場をしのぐこと——命令形についての一考察

※ 『文藝』2021年春季号に掲載されたいくつかの論考についての感想、14700文字程度。有料設定は投げ銭用なので、無料で全文読めます。

現代とは何の謂いか

現代。/着地点はねえ/ずっと飛んでるキブン/ヘンタイの思想は共感できん/四季が巡り/色とりどりの人類模様/俺はいつも動揺を押さえきれん(KIMOCHI - ZAZEN BOYS)

それにしても「現代」とはいつ、どこにあるのでしょうか。周りを見渡す限り、私を含む数多くの人たちが、「現代」の不定形さや流動性に怯え、その不確かな輪郭を掴もうとしているように思われます。あるいは、他の時代と異なる、「現代」の特徴、そのダイナミズムを捉えようとしているとも言えるでしょう。

何が新しくて、何が旧いのか。思想とか批評とか哲学とか文学とかいわれる極めて抽象的で、どこか現実実のない営為が、たとえわずかでも一定数の読者を獲得している背景に、「いま・ここ」を特徴づけたい、「いま・ここ」を言葉にしたい、「いま・ここ」を知りたい、という欲望を感じたとしても、それほど不誠実なこととはいえないでしょう。そういう要求には、学問的とか科学的とか言われる言説はなかなか答えてくれないし、皮膚に馴染んでもくれないものです。様々な文芸誌が、弛まぬ企業努力によって多様な特集を組み巷間を賑わせるとき、その背景には、読者たちあるいは書き手たちには、この「いま・ここ」への志向があるのかもしれません(それが最終的には「いま・ここ」という指標を破壊しようとする場合でさえ)。

私は、いつでも、思想そのものがなぜ始まるのか、というこの問いに関心を持っています。なぜ人は、そもそも言葉で世界を表現したり解釈したりするのでしょうか。なぜ人は読んだり書いたりするのでしょうか。おそらく、この問いを通過しない限り、どんな思想にも強度はないと思います。ここで仮設的に思想のはじまりに根拠を与えておくとするなら、そこに、「いま・ここ」をどう生きるべきか、あるいは、いかに生きることができるのか、という、実践的・倫理的な(さらには政治経済にまつわる)切実な「問い」を認めることができます。

けれども、このように問題を設定するや否や、ある種の困難に直面することにもなるでしょう。「いま・ここ」の輪郭を掴むこの作業、つまりトポス(場所)の問いは極めて難しいものです。周知のように、「いま・ここ」という言葉について深く思考した哲学者はヘーゲルでした(Cf.『精神現象学』「感覚的確信」章)。ヘーゲルによれば、眼前にある「このもの」は、「いま」と「ここ」という、いつでもどこでも指すことのできる空虚な名詞を条件としています。古代ギリシャにとっての「いま」、近代西洋にとっての「いま」、第二次大戦中の「いま」、2021年にとっての「いま」。夜の「いま」、昼の「いま」。あるいは、この一瞬一瞬にも過ぎ去っていく「いま」を、相変わらず一個の単位かのように指し示すこの言葉。「ここ」の場合も同様であり、私の「ここ」とあなたがいる「ここ」。こうした諸々の異なる時間や空間は、その指示内容の徹底的な異質さにもかかわらず、同様に「いま」や「ここ」という「普遍的」な名詞で恒常的に指し示すことができます。

何が問題なのでしょうか。同様の構造は、「私」という名詞にも潜んでいることがわかります。定義上、「私」はかけがえのない、他者と代替不可能な「私」です。もちろん、マルクスによる暴露を引き合いに出すまでもなく、日頃の労働の局面では私たちは誰でもよい労働力、計測可能な「量」にすぎないのであって、この代替不可能性を感じることはほとんどできません。しかし原理的には、「私」が他の誰かと同じような言葉を発したり、あるいは同じような考え方に至ったとしても、それは厳密には「似ている」だけにとどまります。誰かが私に成ることはできませんし、私もあなたに成ることはできません。私の身体の空間を誰か他の人が占めることはできませんし、あなたの人生の物語を私が生きることもできません。私はあなたの身代わりになることはできるけれども、あなた「として」死ぬことはできません。しかし依然として、「私」という言葉そのものは、誰でも指すことができます。この構造の中に「生きづらさ」があります。

「いま」という時間、「ここ」という空間、「私」と「あなた」の異質さはそのようにして、特定の語の無時間的・無空間的な普遍性に侵食され、閉じた構造に包摂され始めています。「個」がただ純粋に「個」のままであることがない以上、常に「類」が「個」を飲み込もうと狙っています。いま、はいつでしょうか。それがいつだろうと、「いま」です。ここ、はどこでしょうか。それがどこだろうと、「ここ」です。私、は誰でしょうか。あなたが誰だろうと、「私」です。

基本的には、私たちはこういう言語以外を知りません。私たちは、「いま」や「ここ」や「私」という言葉や概念や指標を使わずに話すことができません。もちろん、「いま」や「ここ」や「私」という言葉の持つ地位や機能や価値は時代や場所によって変容を被りますし、そのような形式を持たない言語を認めることもできるでしょう。けれども、私たちが何らかの仕方で世界を了解しようと努力するときには、依然として、こうした形式に積極的に頼らざるをえないのではないでしょうか。

このようにして、「いま・ここ・私」を捉えようとする運動は、ある形式的な挫折を抱えていることになります。「いま・ここ・私」の特異性を語ろうとするやいなや、見飽きた反復に私たちは足を取られます。それどころか、「私」は、「私であろうとすること」によってこそ、この凡庸さに落ち込んでいきさえするのです。

私たちは、19世紀から21世紀に至る思想のある潮流(文学と呼ばれるものであれ、哲学と呼ばれるものであれ)が、様々にモティーフを変奏しながらこのような「弁証法」を批判してきたことをすでに知っています。もはや「私(特異性)を包摂する普遍性」などというカギカッコつき「ヘーゲル主義的」テーゼは見飽きた時代遅れのものとみなされるでしょうし、最悪の場合は、唾棄すべき「全体主義」とすらみなされるかもしれません。

もちろん私もこうしたテーゼに一定以上は批判的であり、全てはヘーゲルに始まりヘーゲルに終わると言ったような(ヘーゲルを「過大評価」する)言説に与するわけではありません。しかし、この全体性の壁を打ちこわそうとする越境あるいは「侵犯(transgression)」の思想もまた、むしろ、絶えずこのアポリアに熱狂し、魅了されてきたとすら言えるのではないでしょうか。対立構造は単純ではなく、「反ヘーゲル主義」と「ヘーゲル主義」の間には極めて巧妙な近さがあります。その点を鑑みれば、やはりこの地点——特殊と普遍のあいだ——に開始点を置くことはそれほど不誠実ではないのです。

生きづらさへの「処方箋」

だらだらとした饒舌ほど人をうんざりさせるものはありません。少し開始点を変える必要があるでしょう。先ほど私はさりげなく「生きづらさ」という言葉を使いましたが、勘のいいあなたであれば、小さな違和感を持ったのではないでしょうか。どうして生きづらさが問題になるのでしょうか。

ヘーゲルなど持ち出さなくても既に身近なことですが、私たちは自分の特異性などまるで信じられないのに、しかしある局面では絶対的に特殊で単独であり——例えば名簿上で——、常に「お前は何者だ」と尋問されつづけ、しかしやはり一方で完全に特異でもないわけです。私たちは完全に個性的にはなれないし、完全に個性を捨てることもできません。私たちは完全な単独者でも完全な群れでもなく、そのあいだを不気味に行ったり来たりしています(それを「人生」という概念で定義してもよろしい)。

どうやら、このような苦しさはしばしば「ディストピア」とも呼ばれているようですが、成り立ちからしてやはりそれは「トポス」にまつわる語にほかならないわけですから(dys-topia : 悪い場所)、文芸誌がこれに着目するのも不思議ではないでしょう(『文藝』2021年春季号「特集:夢のディストピア」)。私は何でもかんでもディストピアと呼ぶ風潮には懐疑的ですが、それでも、この特集はそれなりに切迫した問題をとりあげています。

自分は何の役にも立たない。自分は何者にもなれない。こうした苦しみは、社会の側から休みなく要請される「お前は何者だ?」という尋問に対する裏返しとしてある。〔…〕こうした社会で生きているかぎり、匿名的な存在でいることは許されない。常に身元を証し、自らに与えられた責任や役割(アイデンティティ)を当然のこととして引き受けることが要求される。セルフマネジメントと自己責任。自己規律化の技術。(木澤佐登志「さようなら、いままで夢をありがとう」『文藝』2021年春季号、329頁)

全体的にはフーコー論と言える木澤さんのこの文章は、実に巧みに現代的の苦境を想像させ、共感させるものです。木澤さんはその苦しさからの困難な脱出を提示しようと(あるいはその不可能性を提示しようと)しています。木澤さんは、マーク・フィッシャーからモティーフを受け継ぎ、〈外部〉への《Exit(脱出)》を中心的なテーマとします。生きづらさ、ひいてはその根拠である管理社会的なアイデンティティ、「プラットフォーム資本主義」からの《Exit》を志向するわけです。同様の志向は、「未来を破壊する」と題された樋口恭介さんの生命力豊かな論考にも見ることができます。

何にも支配されるな。/何にも分類されるな。/何にも規定されるな。/何にも定義されるな。/属性に閉ざされるな。/抗え。/あなたはあなただ。(樋口恭介「未来を破壊する」『文藝』2021年春季号、200頁)
私たちは何の役にも立たない。/私たちは、私たちが何の役にも立たないことを主張し続けなければならない。/何の役にも立たない自分を恥じてはならない。/私たちは、私たちであり続けなければならない。/私たちは、私たちの生を取り戻さなければならない。(樋口恭介「未来を破壊する」『文藝』2021年春季号、200頁)

とはいえ、実際には木澤さんと樋口さんの主張は似ているようでいて真逆の部分があります。樋口さんの主張は、いわゆる疎外論というか反近代主義として特徴づけられますが、フーコー=木澤はむしろ脱近代的であり、この「私たちの生」や「私たちであり続け」ることそのものからの脱出を希求しています。社会から規定されることに反抗するという姿勢は似ているものの、樋口さんは何にも規定されていない・何の利益によっても基礎づけられていない剥き出しの「私であること」によって反抗し、フーコー=木澤はそもそも「私でなくなること」によって、フーコーが「ヘテロトピア」、木澤さんが〈名前のない特性〉と呼ぶものによって、抵抗しようとするのです。

SNSは普段に私たちに「個人」であれと迫ってくる。そこでは絶えず立場の表明を強いられる。どちらの陣営に与するのか、どのような思想や嗜好を持ち、どの界隈(クラスタ)に属しているのか、云々。要するに、「それで、結局のところお前は何者なのだ?」というわけだ。量産される踏み絵のようなハッシュタグ。告白の体制。分断の加速。政治的トライバリズムの勃興。(木澤、前出、328頁)

たしかに、私もまた「立場」の表明を強いられて仕方がなくこの文章を書いているわけですし、「議論」や「対話」が不可能そうなこうしたSNSの性質にはいつも辟易としています。強いられるならこのように書けばいいし、誰かと聞かれたら「私」だと言えばいいだけの話なので別に困りはしませんが、とはいえ木澤さんのこのような感覚に共感しているからこそ、Twitter上でではなく、わざわざあえて長文を書いたわけです。喧嘩とか人間関係とか人の自意識ばかりに興味がある観客たちにわざわざ議論を見せる必要はありません(この点の無自覚をご指摘くださった江永さんには感謝しています)。

話がそれました。いずれにせよ、樋口さんが19世紀的だとすれば、木澤さんは20世紀的・21世紀的だと私は思います(それは、フーコー、マーク・フィッシャー、ニック・ランドといった固有名への依拠からもわかることでしょう)。古めかしい言葉で、パラノ的/スキゾ的と分けてもよい。

この点で、Twitter上で私が彼ら二人をまとめて批判している(ように見られた)こと、これは私の手落ちでした。私は彼らを「その場しのぎの詐術」とまとめて呼びましたが、彼らがそうであるのはそれぞれ別の理由によるからです。

命令形について

各論に入る必要があります。木澤さんの文章についても私は一定以上の違和感を持っており、立場の違いも感じます(たとえば、問題をあまりにも管理/監視社会に限定しすぎなのではないか、とか、〈外部〉を神秘化しているのではないか、とか、体言止めとか、やはりそれはどこまで行っても「主体論」的であって、視野狭窄なのではないか、とか)。しかし、木澤さんの文章は議論の組み立て方という点で非常に巧みで、これを批判するためには、私が昔から苦手なフーコーやマーク・フィッシャーやニック・ランドに対する批判込みで議論を組み立てる必要があるでしょう。これにはいっそうの長い時間と準備と心構えを必要としそうです。申し訳ないのですが、この論考では直接は触れないでおきます(また、『文藝』に掲載されている他の論考・エッセイたちについても、いろいろ感想はありますが、ここでは述べません)。

とはいえ一方で、樋口さんの文章についても、木澤さんの場合とは違う理由で、何かを言うのは難しいです。その理由というのは、この文がアフォリズム形式であり、「合理主義を拒否せよ」、「論理的思考を疑え」と言うだけあって、論理的な体裁もコンテクストの確認もしていないので、共通の議論の土台になりそうなものがとくにない、ということです。「未来を創ることなどできないが、未来を破壊することならできる」、「奇跡の到来を待ち続けろ。/唯一理想と言える未来があるとして、そこにある未来だけが、私たちの未来だ」。というような、救済を待つ終末論者のような世界観についても、その内実が一切示されていないので、どこから批判に入ればいいかわかりません。未来って何なのでしょうか。どこが議論の糸口となるでしょうか。

誰の言うことも聞くな。/もちろんこんな文章もまともに読むな。/この文章に何も期待するな。/自分に何も期待するな。/世界に何も期待するな。人生に何も期待するな。/何にも何も期待するな。(樋口、前出、199頁)

上記のように書かれているわりには、私はTwitter上で樋口さんから自分の文章を読まずに批判している、という廉で非難され、反論を期待されたりしましたが、残念ながら私は「まともに読ん」でしまったのでした。「まともに読ん」でしまった以上、そして内実の批判が難しい以上、おそらくまず見ておくべきは形式ということになるでしょう。そういうわけで形式を見ていくことにします。樋口さんの文章が読者にどう思われるのか私には分かりませんが、私が思うに、この文章には形式上の困難があるようです。というのも、「誰の言うことも聞くな」とは、事実上、実行不可能な命令だからです。

抗え。/あなたはあなただ。あなたはあなた自身であることを信じて、あなた自身であり続けろ。(樋口、前出、199頁)
誰の言うことも聞くな。/もちろんこんな文章もまともに読むな。/この文章に何も期待するな。/自分に何も期待するな。/世界に何も期待するな。人生に何も期待するな。/何にも何も期待するな。(樋口、前出、199頁)

この命令形をどのように受け取るべきでしょうか。仮に、私がこの文章の命令する通り「やりたいことだけをや」り、「誰の言うことも聞」かないようになり、「あらゆるものに抵抗」したとしましょう。もちろん私はそのとき、まさにこの一文に言われたことをやっているのであり、この一文の命令にしたがってそのようにしているのであり、したがって誰かの言うことを聞いているのですから、「あらゆるものに抵抗」していないことになります。

ですから「言うことを聞くな」とは、それに逆らってもそれに従っても、どのみち私たちを虚偽に落とし込むような、そのような形式、つまりダブルバインドなのです。この文章の内部にはりめぐらされた命令形の網は、私たちを数々のダブルバインドに追い込みます。私たちはここで、支配に背くことで支配され、支配されることで支配に背くのです。「ディストピア」特集という事情を鑑みると、樋口さんの命令形は、「自由は屈従である」というBig Brotherのスローガンをリスペクトし、それに倣ったのかもしれません。

私がこのように批判的に書いたとき、樋口さんはTwitter上で、まさに自分の文章はそういうことを主張しているのだから、私(左藤)は読まずに批判していると仰っていましたが、そうではありません(というか樋口さんの立場を徹底するなら「まともに」読んでいたかはどうでもよいはずですが)。私は、「私の傷は私の傷だ」というトートロジーによって言説を閉じています——もちろん、上でヘーゲルについて話した箇所で既に述べた通り、私が「私」という言葉を使っている時点で、ある種の普遍性に開かれてしまうわけですが——。ところが、樋口さんの文章は、その命令形のゆえに、特権的な地位から読者に「私が私であること」を強制し、抑圧します。樋口さん風に言い換えるなら、私のツイートは「あなたの傷はあなたの傷だ。他人に癒されるな。」という禁止と命令の構造を形成します。

ここでは、すでに説明した通り、「あなた自身である」ことと「抗う」ことの間には矛盾の関係が生じてしまいます。私は私自身であるために「全てに抗う」必要がありますが、その必要は既に命令されたものなのであって、既に「全てに抗う」可能性は失われており、結果として私は私ではありません。さすが、「矛盾を生きるということ」を称揚するだけあって、この文章はまさに私たちを矛盾と逆説に陥れるのです。

おそらく私たちはこの文章を読むことによってこそ、一つの自由を、固有性を、自分自身を、抵抗の可能性を失います。あなた自身であれ、と言われることで私たちは私自身であることができなくなります。私が上記のようにツイートしたのは、この命令形の暴力・権力に対する批判です。似た内容であれ(そうとも思いませんが)、自分に向けて言うのと他人に向けて言うのではまったく異なります。私はそこまでのマッチョではありません。同様の主張をするとしても、細心の注意を払って、その必要を説明しながら主張するでしょう。そもそも、私は誰かにわざわざ「あなたはあなたであれ」などと偉そうに保証したり説教したりしませんし、「私らしく」生きろなどという、広告代理店じみた言い回しで満足するほどものを知らないわけでもないのです。

もちろん、「もちろんこんな文章もまともに読むな。/この文章に何も期待するな。」などといういささか腰のひけた予防線によっては、その暴力性と権力の行使は弱まるわけではありません。(たとえば「読むな」と言いながら「読め」と言うことによって)ダブルバインドを用意するのは、人に何かを問いかけ、尋問するのは、それがいかに「反体制」の装いをまとっていたとしても、かりに本人が「弱者」のつもりで発言していたとしても、いつでも「体制」の側であり、さらに言うなら「SNS」の側なのです。もう一度、木澤さんの当を得た指摘を繰り返しましょう。

SNSは普段に私たちに「個人」であれと迫ってくる。そこでは絶えず立場の表明を強いられる。どちらの陣営に与するのか、どのような思想や嗜好を持ち、どの界隈(クラスタ)に属しているのか、云々。要するに、「それで、結局のところお前は何者なのだ?」というわけだ。量産される踏み絵のようなハッシュタグ。告白の体制。分断の加速。政治的トライバリズムの勃興。(同上、328頁)

実際のところ、いくら「定義」や「属性」を批判しているとしても、樋口さんの文章は形式的にはこの「SNS」の尋問とあまり変わらないのです。もちろん、私はこの暴力性を「倫理的」な観点から批判したいのではありませんが——究極的には、この暴力は文章一般から拭い去れないものだとも考えます——、この作家の文章が言説の暴力にいかにも鈍感であること、メッセージがメタメッセージを裏切っていること(あるいはその逆かもしれませんが)を指摘しておくことは無益ではないでしょう。

未来を破壊する、ただし優しく!しかも個人で!

しかし、こうした形式の諸問題は些細で重箱の隅をつつくようなものにすぎない、と思われるかもしれません。もしかするとこの文章は、「誰か」にとっては、きわめて想像力豊かな「処方箋」として、「生きづらさ」をかわすための方途となるのかもしれません(それでもやはり「この文章に何も期待するな。」という命令に背いてしまうことになるわけですが)。ここで、この暴力に抵抗するために、命令形がいかなる内実に基づいているか、ようやくこのことを考える必要が生じるのです。樋口さんが「おそらくはその先に」あると信じるらしい「今よりはまともな世界」がどのようなものなのか、覗いてみたいと思います。

実際、強い語調を抜きにすれば、この文章で全体的に主張されているのは、「とにかくサボって社会に頼って生きていけばいーじゃん」という、私たちにとってとても気持ちがいい、微温的でソフトなメッセージでした。

普通に普通の人生を生きるための権利を行使せよ。/〔…〕/全ての食料が無料化されることを要求せよ。/市役所の窓口で食料が無料で支給されることを、/図書館で食料が無料で支給されることを、/ハローワークで食料が無料で支給されることを、/公園の水のように、/あらゆる街で、/タダで食料にアクセスできるようになることを、/永遠に要求し続けよ。/政治家に電話をかけよ。/自治体に投書せよ。(同上、196頁)

一昔前のフリーター賛美を思わす、このような小市民的で人権主義的なメッセージについては、特に私は批判的ではありません。別にわざわざ言うまでもないことというか、私も、「いつかそんな社会が来ればいいなー」と、お正月を待つ子どものように思います。何か身近にそういう運動があったら私は参加さえするでしょう。

しかし、実際のところこの優しい主張は、具体的な例を出しているようでいて、その根拠はかなり抽象的です。ここで言われている「権利」とは何でしょうか。樋口さんは何に依拠して、この「要求」を訴えているのでしょうか。樋口さんは自然権に依拠しているのでしょうか。人間、生まれながらにして、自然的生得的に、権利を持ち、生きる権利をもち、「国家」から守られるべきだ、と主張しているのでしょうか。それなら議論はわかりやすくなります。しかし樋口さんは「全ては作られたものにすぎないと言うこと、そのため全ては変えられるものである」とも主張していますから、その理由はありえなさそうです。実際人権とは近代的な発明ですが、それが「作られたもの」であるならば、法=制度に依拠したものだと言えるでしょう。それは自明のものではありませんし、前提でもありません(前提にするべきものではあるかもしれませんが)。

さて、それではこの主張は、自分たちの面倒を見てくれる、要求をたくさん飲んでくれる、誰にでも人権を認めてくれる、優しい、力を持った、大きな、リベラルな〈父〉としての、「国家」を希求するものでしょうか(この方向性はしばしば多くのリベラルが無自覚に陥っているものでもあると私は思っていますが、もちろん、私はその方向をすぐさま棄却すべきと思っているわけではありません)。あえて「マジレス」するなら、実際「食料が無料で支給」される状態を想像するなら(不味そうなので私はあまり食べたいと思いませんが)、相当大きな政府による徹底した管理が必要でしょうから、そうとも言えなくはなさそうです。それとも、実際のところそんな状態になるわけがないと思いながら、あくまで誇張的な言い回しとして、「食料が無料で支給」される状態を主張しているのでしょうか。そんな細かいことは知らない、自分たちが全て食い潰して破滅すればよい、というのが「未来を破壊する」ということなのだと思いますが、放っておいても、現状を見れば「未来は破壊」されそうです。

しかし、こうしたことの全ては推測に過ぎません。樋口さんの主張は実際には立場を何ら示していないので(そもそもどの国の誰の話をしているかも不鮮明です)、詳細については、この断片からはよくわからないのです。丸山眞男に立ち戻るべきでしょうか。「そんなものはどうだっていい、自分が何を言っていても構わない」、と言うでしょうか(おそらくその方がスタイルとして首尾一貫しているとは思います。いいえ、ひょっとしたら首尾一貫している必要もないのでしょうか)。

結局のところ、こうした一連のフレーズは、その「破壊的」で「ジャンク」っぽい態度に反して自分たちの社会の成り立ちとか、人生とかを規定している歴史性や制度性についていっさい疑義を持っていません(〈外部〉に対する感覚が鈍いと言ってもよいでしょう)。より具体的に言えば、樋口さんはこのような権利を行使する近代的主体、つまり「個人」という単位を一切疑っていませんし、民主主義についても何の疑問も持っていないようなのです。

しかし、この当たり前の概念を、批判するにせよ肯定するにせよ、とにかく何らかの仕方で再考することなしに、いかにして「未来を破壊する」などという大それたことができるのでしょうか。未来を破壊する。だから何なのでしょうか。何が変わるのでしょうか。誰が何をどのように変えたい、あるいは変えたくないのでしょうか。何を守るべきで、何を変えるべきなのでしょうか。なぜこのような腰の引けた「微温的」な結論しか出ないのでしょうか。結果として、この「未来を破壊する」と題された「アジテーション」は読者をどうしたいのかも、なぜこの文章が書かれているのかもわからないものになってはいないでしょうか。それは、各々の思想的な立場の耳あたりのいい——「いま・ここ」の読者にとって耳あたりのいい——部分を切り貼りしているにすぎないからではないでしょうか。

「読むこと」と「その場しのぎの詐術」

「未来を創造」する様々な立場があるように、「未来を破壊」する様々な立場がありうるでしょう。それがマルクス主義なのか、アナーキズムなのか、国家主義なのか、保守主義なのか、リベラリズムなのか、加速主義なのか、それとも他の様々な立場なのかはわかりません。むろん、それぞれの思想がその理念とともに抱える諸々の問題があり、矛盾があり、絶対的で潔癖的な解決などはありません。不変の立場もありません。だから、私は何もわかりやすく「立場」を表明しろとか、いくつもの参考文献を使って学者的にまっとうな議論をせよとはまったく思いません。

とはいえ、「立場」は自分が決めなくても他人から「読まれ」て決定されもするわけですから、安易な否認によって立場から逃れることはできないわけです(だから私はこのように文章を書いています)。それに、「オルタナティブ」は、エモい文章で威嚇すればポンと出てくるようなものでないのは確かでしょう。

決断するなり、批判的な論考を組み立てるなり、折衷案を示すなり、その外部を目指すなり、その処理はどうだって構わないとして、なんにしても何か、先行するものに対する「誠実さ」が必要なのではないでしょうか。おそらくそこで初めて他者との対話が始まるでしょう。この徳(きわめて古びた言い方ですが…)こそ私が必要と感じるものです。だからこそ、読まなくてはなりません。この主張は樋口さんと共通したものです。

本を読め。/本は絶対に裏切らない。/本は絶対的にあなたの味方になってくれる。/本はやがてあなた自身になる。(同上、198頁)

しかし、すぐにまた違和感がにじんできます。「裏切らない」ような読書体験ばかりしている人が本当にいるのか、というかそれを読書体験と呼んでいいのか、私には疑問です。読むとはいかなることでしょうか。本を読むことは、ある問いを喚起する時点で、ある意味私の「敵」ですし、私の「他者」にほかならない、と私は思います。私は、自分の中に血肉化した様々なテクストに、いつでも他人めいた冷たさを感じます。テクストは確かに「道具箱」のようなものでもあり、私に武器を与えてくれますが、同時に、応答するべき「負債」を増やし、受苦を課し、自己分裂を促進するものでもある。それは不必要な選択肢を増やし、あるいは減らし、悩みや問題を、責任を、問いを私に投げかけます。それは「他者のような自己自身」であり、薬でも毒でもあるのです。

したがって、ただ「本を読め」などという、中学校の先生のようなお行儀のよろしい主張をするだけでは不十分です。ある意味では、本なんて読まなくていいのです。けれども、労働するとは何か、自由とは何か、成熟とは何か、自然とは何か、物を消費するとは何か、物を所有するとは何か、物とは何か、国家とは何か、個人とは何か、連帯とは何か、共同体とは何か、民主主義とは何か、私たちはどこから来てどこへ行くのか、「ただ普通に生きて普通に生きる」の「普通」とは何か、「生きる」とは何か、私たちはいかに生きるべきか、その根拠は、その条件は何なのか……。こうした問いなしに、「読むこと」なしに、「悦しき知識」なしに、言い換えれば、だるくて逃げたくなる「毒」なしに、言い換えれば、自分の思うがままにならない「他者」あるいは「裏切り」なしに、いかに「未来」を語ることができるのでしょうか。「理念」とは、「成熟」とは、何でしょうか。こうした問いのためにこそ、私たちは是非とも読まなくてはなりません。

このような問いは、もちろん無時間的・無空間的なままであることはなく、必然的に、「いま・ここ」から人間を引き剥がし、歴史へと誘います。「ここではないどこか」とは、いつか「電撃的に」到来するかもしれない神秘的な出来事の瞬間などではなく、未知と偶然性の貯蔵庫としての、あるいは「瓦礫」の集積としての、歴史のことでもあるのです。

したがって、諸々の語をきわめて抽象的に運用し、それぞれの読者の何となくの皮膚感覚の共感に訴えかけ、何か人生訓的な「それらしい言葉」によって細部を粉飾するこの文章に、「読むこと」の経験はありません。それは、フーコーやマーク・フィッシャーの場合のように〈外部〉に極限に迫っていき、そのギリギリの「侵犯」を描き出すような緊張感を持っていません。いくら吠えようと、この文章はその視野の狭さのゆえにたんに小さくまとまったところで「イキって」いるだけであり(私はこの言葉を好みませんが、作家である樋口さんが使っていたので、あえて使っています)、言うなれば「近視眼的」であって、「いま・ここ」との共犯の中だけを生きています。きわめて「現代的」なこの作家に「奇跡」が起きないのは、「奇跡」を見逃す鈍感な目しか持っていないからです。「裏切り」に出会ったことがないからです。〈外部〉を単に知らないし、知ろうともしていないから「未来を創ること」も「未来を破壊すること」もできないのです。

それを私は「その場しのぎの詐術」と呼びました。私はこの、量産された、「無限に書ける」文章に対して、それ以外に投げかけるべき言葉を知りません。しかし、「私たちは何の役にも立たない。/そんなことは知ったことではない」とか「誰からの理解も求めるな」とか「こんな文章をまともに読むな」とか言っている以上、このキャッチフレーズは、もちろん樋口さんの機嫌を損ねるものではないはずでしょう。

さて、最後になりますが、「この文章はアジテーション的に書かれているのだから、そのような細かい話をするわけがない、このような文章があってもよい」というありうる擁護にも応答しておきましょう。いえ、もちろん、私が認めるまでもなくこのような文章があっていっこう構わないし、様々な読者を勇気づけているならそれでよいわけです。しかしそもそも「アジテーション」とは何でしょうか。もう長くなってしまったこの論考の中で、この問いにすぐには答えられません。例えば、次のような「具体例」を引き合いに出すことで、問いに暫定的に答えましょう。その是非は措くとして、この短いテクストには、「未来を破壊する」ために、きわめて「具体的」に、何が問題で、何を誰がどのように打倒すべきかが、短く、歯切れのいい文章でまとめられており、だからこそ暴力的なまでに人々を駆り立てたのでした。私が肯定したいのは、この末尾の「命令形」にみられる、爽快さ軽やかさなのです。

共産主義者は、自分の見解や意図を秘密にすることを軽べつする。共産主義者たちは、これまでのいっさいの社会秩序を強力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命のまえにおののくがいい。プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である。/万国のプロレタリア団結せよ!(マルクス・エンゲルス『共産党宣言』岩波文庫版97、98頁)

おわりに

私がここで書いたのは批判ではありません。というのも、全面的な解決が存在しない以上「その場しのぎの詐術」が悪だとは言えないし、なにより、原理的には「その場しのぎの詐術」ではない文章など存在しないからです。しかし、結論というよりも、その結論に至るプロセスの緊張感こそが「論考」に求められているものだと私は思っています。少しでも長持ちする「詐術」が必要なのです。

最後に軽く私の話をしておきます。まずスタイルの問題ですが、私は文筆家ではありませんし、有限的な存在者であって、「無限に書く」ことなどできないので、まれにしか文章を書くことができませんが、そういう際に私は、ある程度長い文章を読む意志を読者に要求します。読者に一つだけ要求するのは、ぜひとも、「まともに読め」です。その命令が守られるかどうかは知ったことではありません。

私自身は、既に述べた「完全な単独者でも完全な群れでもなく、そのあいだを不気味に行ったり来たりしている」この往還こそが、語るべきものだと思っています。つまり、個人と世界のあいだ、特異性と普遍性のあいだ、あるいは私的領域と公共的領域のあいだの絡み合いをうまく言語化することが、私の関心です(ただし、どうせこうした関心は変容します)。それを「ディストピア」だとか〈脱出〉だとかいう悲観的で神秘的なモチーフで語ってしまうことは、どこか重要な問題を取りこぼす気がしてなりませんし、ものたりなさを感じます。しかしこの問題は、ある意味では「現代的」な思想全般に感じるものでもあるわけです。

こうした局面で私の立場はきわめて保守的で反動的かもしれないし、逆に常識的で凡庸なものでもあるでしょう(それに、私自身がそこまで「歴史」に精通しているかといえば、そんなことはなく、毎日力不足を痛感するばかりです)。確かに、「いま・ここ」ですぐに人にものを伝えるためには、コンテクストは非常に邪魔なものです。だからこそ、史的強度をエンターテイメントにするような文体を練り上げ、発明することが必要なのだろうと思います。

歴史に開かれた文体で書くこと。それは公然として堂々として、歯切れよく、爽やかであることとおそらくは矛盾しない。そのようなスタイルによってこそ、いま当然とされている価値を疑うことが、「生」を作り替える実践と実験を促進することができるのではないでしょうか。おそらくはその先に、「今よりはまともな世界」があるはずなのだと、私は信じています。

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