事がその事の顛末を十分詳細に伝えている。とりわけREALKYOTOに掲載された浅田彰の記事(《新国立競技場問題をめぐって》)は、いつものことだが、非常に明晰かつ判明な「交通整理」を行なっている。「海外から見ると、『日本は最初に国際コンペでザハ・ハディドを選んでおきながら、みんなでよってたかって難癖をつけ、最後に首相が『あのコンペの結果は白紙に戻す』と一方的に宣言して、結果的にザハを排除したあげく、あらためて日本の建築家と日本の設計会社と日本のゼネコンだけでコンペをやり直した、こんな国に国際コンペをやる資格があるのか』と思われても仕方がない」(浅田彰《新国立競技場問題をめぐって》二〇一六年一月四日、REALKYOTO)。

 政権による「ゼロ・ベース」化の根拠は、「コストが当初の予定よりも大幅に膨らみ、国民の皆様あるいはアスリートたちからも大きな批判があ」ったことにある(二〇一五年七月一七日、HuffPost)。それは、《新国立競技場》をめぐる「炎上」の「火消し」をし、グダグダした決定プロセスへと「国民の皆様」の民意を反映させるための「決断」なのである。

 いうまでもなく、こうした首相による「決断」の背後には、むしろ「決断」あるいは「決定」が不可能な状況があった。このことは磯崎新が指摘している(磯崎新『偶有性操縦法 何が新国立競技場問題を迷走させたのか』、青土社、二〇一六年。一九七頁以下)。「なにしろ関係者が誰ひとり決定的な『決定』をやったと思っていない。しかも関係者間に共通の決定基準もなく〔…〕」、「避けられているのは、かつてはヘーゲル的な透明性として基準にされていた確実な唯一解、つまり正解である」。

 一九八四年、磯崎は「プロセス・プランニング論」で「設計という行為はすなわち決断なのだ」とすでに述べていた(『空間へ』所収、河出文庫、一九八四年、八五頁)。しかし現代、建築プロジェクトをめぐる決定プロセスの多層化は、「いくら決定を重ねても最終的『決定』に到達できない」という、カフカの『城』を想起させる状況を生み出した。そこには従来型の建築家の「決定権」はもはや及ばない。磯崎はザハ・ハディドを擁護しようとして「失敗」したと言うが、その自身の失敗の要因が、一つの誤認——建築の全過程を「トータルに制御する」PM=プロジェクト・マネージャーの不在——に起因すると語っている。

 この状況は大文字の〈建築家〉の不在と言いうるだろうが、それはいわゆる「作者の死」と同等の出来事であって、ルネサンス以降——建築が或る建築家の固有名とともに語られることになり、同時にその建築家が「建築書」を著すことになって以来——「作者」として振る舞ってきた建築家、そして同時に普遍的な思想家としての〈建築家〉が死んだということなのだ。

 しかし、いくら〈建築家〉が死のうが、ある建築物を建てるという決定=決断はつねにすでになされている。ジャック・デリダがしばしば語っていたことだが、いかなる状況でも「決定不可能性」に滞留することはできず、「選ばない」という執行猶予=モラトリアムはいつか終了する。決定不可能な状況は、「宙づり」の瞬間をはみ出し、溢れ出し、一切のプロセスを超越したひとつの「決定=決断」へと跳躍することになる。デリダは『法の力』で「決定の瞬間は狂気である」というキルケゴールの文言を引きつつ、このことを語った。

 デリダによれば、「決断」は「法外=法なし」になされる出来事である。それは従来の法則に照らせば不適切かつ暴力的なものだが、しかしその不適切さこそが法措定のためには不可避なものである(モンテーニュ/パスカルのいう「権威の神秘的基礎」)。この非日常的な神秘性こそが、私たちの日常である。デリダは「決断」を称揚するわけではない。決断は端的に生じるし、生じているのだ。

 そのようにして、決定不可能な状況に決定を下す行為主体はその決断の瞬間に一切の責任を請け負わなければならない。私たちは、その決断の瞬間から、「決断した」というどこかしら他人めいた「事実」の責任を取らされる。だが、私たちはしばしば、それを「否認」することで、 逃れられない責任から逃れてもいる。今回のケース(新国立競技場問題)もまたその一例だが、事実上はその責任は、決断者(すなわち現政権)を選んだ——すなわち「決定」した——「国民の皆様」へと分散し、分割=分有(シェア)されるのである(そして「いいね!」されもする)。

 狂気は日常的に民主主義的に分有されており、仮に「民主主義的」な手続きをいくら逸脱したとしても、それは事実上いつでも相変わらず「民主主義的」だろう。民主主義とは根本的に〈建築家〉の不在によって、そして無数の小さな建築家(官僚)によるその「代補」によって成り立っている。

2−1. 死を引き受けた建築

 ところで、責任者の不在=無責任状態を批判する良心的なリベラルの声がしばしば見落とすのは、この狂気の分有=無責任状況は民主主義的市民社会そのものの性質でもあることである。大文字の〈建築家〉の死が導く状況はむしろ、最もラディカルに「民主主義的」な状況を私たちに教えている。かかる意味で、《新国立競技場》問題は一つの「ケース・スタディ」なのである。

 ところで、こういう〈建築家〉の死を「先駆的に覚悟」することで引き受けた建築家もまた存在する。私たちの見立てでは、まさにそれが隈研吾である。コンペを最終的に勝ち抜き、現在東京都に所在する《新国立競技場》を設計した隈研吾が、「負ける建築」の提唱者であることはよく知られている。隈は、私たちのいう〈建築家〉の死をまさに引き受けた建築家である。

 「建築の解体」を唱えた磯崎ですら、すでにみたように、この「死」については「誤認」あるいは「否認」していたように思われる。たとえば石川義正は、磯崎による「プラットフォーム2020」構想を、こうした〈建築家〉の死へのアイロニカルな対抗として両義的な評価を加えているように見える(石川義正「『新国立競技場問題』をめぐる二つのフィクション——市民社会と天皇制」『子午線』4号所収、書肆子午線、二〇一六年)。本稿の問題系とは若干逸れるが、石川が示唆するのは、磯崎の「デミウルゴモルフィスム(造物主主義)」の戦術と三島由紀夫の自決との並行性であり、ここで磯崎が天皇の正統性に依拠することによってこそ、ファシズムとネオリベラリズムの間での「デザイン」の可能性を見出したことである(それは、《つくばセンタービル》に見られる否定神学的な——「不在」と「瓦礫」を象徴する——建築が、日本においては、とりわけ天皇というポジティヴな対象へと断定されてしまうことだと言えよう)。

 話を戻そう。磯崎のアイロニカルな抵抗に対し、むしろ隈は九〇年代以来、〈建築家〉の死を明確に認識しようとしてきた(あるいはその「殺人事件」に加担してさえいる)。隈は建築自体が「社会の敵」であり、徹底的に「嫌われている」というある種の「被害意識」(?)をあらわにしながら、建築というものの批評性を否定している。

 私たちにとっても身近なことだが、近代以降(あるいはさらに遡ればルネサンス以降)、一九八〇年代まで、建築家は一種の「批評家」として、ある文明やある「時代精神=ツァイトガイスト」にあるときは迎合し、あるときは批判しながら、社会と関わろうとしてきた。そうした時代において建築に託されていたのは、その内容がいかなるものであれ、ある種の「批評性」である。

 だが隈が「持家政策」(ケインズを理論的な後ろ盾とする)を例に挙げながら批判するように、近代建築は常に資本の要請によってなされ、それを補強する側面を持つ。だから、例えばその資本主義を批判しようとする「批評家」としての建築家は、常にそこに「ディレンマ」を抱えざるを得ない。

 同じく批評家の絓秀実は、その万博論の中で、磯崎新の『空間へ』を参照しながら、磯崎が「六八年」的な反抗精神を持ちながら同時に建築家として大阪万博に参与していたこと、磯崎自身がこの「ディレンマ」に直面している事実を指摘している(絓秀実「大阪万博と癌(cancer)」『天皇制の隠語』所収、航思社、二〇一四年、四一二頁〜四一七頁)。一九七〇年当時、国家や資本に対する批判的な目を持つ「進歩的」知識人並びに「前衛」芸術家の多くが、万博という「お祭り」に否応なく動員された。

 建築とはそもそも、芸術としてみた場合にはきわめて体制順応である。というのもそれは「資本とアプリオリに共犯的な領域であり、自立性が問いにくい」ジャンルだからだ。だが絓の指摘によれば、芸術の持つ自立性、すなわち国家や資本への対抗性は、「大阪万博を契機に」さらに失効していく事になる。

 その過程では、ディレンマをめぐる「『六八年』的模索」が存在した。磯崎が当時置かれていた「戦争遂行者に加担したような、膨大な量の疲労感と、割り切れない、かみきることのできないにがさ」(磯崎、「年代記的ノート」『空間へ』所収、五一一頁)とは、このディレンマへの直面にほかならない——このディレンマはおそらく、絓が別のところで指摘する「疚しさ」と同型である。すなわち、ブルジョワ民主主義を批判するマルクス主義的知識人自身が事実「小ブル」である、という、いまなお左翼言説につきまとい、しばしば「否認」される自己矛盾と「疚しさ」である(絓秀実「われわれは、いかにして小ブル急進主義者となるか」、『小ブル急進主義批評宣言』所収、四谷ラウンド、一九九九年)。

 隈の指摘はこの「ディレンマ」と重なる。だが、隈にとって(そして多くの人間にとってそうであるように)このディレンマは解放されるべき苦痛であり、矛盾である。

今われわれはやっと、批評性から解放されつつある。「建築の時代」への併走を余儀なくされた建築家は、その内側に抱える矛盾ゆえに、批評的であり、ネガティブであらざるを得なかった。建築を要請し、建築家という存在を支えてくるクローズドな社会への警戒が批評性という形に翻訳され、建築物の中に表現されていたのである。(隈研吾『負ける建築』、岩波現代文庫、二〇一九年、六七頁〔岩波書店、二〇〇四年〕)。

 隈によれば、「綱渡りのバーのような道具」あるいは「斜に構えて、社会から自己を防衛する姿勢」——すなわち「批評性」や「切断性」によってクローズドな世界(内輪な業界)へとアプローチすることでかろうじて建築が成立していた時代は終わった。「負ける建築」とは、もはやロジックやコンセプトによって勝ちに行くような、あるいはその「批評性」によってその場所の風景を「異化」するような野蛮でマッチョな所作ではなく、あくまで「環境に調和」した、優しくソフトな——「リベラル」な——建築なのである。

 この背後には、隈の歴史認識がある。すなわち、冷戦終結とともに、ある共同体が他の共同体との緊張関係に置かれていた時代は終わりを迎えたという、隈流の「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)論である。現代社会が批評性を歓迎しないのは、現代社会が「由緒正しい村落共同体」だからだ。

 このポスト歴史=ポスト批評性の時代を前提する限りで、隈の議論はある意味で徹底している。隈はさらに、「負ける」ことが「勝つ」ためのレトリックになるような状況すらも批判しているからである。そのレトリックは、実際には建築の「強さ」を隠蔽するものでしかない。だから建築を「弱める」ためには、「負ける建築」を唱えるだけではまだ足りない。隈によれば、「建築はどんなに負けようが、負けたふりをしようが、それでもまだまだ強い」からである。このようにしてはじめて建築は自立し、「徹底してポジティブでアクチュアルに」なるという。

 隈のいう「自立」は「人々を見事に説得する」ことである(最近の「木造建築」ブームを見れば、おそらくその「説得」は大部分で成功したのだろう)。その結果が、「国民の皆様」(他人事ではなく、「私」や、いまこの文章を読んでいる「あなた」がまさにそうなのだ)の納得につながっている。

 こうした隈の「大衆神学」的建築観に対する苛立ちをわかりやすく表明しているのは、前節で引いた浅田や磯崎である。いうまでもなく、いまでも彼らは建築の「批評性」を支持している。例えば磯崎は『偶有性操縦法』で隈が「八万人収容スタジアムという基本的間違い」を修正できないままに「単なる箱物公共建築としかみえないデクノボー」を建築したとし、「アイロニカルな『負ける建築』ではなくリテラルに『負けてしまった建築』といわざるを得ない」(一九一〜一九二頁)と言い、浅田は前掲記事で「環境にかまわず自己を主張して勝ちに行く建築への批判に基づいて、むしろ環境に溶け込むことを目指す〔負ける建築の〕柔術の受け身のようなその「敗北」と、やすやすと長いものに巻かれる「敗北」の差は、あまりに微妙」であると指摘する。もちろん建築家の必要条件を「彼の内部だけに胚胎する《観念》」として示す磯崎と隈の理論的「ずれ」はわかりきっていたことではある(磯崎「年代記的ノート」、五〇九頁)。

 「ポスト建築」的な隈の戦術と磯崎のいう「建築の解体」の表面的な近さにも関わらず、両陣営の差異はいくらでも挙げられる。一言で言えば、その差異は「アクチュアル」な状況認識=リアリズムにある。「批評的」建築は、隈自身の理念から批判されるのではなく、時代にとって不適合なものとして棄却されるのだ。「負ける建築」は一個の状況認識に依拠する。隈は〈建築家〉の死を受け、生存戦略として「負け方」を模索し始める。

2−2.表象の解体、そして木

 「六八年」以後、様々な建築家が様々な仕方で示してきた「建築の解体」は、結局のところある種の建築的な「理念」にとどまるものだったと言える。磯崎にとっても重要な参照項であった建築家ハンス・ホラインによる一九六九年の宣言(「すべてが建築である」)以降、建築の〈前衛〉は、むしろ、具体的な建築を「解体」した先にあるアブストラクトな「建築性」そのもの——磯崎のいう大文字の〈建築〉——を追求してきたからである。

 一方、「負ける建築」は、原理的なレベルでそれを捉える限りでは、もはやいかなる正義も理念も概念も提示しない。それは、モダン建築を批判するポスト・モダン建築のうちにすらなお温存される「建築的」身振りをさらに解体する。それは具体的には、建築をある対象=表象として捉えることの批判である。

 表象という「制度」は隈によれば、西洋古典主義の価値観——すなわち透視図法によるスタティックな空間認識——に端を発し、モダニズムの騎手ル・コルビュジエの建築における地面からの遊離——「ピロティ」の導入——にまで見られる。隈の建築は、表象=再現前システム一般に対する批判なのである。

 そのことがもっとも具体的に現れるのは、「表象と存在の分裂を許容する」コンクリートを批判し、というマテリアルを導入するという隈のスタイルである。隈にとってコンクリートは建築家の思い通りに変形することが容易な「人工物」であり、建築を表象=表現として捉える悪しき男根主義的風潮を象徴するものだ。

 コンクリートと木の差異はまず両者の劣化の差異に現れる。コンクリートは「処理のしにくい、頑強な産業廃棄物」と化し、しかもその腐食具合が表面には現れない。木造建築はその表層にはっきりと時間を刻み込む。木においては「傷んだ部分だけをこまめに取りかえるまめささえあれば」、その時間は「終わりなく」流れるという。

 ここでコンクリートもまたそもそもは「自然素材」である、とか、木もまた切り取られたという意味で「加工物」である、というすぐに思いつきそうな反論は無効だろう。隈は「自然素材か否かの境界は極めて曖昧」とし、この線引きそのものを超えるために、「自然とは関係性である」とテーゼを打ち出す。その素材が真に人工的か自然なものかは問題ではない。重要なのは、表象を超えて、場所と関係を持つこと、コンテクストに「接続」することなのだ。

場所に根を生やし、場所と接続されるためには、建築を表象としてではなく、存在として、捉え直さなければならない。単純化して言えば、あらゆる物は作られ(生産)、そして受容(消費)される。表象とはある物がどう見えるかであり、その意味で受容のされ方であり、受容と消費とは人間にとって同質の活動である。一方、存在とは、生産という行為の結果であり、存在と生産とは不可分で一体である。どう見えるかではなく、どう作るかを考えた時、はじめて幸福とは何かがわかってくる。幸福な夫婦とは、見かけ(表象)がお似合いな夫婦ではなく、何かを共に作り出せる(生産)夫婦のことである(『自然な建築』、強調引用者)

 ポスト批評性の時代において、建築は何かの「意味」を表象するものではない。それは「幸福な夫婦」としての「場所」でなければならないのだ——この比喩そのものが前提する異性愛的(そして「出生主義的」な?)イデオロギーについて云々することはここではしないでおこう。ともかく、これこそ、隈が持つ最後にして最小の「理念」である。それは一切の男根主義的で主体主義的な「理念」を拒否し、「自然」的関係、「接続」、に全てを託すという「理念」なのである。

 隈は二〇一六年の著書『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか』で、こうした理念が、「杜のスタジアム」というコンセプトのもと周辺環境(明治神宮外苑)との調和を目指した《新国立競技場》においても徹底されていることを強調する。木は表象としての建築を超えるとともに、大手工務店vs.建築家という対立すらも超えるらしい。

しかし木は違う。まったく違う原理で、人間と自然との間を結び付けてくれる。一人の大工さんが、一人で木を運び、組み立てていくのである。彼はアーティストでもないし、大きな組織に属しているわけでもないが、それでも木の建築はどんどん建ちあがっていくのである。(隈研吾『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか 建築家・隈研吾の覚悟』日経BP社、二〇一六年、二〇八頁)

 木は、「小さな部分の組み合わせだけでどんな空間でも作れてしまう」がゆえに「懐の深い民主的なシステム」(強調引用者)である(同書一一八頁)。この木を用いることによってこそ「昔の日本」で「社会はやわらかくまわっていた」のであり、隈はそういう社会の復権を希求する。隈はそうして、「新しい国立競技場がそういう新しい時代の象徴となること」を祈願しつつ、「たくさん、たくさん、木を使う」こと——とりわけ国産材を使うこと——を提唱している。

 だから《新国立競技場》は「輝かしいターニングポイント」(茂木健一郎による評)になるのだろう。しかし、とりあえず指摘しておかなければならないのは、木を用い、「和」を感じさせる意匠を持つ《新国立競技場》という「象徴」は、実際には、隈の求める「自然な建築」ではないという端的な事実である。

 たとえば「森林ジャーナリスト」であり『絶望の林業』の著者である田中淳夫は、ネット上の記事で「五輪関係施設は、いずれも木構造ではなく鉄骨とコンクリート構造である。多用したという木材も、大半が鉄骨の周囲を覆っているだけだ」(強調引用者)と指摘しつつ、「国産材の使い方は見た目重視であり、スタジアム施設の主要な建材とはいえない」と批判的に結論している(二〇二〇年一月二〇日、NewsPicks)。それが事実だとすれば、《新国立競技場》はまさに、隈が批判する「エコロジー派を気取った」だけの建築ということになる。

 それどころか、すでに多数指摘されているように、《新国立競技場》をはじめとしたオリンピック関係施設は、主にその設立過程において、東京五輪の掲げる「持続可能な大会」の理念に反し、「違法で持続不可能な熱帯雨林の木材」が大量に用いられている(設立の過程で用いられる、いわゆる「コンクリートパネル」——コンクリートを固める際に型枠として用いる木の合板——の部分)。すでに廃棄された「コンパネ」は、五輪関係の施設で合計31万枚使われ、うち約21万枚がインドネシアとマレーシア製であり、原生林を違法に伐採し問題視されている企業から購入されたものであった。実際、五輪関係の建築物に関し違法木材の使用中止を求める国内外の運動が多数存在する(二〇一九年一〇月二二日、HARBOR BUSINESS Online)。

 隈の約束どおり、新国立競技場には「たくさん、たくさん」木が(ただし、違法木材が)目に見えないところで用いられている。結果として、新国立競技場を含む五輪関係の施設は、見かけに反して、まさに隈の批判を体現してしまうような「コンクリート」的建築である。この建築には、「腐敗」が表面には現れない。

 「新しい時代の象徴」たる《新国立競技場》のこの違法性や、非人道性を糾弾することは本稿の主たる目的ではない。というのも隈自身の考えは理念上は「エコロジー派」に親和性を持っており、むしろ先述した運動に親和性を持っているはずだからである。ここで考察すべきなのは、《新国立競技場》という「テクスト」が隈研吾という「作家」といかなる事実上の関係を結ぶのか、という点である。少なくとも《新国立競技場》を含むオリンピック関係の建築において、次の二点が指摘できる。

1:隈は「自然な建築」を徹底できなかった。《新国立競技場》は、まさに見かけ上木材を用いているだけの、ということはつまり「国民の皆様」の心を慰撫するだけの、キッチュな表象に過ぎない(それはRADWINPSの”HINOMARU”に似ている)。《新国立競技場》において、木は「装飾」であり、「意匠」に過ぎず、あくまで「和を感じさせる」以上のものではない。隈は「多様な表面のお化粧」として木を用いているだけに過ぎない「易しい建築」を批判するが、まさに隈の建築こそがそれである。

2:隈は「自然な建築」を徹底することができた。隈は自然を「関係」であり「接続」であるという。それに従うとすれば、隈は隈自身の〈建築家〉としての立場を放棄し、「負け」を徹底し、理念を捨てることで「接続」し、キッチュな表象を「自然」な仕方で「生産」したのである。それは「切断」ではなく「関係」を志向するという意味では「自然な建築」にほかならない。《新国立競技場》は、それでもやはり「コミュニティ・デザイン」であり、周辺環境と関係を結ぶ一個の「場所」なのだ。

 この二律背反は「自然」という語が持つ破壊的なまでの多義性によって生じる。いずれにせよ、隈はこの「負け」を認めたとしても、その責任を取りはしないだろう。実際、隈一人にこの責任を求めることは誰にもできない(さらにそれは共同で設計にあたった大成建設にも梓設計にも、東京都にも日本国にも求められないのかもしれない)。だがこの「負け」にはつねに、同時に多くのものが動員され、巻き込まれることを忘れてはならない。例えば、それはすでに指摘した「生活を破壊」され熱帯材の使用中止を求めたボルネオ島の先住民族たちの居住する森であり、さらに、急ピッチで進められた建築計画の過程で過労自殺した作業員である(二〇一九年一〇月三日、NHK政治マガジン)。

 「二○世紀文学は様々な『弱者』の発見、捏造を繰り返した」(『負ける建築』十二頁)との前提のもと、「弱者のロジック」や「弱者のための公共事業」を批判する隈研吾はこうした事情には興味を持たないだろう。そもそも思い出さなければならないのは、「懐の深い民主的なシステム」を構成する木の建築においては「小さな部分の組み合わせだけでどんな空間でも作れてしまう」ことである。木の建築は、「小さな部分」がどれだけ腐敗し壊死しようが交換可能、という、優れて経済的=エコノミックなシステムを形成するのだ。

 この「接続主義」(=「全体主義」)的な論理から鑑みるに、わざわざ建てるまでもなく、日本とは「木の建築」である、というべきだろう。今までもこれからも、いつでも、社会は「小さな部品」を交換しながら、「やわらかくまわって」いく——それが「日本」に限った話なのかは別として。

3−1.存在論的住宅難

 繰り返すが、前節で確認したような新国立競技場に関わる様々な非人道性を糾弾することは本稿の主たる目的ではない。

 そもそも、すでに言及した石川の批評文が明治神宮外苑に働く「きわめて不安定な政治的力学」を指摘しつつ的確に批評するように(石川前掲書二二三頁)、新国立競技場の「真の設計者」とは「ザハ・ハディドでも隈研吾でも大成建設でもない」以上、隈研吾をいくら糾弾したとて無駄である。実は、本稿の問題は、隈を糾弾することにも、ザハを擁護することにもない。私が試みるのは、《新国立競技場》と隈研吾の建築を一つの「ケース・スタディ」として「建築」なる隠喩の性質を明らかにすることである。

 すでに見たように隈の建築への姿勢は「生み出す場所としての建築」であった。それは、ハイデガーによる近代哲学批判に酷似する。ハイデガーによれば、デカルトからヘーゲルへ至る近代哲学は、「表象=前に立てること(フォアシュテルング)」に依拠して「存在」を語り、それによって「存在」(「存在すること」)と「存在者」(「存在するもの」)とを誤解してきた。

 そうした「存在忘却」に対しハイデガーは様々な角度から批判を加えてきたが、ドイツ建築家協会のシンポジウムで発表された論考「住むこと、建てること、考えること」(一九五一年)では、このテーマを実際に「住むこと」のレベルから考え直している。ここから振り返ればハイデガーの議論はそもそもある種の「建築論」であるとすらいいうるのである。

 ここでハイデガーは「建てることがそれ自身においてすでに、住むこと」というテーゼを打ち立てる。ハイデガーによれば、ドイツ語「私がいる(イッヒ・ビン)」において、「在る(ビン)」は古語「建てる(バウエン)」に由来し、それはさらに、「根源的」には、古語「住む(ブアン)」に相当するという(マルティン・ハイデガー『技術とは何だろうか』森一郎編訳、講談社学術文庫、二〇一九年、六五〜六六頁)。

 つまりハイデガーによれば人間が存在するというのは、ある空間に「つねにすでに」位置していることである(「空間は、外的対象でも内的体験でもありません。人間が存在して、そのほかに空間も存在する、というのではないのです」、同書八二頁)。人間は、在るだけですでに場所を持ち、空間を占め、そこに「住んで」いる(「世界内存在」)。だから建築を、人間が一切から自由に産み出すものとしてではなく、ギリシャ語の動詞「ティクトー」そして同語源の名詞「テクネー」として理解しなければならない。

 テクネーとしての産み出すことの本質は、無から有を産み出し、我がものとすることではなく、隠蔽されたものを「見えるようにさせること」である。こうした「顕現」の本質は、とりわけ近代以降、「建築術の構造学」や「動力機械技術の技術的なもの」に覆い隠されている(同書、八八頁)。

 こうしたハイデガーの言説は「建築術的」というよりは、むしろ比喩的かつ隠喩的で詩的である。こうした「根源的」な建築論は、機械的世界観への批判を含んでおり、しばしば言われるように、バウハウスやル・コルジュビエに見られるような機能主義的な建築観(「住宅は住むための機械である」)への批判としても読むことができる。

 とにかくここで重要なのは、隈の近代建築=表象批判が、すでにハイデガーの「存在忘却」=表象批判に先取られていることである。だがすでに見たように、ハイデガーにとって「存在」としての生き生きとした建築の現場は、「建てること」からではなく、「住むこと」から考えられなければならない。

建てることの本質は、住むようにさせることです。建てることの本質遂行は、場所を、その空間の組み合わせによって打ち建てることです。私たちは、住むことを能くするときにのみ、建てることができるのです。しばしの間、シュバルツヴァルトの一軒の家屋敷に思いを致してみましょう。〔…〕一つ屋根の下に、さまざまな年代の住人が歳月を過ごしてきたことが刻印されています。それ自身住むことから発した手仕事が、様々な器具や足場をやはり物として用いて、その屋敷を建てたのです(同書、八八・八九頁)

  ここでハイデガーはどんな存在者も「つねにすでに」ある場所に「住んで」いるという性格に即して、建築を捉え直そうとしている。この「手仕事」礼賛に隈との共通性が感じられるだろう。「大工」とは、ここでいう「手仕事」を遂行する者である。

 結局、ハイデガーにおいては、建築についての思索がなされる現場は、「建てること」を包摂し可能にする空間、そしてそこに「住むこと」である。なお、ハイデガーの影響下で「生きられた家」を論じた多木浩二は、さらに「生きられた家」を一個の「織物(テクスト)」として理解し、その内部にひしめく「物」の記号的な猥雑さ、さらにそうした「物」にひそむ象徴性や歴史性に見事な具体性を与えている。

「ヴァナキュラリスム〔土着主義〕を標榜しても、建築家の作品は生きられた家のなまなましさのかなたに、生きられた家々自身が気づかないでいる「建築性」という概念——自己自身に言及する概念をそこからひきだしてなりたつのである。〔…〕これに対して生きられた家は、あらゆる時代のデザインを無差別に利用し、風化し、恣意的でまがいものに充満しかねない空間である。生きられる家はさまざまな矛盾にとむ現象であるが、同時に、知覚作用、知的(技術的)操作、欲望の深さにもとづく「生活術」に構造化された記号の織物なのである」(多木浩二『生きられた家 経験と象徴』青土社、二〇一九年、一五・一六頁)

 ここから「生きられた家」のコスモロジーを語ることができるのかもしれない。だが、私がハイデガーあるいは多木への参照によって明らかにしたいのは、そうした次元ではない。確かに、ハイデガーと多木は、それぞれの仕方で「建てること」と「住むこと」の分裂を乗り越えた「生きた」世界の可能性を表示しはする。ハイデガーは、「考えること」(存在を思索すること——それ自体「住むこと」に属する)によって、「建てること」の「住むこと」への所属性が明らかになるとする。多木はこの分裂を「共時的」な人類学の用語法で乗り越えるように見える。だが、まずさしあたって私たちが確認すべきなのは、ハイデガーも多木も、まずは近代における「建てること」と「住むこと」の建築論的差異に着目している事実である。

 どういうことか。よくハイデガーの議論を読んでみよう。確かに「建てること」はその本質を「住むこと」に持っており、「現存在」(としての人間)がその関係に思いを至らせることによって、「建てること」と「住むこと」は有機的な関係を取り戻す。とはいえ、その取り戻しはある種の困難にみまわれている。ハイデガーによれば「真の住宅難は、世界大戦と壊滅より古くからあり、地球上の人口増加や産業労働者の状態よりも古くからある」(同書、九一頁)。近代以前から人間は根本的に「住むこと」の本質を喪失しており、その意味で人間は、すでにつねに「住宅難」あるいは「故郷喪失」の状態にあるのだ。ハイデガーによる西洋近代表象システム批判は、このある種の宿命とセットで捉えなければならない。

 一方で西洋近代に対する批判から「日本的」な「場所」を打ち出す隈は、まるで「木」さえ使えば、どんな建築物でも「場所」として関係を結び、「存在」に至るかのように建築する。私たちはそれを見て「和」や「調和」を感じ、なんとなくやさしいきもちにさせられるが、それはむしろ根源的な「故郷喪失」を隠蔽するために機能するのではないだろうか? 「表象を超えた存在としての建築」は、それ自体が表象であり、隈の「生存戦略」のためのレトリックであり、先行する建築家たちとの「差異化」の欲望に過ぎないのではないか?

 それを鑑みるとき、一般的には隈の「黒歴史」として扱われている《M2ビル》(一九九一年)をもう一度捉え直す必要が生じる。《M2ビル》のポスト・モダン的キッチュさ——装飾のアイロニカルな引用——こそ、隈の「代表作」なのではないだろうか?  そしてある意味で、このキッチュさにおいてこそ、隈の建築は「新しい時代の象徴」として選ばれるにふさわしいのではないだろうか?

3−2.「不気味なもの」の方へ

「幽霊のようなキミの因果律ランダム連鎖」(P-MODEL – Atom Siberia)

 ところで、ハイデガーにおいてその「故郷喪失」が回復されるのは、当の喪失をよりよく自覚することによってである。「故郷喪失」こそが「死すべき者たち〔人間〕を住むことへと呼び入れる唯一の言い渡し」(同書)だからだ。当の「故郷喪失」を見つめ直すことによって、「故郷喪失」を克服し、根源的な「住むこと」を回復する——このストーリーは、『存在と時間』(一九二七年)において、現存在が「不安」へと直面することで、その「本来性」へと跳躍するという筋書きとほぼ同様になっている。

 よく知られるように、『存在と時間』の第四十節でハイデガーは、現存在の情状性を分析するうちで、「不気味さ(unheimlichkeit)」を論じている。

 なぜ「不気味さ」を考えなければならないのか? 「不気味さ」とは、そもそも建築的な隠喩、さらには居住的隠喩だからである。ドイツ語《unheimlichkeit(ウンハイムリッヒカイト)》は「故郷、家(Heim)」に由来する「ひそかさ・親密さ(heimlichkeit)」に否定の接頭語(un-)をつけたものであり、「不気味さ」は「居心地の悪さ(un-zuhause)」とも言い換えられる。後期ハイデガーからそれを逆照射して見るとき、「不気味さ」とはひとつの「故郷喪失」を示すものとなる

 現存在は不気味さに直面すると、それに正面から向き合うのではなく、「公共性の居心地のよさのうちへと頽落しつつ逃避する」(ハイデガー『存在と時間Ⅱ』渡邊二郎・原佑訳、中公クラシックス、二〇〇三年)。だが不気味さはまた、「現存在を不断に追跡し、たとえ表立ってではないにせよ、現存在が世人のうちへと日常的に喪失してしまっていることを脅かす」(同上)。

 なぜここまで執拗に「不気味さ」をハイデガーは描いているのだろうか。『存在と時間』において「不気味さ」は、「不安」という「根本情状性」によって招かれる一つの状態である。「不安」において現存在は、「恐れ」のように何か特定の対象を不安がるのではなく、世界そのもの、「世界内存在」そのものの意味のなさ、規定のなさに不安を抱く。

 「世界」に住みついているという確信が揺らがされた状態、それが「さしあたりたいていは(zunächst und zumeist)」抑圧されている「不安」であり、それが呼び招くのが「不気味」・「居心地が悪い」状態、意味を確定できない状態、所在なさ、自分が居るべき場所にいないことの落ち着かなさである。

 だがハイデガーにとっては、この「不安」こそが根源的な事態であり、それによってこそ現存在はその本来的な在り方、つまり「存在を問う」という在り方に回帰する。つまり、ハイデガーにおいては、「住むこと」を「考える」ためには、まず住みづらさ、住む場所のなさ、寄る辺なさ、「真の住宅難」に直面しなければならない。ハイデガーの議論は(いわば)「存在論的住宅難」を一個の宿命とする。もちろん、それは「ロマン主義的」な主題としての、失われた「家=故郷」へのノスタルジーと切り離すことができない。とりわけハイデガーの場合、それは古代ギリシャへの憧憬になってしまう。

 可能であれば、私たちはこの、「家=故郷」の自明性が解体されるこの次元にとどまってみたい。すなわち、居心地の悪さ、不気味さ、落ち着かなさ、違和感、ホラーの次元

 「不気味さ」がホラーなのは、「恐れ」からくるものではない。「恐れ」は、ハイデガーによればある外的な対象を持っており、その対象が「いつかどこかで」現れるかもしれないということに起因する(多くの映画がこの原理を巧みに利用する)。対して「不安」に起因する「不気味さ」はむしろ、「いまここ」の落ち着き難い「雰囲気」である。

 だから「不気味さ」は一方的に「怖い」のではない。このことを考えるにはフロイトをさらに召喚しておく必要があろう。ハイデガーが実存論的な次元で、つまり現存在の「気分」として「不気味さ」を論じたのに先行して、フロイトは「不気味なもの」を精神分析の地点から分析した(一九一九年「不気味なもの」)。フロイトにとっては「不気味さ」は、原始的・原初的な「去勢不安」と「死への恐怖」というに基づく。だからこそホフマンの「砂男」(一八一七年)におけるナタナエルの「失明」への恐怖は去勢への恐怖、オイディプス・コンプレックスに基づいて読み替えられる。

 フロイトは、《unheimlichkeit(ウンハイムリッヒカイト)》と《heimlichkeit(ハイムリッヒカイト)》の不分離さを指摘して、ある種のアンビヴァレントを記述する。その最たる例は女性器・子宮である。それは「子」にとって、かつての「家=故郷」であり、好ましいもの、手に入れるべきものであると同時に、秘匿されなければならないもの、禁じられなければならないものだ。「不気味」であるのは、このフェティッシュな両義性そのものなのである。「不気味なもの」は「秘匿されてあること(ハイムリッヒ)」の否定として到来し、その過剰な開示性によって、決定不可能な両義性と動揺、居心地の悪さを主体に与える。

 だからこそ、それは必然的に「心的生活の高次の層」のうちでは抑圧され、疎外されるのである。分析上の種々の差異を超えて、この抑圧と回帰の構造そのものは、ハイデガーとフロイトに共通している。すでに見たようにハイデガーは、その解体がある種の「抑圧されたもの」による「脅かし」によってなされることを指摘しつつ、さらにその「脅かし」が「公共性の居心地のよさ」への退避とセットであることを記述しているのである。

 この「不気味さ」の可能性を考えることはできるだろうか。しかし現代においては別の事情が重なってしまう。というのも、それは現代においては、真理の開示をめぐる闘争になりうるからである。現代の多くの議論は、「不気味なもの」を確固たる——不変の——「現実」として誤解することで、「真理」として扱う。この「リアリズム」的傾向はすでに——それがすぐさま精神分析の可能性の否定に直結するわけではないにせよ——フロイトの記述にも読み取ることができる。たとえば、

「目をめぐるこの不安、盲目になるかもしれないというこの不安は、多くの場合に去勢不安の代替物なのである。神話上の犯罪者オイディプスによる盲目という自己懲罰は、去勢という刑の軽減としてのみ理解可能である」(ジークムント・フロイト「不気味なもの」『笑い/不気味なもの』所収、原章二訳、平凡社ライブラリー、二〇一六年、二三〇頁)。

 たとえば、左派ポピュリストとオルタナ右翼は、どちらが社会にとってよりいっそう「不気味なもの」=マイノリティであるか、いかに開示されるべき「現実」であるかをめぐって闘争している。 こうして誰もが「隠された真実(リアル)」を暴く現代においては、「不気味さ」のノイズこそが「公共的」で日常的であり、私たちは誰もが、無数の「砂男」を幻視しては怯えるナタナエルである(そして私たち自身がまた誰かにとっての「砂男」なのだ)。だがそうしたノイズがいくら増えたからといって、いっこう変わらず「家」による「抑圧」が続くことを私たちは知っている。「不気味さ(ウンハイムリッヒ)」と「家(ハイム)」の強権は常に表裏一体である(フロイトの分析によれば「砂男」の不気味さは「父」への恐怖が形象化されたものである)。

 だから、「家」=「故郷」の抑圧を批判する者たちは一方で、「故郷喪失」という「居心地の悪さ」のなかでもがいている。彼ら・彼女らは一刻も早く「家族」の一員に加えてほしいのであり、「早く人間になりたい!」のであり、そこには今度は、ハイデガーに見られたようなノスタルジーがある。

 一方にリアリズム、一方にノスタルジー。「不気味なもの」の精神分析的解釈と実存論的解釈の双方が必然的に呼びまねく二つの審級。あるいは、リアリズムの崩壊からノスタルジーへの(あるいはイロニーへの)あまりに必然的な移行。

 絓秀実が述べる通り(絓秀実「リアリズム・技術・強度」、『小説的強度』所収、一九九〇年)、「リアリズム」とは自己と世界の一致を目指す「技術」であり、その技術がある種の説得力を持ったのは、自己と世界の関係が脅かされ、その回復が望まれていた十九世紀的——〈戦前〉的——「危機」のうちである。より詳しく言えば、「リアリズム」は言語と人間的本質、労働と技術との透明な媒介性、あるいは「一致」を前提とした美学概念であり、それが「美的」でありうるのは十九世紀における「表象=代行の困難さ」を前提としてのみである(それは「複製技術時代」(ベンヤミン)には無効になったとされる)。

 絓は正当にもそうした「リアリズム」の崩壊によってハイデガーの「技術論」が登場したことを確認し、ハイデガーの古代ギリシャへのノスタルジーについては「楽天的」なものとして退けている。この点について私たちは絓の議論を前提にしている。一方で、絓がフロイトに見出す可能性についても私たちは注意しなければならない。フロイトの議論は、「通俗化」されないまでもすでに無意識の欲動と言語(文学作品)のあいだに実に伸びやかな「一致」を認めており、彼の「文芸批評」は「言語」の「無意識」への還元になんの違和感も持ってはいない。すなわちその意味で、フロイトにとって無意識とは確固たる「リアル」なのである。

 話を戻そう。「リアリズム」は、そもそも、それは冷戦以後における戦後民主主義の支配——それ自体はおそらく端的に「正しい」——「反戦平和」の弛緩状態において有効なものではなかろう。むしろ私たちは、誰も自己と世界の一致を信じて疑わない「居心地のよさ」の中を生きている。だが、物事を考える私たちの「身体」は、いまでも、〈戦前〉からいっこう変わろうとしない。

 こうした身体性、その「症候」としてのふたつの審級(リアリズムとノスタルジー)を完全に振り切れるとも、あるいは振り切るべきとも私は思わない。だが、少なくとも私たちはフロイトやハイデガーの時代とは異なる状況認識を必要とするだろう。紙幅の許す限りで、それをここで素描してみたい。

 おそらく私たちは、もはや、秘匿され抑圧された、そしてダークでゴシックな、ひとつのリアルを解放し開示するべく戦うのではない。そしてある種の純粋に安らげる、「居心地のいい家」を求めて闘争するのでもない(どれほど「ノマド」ぶったとしても、私たちはどうしようもなく「家」に住んでいる)。私たちが肯定する「不気味なもの」とは、もはや実存論的にも精神分析的にも「真理」ではないようなものだ。その特徴は真理の「余剰」として常に生じてしまうという、その極めて消極的な性格にある。

 「不気味なもの」はむしろ、「家」の内部で、その抑圧構造によって常に変転しうる関数として、ある種の関係あるいは状態、さらには運動として理解すべきである。もはやそれを実存主義にも、精神分析にも還元せぬよう気をつけよう。抑圧された「存在論的住宅難」は、確かに抑圧されているが、かといって直面すべき事実でも、回復されるべき欠如でもない。それは実体ではなく、実体を持たない。

 「不気味なもの」は、「家」の「いまここ」に必然的に生じてしまうひずみであり、それ自体は虚構かつ不在なのにも関わらず、それを幻視し、感じ取ってしまうことで、あるいは思い出してしまうことで、つねに平和でリベラルな「公共性」に介入し、「居心地を悪く」させるものである。それは「砂男」というよりは「幽霊」、「再来霊(ルヴェナン)」(デリダ)と呼ぶべきだろう——フロイトは正当にも、「不気味な家」とは「幽霊が出る家」であることをすでに認めていた(フロイト、前掲書、二四四頁)。

  だからこそ「不気味なもの」は現実を理解し、その解釈を複数化させるための方途ともなりうる。この幽霊的知性によって私たちは、どんな「家」も「幽霊屋敷」でありうること——どんな「建築」も、したがってどんな言説も「幽霊屋敷」であることを理解するだろう。アッシャー家についての執拗なポーの記述を通じて、私たちは、どんな「家」もそうでありうることの可能性を理解するだろう。「家」が存在する限り、「不気味なもの」の抑圧と回帰が絶えず生じ続ける。

 自己と世界との「一致」を完全に回復しようとする神秘主義的な身体は、終わりなき日常を生きて「公共性」の正義のうちに埋没するか、それとも「電撃的に到来する」革命を待望するか、その二択しか思考することができない。幽霊的知性はその二者択一をすり抜ける。この知性はむしろ、自己と世界の間の一致とずれの連続——「居心地のよさ」と「居心地の悪さ」のあいだの動揺を見逃さない。つねに生じるこの擬似−弁証法的な運動、そのうちに最大限自己を開き、身を投じること。おそらくそこに臨界的=批評的な経験がある。

4−1. 戦争としての関係

 さて、隈の建築は、「家=故郷の論理」を略奪し、建築物に応用してきた。むろん、そこでその「故郷」性(隈が「存在」と呼ぶもの)は自明のものとされ、その喪失は抑圧され、根本的に思索されることがない。隈の建築は故郷を仮構するために機能する。もちろん、すでに見たように隈の「生存戦略」にとっては、「建築」が少しでも大衆に受け入られること、「社会の敵」ではないことが重要なのだから(私は別に「建築家」でも「建築批評家」でもないので、建築が「社会の敵」であろうがなんだろうがいっこう構わないが)、「家=故郷」を補強することが、彼の建築の唯一の賭け金となる。だから彼は「新国立競技場をつくる」のである。

 オリンピックが批判されるべきなのは、それが「故郷」の自明性を強化する祭典であり、失われた「故郷」をあるいは「公共性の居心地のよさ」を、想像的に作り上げることだからである。それは「不気味なもの」に対する最大限の抑圧装置(まさに「魔女狩り」)であると言ってよく、「不気味さ」の運動を停止させようという試みである。

 最後に考えるべきなのは、この「不気味さ」が具体的な建築物とどのように関係するかである。というのも、まさに戦後思想はフロイトのいう「不気味なもの」を解釈してきたし、それに由来してか、「不気味なもの」への志向は、ポスト・モダン建築の(ある意味クリシェ的な)作風でもある。この点については、アンソニー・ヴィドラーが『不気味な建築』の中で的確な批評を展開している通りである。それでは我々はもう一度ポスト・モダン的感覚へと回帰するのだろうか。

 それはそれなりには魅力的な提案である。たとえば磯崎新の《つくばセンタービル》(一九八三年)は、その瓦礫のモティーフにおいて、一面においては「故郷」を脱臼させる「不気味さ」を持つだろう——だがもう一歩踏み込むためにこそ、私たちはこの論考を問いから始めた(「建築は『不気味』たりうるか?」)。「不気味さ」を建築に託すことができるのか、と言い換えることもできるだろう。ここでもう一度、表象の問題を考え直す必然性が生じる。

 以下の議論で、もはや私たちは「建築」から逸脱してしまっているようにも見えるかもしれない。だが、先に言っておけば、私たちはもはや、狭義の「建築」に何のラディカルな変革をも期待してはいない。どんな建築もラディカルではありえない。ポスト・モダン以降の芸術一般に言えることだが、芸術それ自体の異化効果や破壊効果、反抗や公的−政治的能力に期待し、何かを託すことはできないし、あらゆるイデオロギー構造からも独立した「潔癖」な芸術を求めることは馬鹿げている。だから、私たちは以下、ある特定の作風やある特定の建築物を絶対的に評価しはしない。私たちは、それぞれの建築物が持つ「切断」的な効果と「接続」的な効果の配列をその都度見定めつつ言語化するほかはないだろう。

 そうした言語化のために、「関係」というキーワードを再考することは無益ではない。実在する限り、あらゆる建築物は、建築家がデザインした「画期的」な(「時代を画する」ような)図書館や美術館だろうが、画一的な学生アパートだろうが、スーパー、コンビニ、ホテルだろうが、どんなものでも、関係を完全に絶っている建築物など存在しないからである。あるいは室内で、本棚や机といったレベルの「建築物」でさえ、人間がそれを「物」として分節化し表象する限り、何らかの仕方でつねにすでに、風景、すなわち周辺環境と「関係」を結んでいる。

 栗田勇は『思想としての建築』で、「環境は、依然として、空間の装置であるとしても、それは人間が意図したものを常にわずかずつ超えている」と述べ、「物」のひしめく環境が、人間の「安楽=カンファタビリティ」を満たしつつも逸脱することを指摘している(栗田勇『思想としての建築』鹿島出版会、一九七八年、七二頁)。「不気味なもの」とは「不気味な『物』」でもあり、まさにそれは「安楽」に内在する「居心地の悪さ」なのである。

 ここで栗田が想定しているのは室内環境であって、この点をより詳細に考察するためには、ポーやベンヤミンをはじめとし、すでに見た多木にまで至る、「部屋」や室内装飾についての種々の象徴的な言説を検討することができる。だがここでその余裕はない。その代わり、私たちはこの「環境」の概念を——部屋の外へと——どこまでも拡大していくことにしよう。

 建築物は、それ自体、空間的なレベルで「環境」と関係を結ぶ。それはまず風景であり、あるいはさらに、都市である。ここで「不気味な『物』」は、ゾーニングへと抵抗する「物」として現れる。 ゾーニングを基調とした「居心地の良い」理想都市論への反発は、 「六八年」以降、近代建築への深い疑義とともに、なんども表出されてきたが(たとえばピーター・ブレイク『近代建築の失敗』)、その幻想は未だ根強く残っている。

 ここで必要なのは、被差別者の不気味な「物」としての在り方を作家として記述した中上健次のような想像力である。重要なのは、中上がまさに、被差別部落(地域)を記述するとき、それを具体的な都市構造の——ゾーニングあるいは都市開発の——問題としても描いていたことである。

「差別とは、構造のことを指す、と私は思う。古座町で私が見た構造的差別とは、古座川をはさんで目と鼻の先に設備も持たない漁協を仮設置して、古座漁協と西向漁協とを二つつくるその構造の中にある」(中上健次『紀州 木の国・根の国物語』、角川文庫、一九八〇年、二九五頁)

 こうした中上の発想、ないし「差別構造」の記述を支えたのは、都市ないし「路地」を歩き回る際の、「中心/周縁」についての(「脱構築」的な?)視点であった(Cf. 中上「講演10 小説家の想像力2」、『中上健二発言集成6』柄谷行人・絓秀実編、第三文明社、一九九九年)。ここで中上は被差別者を「弱者」として「切断」し呈示したのではない。むしろ中上の記述の要点は、被差別部落と都市開発の、被差別者と天皇制の切り離せない構造的「接続」を示すことにあった。

 このように、都市との「接続」は建築の政治性を際立たせる。このことから理解しなければならないのは、隈のような建築家がいかにそのレトリックによって西洋と日本を「切断」し、日本という「家=故郷」を仮構しようとも、その建築はグローバルな後期資本主義の風景と否応なく「接続」していることである(実際、隈の建築の多くは都市に作られている)。レム・コールハースのアイロニカルな戦術が教える通り、そうした建築が接続しているのは、無記名的で外部のない、そしてきわめてジャンクでキッチュで「ダーティ」な、資本主義の「場所」なのである。

 さて、しかし建築物の結ぶ関係性は、空間的なレベルで捉えられるだけではあるまい。建築物は時間的なレベル(歴史)でも関係を持つ。建築における現在と過去との関係を理解するということは、過去との「有機的」で「自然」な——「人類学」的な?——調和ばかりを見出すことだけを意味しない。中上の記述にもそれを見出すことができるが、そこに「抑圧」の歴史が見て取られることもある。それもまた積極的に接続的な一つの、接続的な「関係」なのである。

(たとえば《新国立競技場》設立をめぐる「魔女狩り」、作業員の過労自殺、そして明治神宮周辺から排除された「野宿生活者」たち。そうした「ゾーニング」の歴史がまさに幽霊的に、《新国立競技場》にとり憑いているのだが、私たちはそれを記録し、いつでも思い出すことにしよう。)

 では未来はどうか。未来はそれ自体として主題になることはない。だが未来は、あらゆる「もの」を包囲し、裏切り、揺さぶる。未来はメタボリズムが志向したような「可変的」で「流動的」な建築物をもさらに裏切る。時間はいかなる「反映」をも原理上超えており、未来は、どんな未来であれ——ここで私は終末論的な待望を語っているのではなく、単に、いかなる建築も可変的で流動的だということを述べている——つねに予想以上の可変性を伴っている。

 磯崎新の——のちの「アーキテクチャー」論を先取りした——「プロセス・プランニング論」が提唱し、前提する建築の生命的な在り方、建築をあるプロセス(「孵化過程」)のうちで変化しているものとして捉える思考を、その限りで肯定的に捉えることができる。しかしかといって、それに基づき、それを反映した《大分県立図書館》(一九六六年)が特別に評価されるべきということを意味するわけではない。ここにおいてこそ私たちは建築の「表象=代理システム」に深い疑義を表する。むしろ、どんなに「閉じた」「均一的な」「スタティックな」建物でも原理的にはすでにプロセスのうちにあることを理解しなければならないのである。建築はそれが具体物であるがゆえに設計を裏切る。時間は設計を超えている。あらゆる建築の生命は絶えず死の可能性に脅かされている。不気味な建築があるのではない。はじめから不気味に作られた建築はその固有の「安楽さ」に安らっているだけである。建築は不気味になるのだ。

 時間的・歴史的な経過と空間の変容。他者の介入と「物」の記号的な蓄積と痕跡化。建築の「表象」性がうらぎられ、磨滅していくのは、こうした不純物——「不気味なもの」、「幽霊」——の到来可能性、空間と時間の外交あるいは交渉によるものだろう。

4−2. 欲望と不気味なもの

 この視座に立つ時、建築家の意図や建築のスタティックな性格を「脱構築」し、予測不可能な未来をそこに投影しようと苦心してきたポスト・モダン建築それ自体のうちに、より根本的な欲望の次元が立ち現れてくることになるだろう。

 建築はこれまで、様々な仕方で建築を「脱構築」してきた。例えば「プロセス」を反映させ、可変性・流動性を目的にする……だが、それが反映目的である限り、つまり思考する「建築家」(たち)という主体が存在する限り、「建てる」こと自体の表象的で暴力的な性格を逃れることはできない。むしろそこに透けて見えるのは、歴史的生成すらも先取りし、建築に内化=同化しようという、建築的「決断」へのあくなき欲望である。

 ハイデガーの議論がまず初めに教えるのは、「建てること」それ自体の表象性であった。少なくとも近代的な体制における建築は、その見た目がどれだけソフトであろうと、本性上「自然」から追放されており、故郷を喪失している。これはおそらく「建てる」こと自体の超越論的な暴力性を意味する。建てることはそもそも切断することであり、破壊することであり、まなざすことなのだ。

 だが、「六八年」以降の「建築家」たちは、この「まなざし」をさらに越えようという「まなざし」を持っていた。ゆえに彼らは、設計を超えたものを設計し、計画を超えたものを計画し、作家を超えたものを書こうとしたのである。しかし、それは相変わらず象徴を設置することにほかならなかった。

 違う角度からだが、ディヤン・スジックは『巨大建築という欲望』で建築と権力者との関係において、建築への欲望を記述している。スジックによれば、おそらくはピラミッド以来、巨大な記念碑を創造することで自身の権威を示そうという途方もない欲望——「巨大建築(エディフィス)コンプレックス」——によって、建築は駆動させられてきた。その暴力性を糾弾することは容易だろう。

 だが、この「ピラミッド的欲望」それ自体は破壊不可能ではないか。私たちは建築の暴力性を批判しながら、それでも建築の「負ける」ことができない宿命に直面するべきなのではないか。隈は「建築はどんなに負けようが、負けたふりをしようが、それでもまだまだ強い」と述べていたが、この言葉を文字通り受け取ってみよう。

 建築の欲望と、その欲望を絶えず別の方向へとずらしてしまう「不気味なもの」。私が先ほど「擬似−弁証法」と呼んだのは、まさにこの対立である。この関係は、もはや「プロセス」や「終末」ではなく、終わりなき「戦争」あるいは「抗争(Différend)」と呼ぶべきものである。異質物の共存、そのアレルギー的な性格こそ、私たちが絶えずそこに幻視しなければならない、「不気味さ」の境位なのである。

終わりに

 ——かつてル・コルビュジエは、第一次大戦の直後、騒乱の中で諸々の論考を書き、それは『建築をめざして』(一九二四年)にまとめられた。よく知られるように彼はその最終章で、「建築か、革命か」という二項対立を示し、その上で、「革命は避けられる」という一言でその著書を終えた。ここで示唆されている「革命」が一九一七年の二月革命であることは想像に難くなく、その意味で、この二択は彼にとってかなり差し迫ったものだったのだろう。

 隈研吾は『負ける建築』で、すでに見たような「関係性」の建築論を展開するその手前で、この二項対立を「粗雑な設問」として退ける。言ってみれば、隈研吾の議論のすべては、この設問を抑圧することによって——そして事実上は、結局のところ、コルビュジエと同じく、革命の選択肢を無視することによって——成り立っている。

 しかしよく読むべきなのは、コルビュジエがここで革命を一方的に退けているわけではないことである。ここで彼は、「建築の概念の革命」を称揚している。コルビュジエにとって、「革命」は建築の現場で起こったのであり、すでに進行中だったのだ——この意味ではこの二項対立は「革命」の一択なのである。

 言うまでもなく、こうした言葉遣いには、モダニズムが内包する楽観的かつナルシスティックな前提——技術革新(それに伴う過去の因習との決別)への絶大なる信頼——がある。モダニズムが確かに「企業倫理」の変革や労働環境の改善をもたらしたとしても、冷戦以後を生きる私たちは、もはやそれを「資本主義リアリズム」と切り離すことはできない。

 このような「革命」への意志が具体的な革命と交換可能なわけでも、価値的に等価なわけでもない。だがそれでも、コルビュジエが「革命」という腐った隠喩の価値を防腐保存しておいたことは、それなりに考察に値する事実である。それは「建築」と並んで、私たちの思考のもう一つの重要な特徴なのではないだろうか。

 「反革命」思想においても保存された隠喩的価値のおかげで、私たちはもう一度、あるいは何度でも、「建築の概念の革命」を考え、実践することができるのである。それによって私たちはようやく、「切断か関係か」、「表象か存在か」、「批評性かコミュニティか」という「粗雑な設問」を超え、新たな設問を「建築」しうるのだ。

 そうした可能性に応答すべく、「不気味なもの」たちがあなたの部屋の四隅に棲み着いている。

幽霊的知性のための後書——もっと光を!

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