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2023年『週刊読書人』論壇時評まとめ

2023年に『週刊読書人』で一年間論壇時評「論潮」欄(月一連載)を担当しました。ここではそれを一覧にまとめるとともに、簡単な紹介・短い雑感を書いておきたいと思います。

時評掲載号はウェブ上から購入することができますが、会員登録することで無料で読むこともできます(2024年1月1日現在、10月分まで無料公開)。

ちなみに、各論考の見出し(タイトル)は大体『読書人』編集部に考えてもらったものです。あまり内容にそぐうものではないなと感じた場合にはこちらから提案した場合もありますが、それもいくつか案を投げて選んでもらう形にしていました。

一月:論壇の未来に期待するもの

論壇の未来に期待するもの——距離感の回復
2023年1月14日

2022年総括系の特集を元手に、「革命派」と「ケア派」(?)の対立を論じています。第一回目を書くにあたって、これまでの論壇時評の歴史を調べて書きましたが、今更「論壇」など論じられるのかという不安と戸惑いが出ている回かと思います。

必要なのは、実存が政治へとつながる別の回路を発明し、実存の強度を肯定する革命的かつ批評的な実践である(…)。いずれにせよ、彼らが知らないのは、出来事に対する距離の取り方だと私は思う。

言及した雑誌・メディア

  • 『現代思想』2022年12月号「特集=就職氷河期世代/ロスジェネの現在」

  • 『表現者クライテリオン』2023年1月号「特集=反転の年」

二月:公共空間そのものの原理的な可能性

公共空間そのものの原理的な可能性——岡崎乾二郎作品撤去騒動をめぐって
2023年2月3日

ファーレ立川の岡崎乾二郎作品撤去騒動について書いたものです。このために初めて立川まで行き、図書館で資料を見た記憶があります(ファーレ立川はけっこう面白いので行ったことない人は是非)。
論理的に考えればもちろん作品残存の方が正しく、撤去を一方的に決めた高島屋が暴力的なのは間違いありません(のちに撤去は撤回)。
他方で、「公共」という言葉そのものがうまく機能していない現状では、「公共」のために作品を残そうという美術評論家連盟のロジックがどうしても空虚なものになってしまうのではないか、という点を砂川闘争からの流れを振り返りつつ書いています。かつて立川で起きた砂川闘争が「土地」というきわめてナショナリスティックな足場を持っていたのに対し(岡崎作品は当然それを踏まえています)、「公共」と言うための足場がリベラルにはないのではないか。具体的にいえば、土地所有というきわめて資本主義的な問題が、なにかアート批評系の語彙でごまかされている気がするのです。岡崎擁護の批評はその辺りがヌルいし、なんだかうやむやにされているといまだに思っています。(それは何より、岡崎自身の論理的な能力に批評が負けてしまうからかもしれません。)

 公共空間は、その「所有」につねに左右されざるをえない。この脆弱さのゆえに、「公共」と「私的所有」をめぐる同じような問題が、今後何度でも起き続けるだろう。公共空間がナショナリズムを切断する仕方で成立するのにもかかわらず、そのリベラルな空間を維持しようとする私たちは、結局、文化保護とか「精神的基盤」とかいう、ナショナリズムをパロディしたかのような論理を行使するしかない。言い換えれば、私たちは今のところ、その空間の所有者=「父」の決定に左右される場所(「家」)で、分け前の「再分配」を願う不安な「子ども」としてふるまうほかない。私たちが今のところ期待しうるのはこの「子ども」のしたたかなずる賢さだけなのかもしれない。

言及した雑誌・メディア

  • 『美術手帖』Web版

  • 『群像』2023年1月号

三月:はたして私たちは目覚めているか

はたして私たちは目覚めているか——「真の弱者」争いが持つナンセンスさ
2023年3月10日

成田悠輔の「高齢者自決」発言、話題になった伊藤昌亮「ひろゆき論」などを取り上げつつ、オルタナ右翼によるwokism冷笑のロジックを分析した回です。woke(意識高い系、お目覚めなどと訳される)は空虚なアイデンティティポリティクスを振りかざすリベラルを揶揄する言葉であり、日本でも徐々に定着しつつあります。今後もその冷笑は加速するでしょう。
この論考では、必要なのは徹底的にwokismに立つこと、wokism以上に「目覚める」ことだと隠喩的に書きました。「逆張り」がよく取り沙汰される時代ですが、かと言って過去の逆張りを反省してまっとうな戦後民主主義だという立場も何かしら空疎に見えてしょうがない。私たちが多分知らないのは「正しいひねくれ方」なのでしょう(この点は一年間通して一貫して書いていたかもしれない)。

その争いは、(…)「誰が真に救われるべき弱者なのか」、「どちらが真の反体制なのか」をめぐる歪んだ闘争となる。この共犯的な堂々巡りにおいては、より敗北した方が勝ちであるかのようだ。

言及した雑誌・メディア

  • 『現代思想』2023年2月号「特集=〈投資〉の時代」

  • 『世界』2023年3月号

四月:入門書の時代における欲望と戦略

入門書の時代における欲望と戦略——画一的なリズムに抗するデリダのスタイル
2023年4月7日

今年読書人より出した自分の関わっている本(『ジャック・デリダ「差延」を読む』)のいわば宣伝回です。
正直にいうとこの時期は時間があまりにもなく、自分の本の話をするしかありませんでしたが、「入門書の時代」というものに懐疑的な自分の態度がよく出ているものではあると思います。
この辺りから、論考を書くのにかかる時間の管理等のノウハウが身についてきており、良くも悪しくも徐々に時評のパターンが出来上がってきた気がします(時評というものはその特性上そういうものなのです)。

強いていうなら私は、私自身の読解のリズムをひとつのサンプルとして示しただけである(…)。あとは読者がそれぞれのリズムにおいて、「攻略」の方法を発見しなければならない。方法(method)は、道(hodos)を語源のひとつに持つ。安全な「方法」などない。それは迷宮のただなかでそのつど切り開かれるものである。

言及した雑誌・メディア

  • 『文藝春秋』2023年4月号

五月:始まる近代文学の「その後」

始まる近代文学の「その後」——無時間性を突破する大江の反復・自己言及
2023年5月12日

三月に亡くなった大江健三郎の死を受けて書いた時評です。柄谷行人も蓮實重彦も何かしらの時代の終わりを大江の死に読み取っていますが、とくに柄谷の場合これは典型的に繰り返している論点です。そこで、かつての柄谷が大江と中上健次を論じながら宣言した「近代文学の終焉」論を引きつつ、大江の文学はむしろその「終わりの後」にこそ定位していたのではないか、という論旨で批評を書きました。今年書いたものではもっとも「文芸批評」に寄せたものになったと思います。
そういう僕の読解はともかく、時評として各文芸誌の大江特集を取り上げています。そこで書き手が被りまくっているのをわざわざ数えて指摘していたりして何かタチが悪いなと今見ると思いますが、やはりここで何度も登場する固有名こそが現在の「文壇」を形作っているものなのだなあと思います。

大江は、あるひとつの「終わり」を変容させ、到底美化しえぬ「終わりのその後」に向かって開きつづけた。たとえば「最後の小説」(一九八八年)には、「「最後の小説」をついに達成することがあるとして、さてその後どうするか?」(強調引用者)という自問が見られる。ゆえに「いまこそ大江健三郎を読むことが始まらねば」ならないのだ。なぜなら、「一つの時代」の「終わり」あるいは「「近代文学」の終焉」を前にして始まるものは、まさにその「終わりのその後」についての思考だからである。

言及した雑誌・メディア

  • 『群像』2023年5月号

  • 『文學界』2023年5月号

  • 『新潮』2023年5月号

  • 『すばる』2023年5月号

六月:消費される人文学のおまつり

消費される人文学のおまつり——批評の変動が提起する場所論的問題
2023年6月9日

人文書院の企画「じんぶんのしんじん」と文フリブームを取り上げたもので、大手文芸誌が批評をネグレクトしているので批評の場所はその他の場所に移り勝手に育ちつつあるよ、みたいな話です。
しかし他方でそういうインディペンデントの弱さは持続力です。「やっている」から偉い的な話ではなく(むしろ今なら誰でも同人誌は作れるのだから)、何か別のシーンに繋ぎつつムーブメントを盛り上げていくような形でなければ、ブームはブームで終わってしまう。だから私たちは「ブーム」扱いしてくるメディアにも多少の警戒を持つべきでしょう。あと、インターネット上で見ていると見えづらいですが、文フリも結局は東京で盛り上がっているのであり、批評の場所論的な問題もここには存在しています。

それはほとんど「オフ会」のようなもの、もっと極端にいえば「ご近所付き合い」のようなものである。そこではメッセージの内容ではなく、誰々がこういう本を書いている(それを私は知っている)というタグ付けとメタ・メッセージのみが流通している。一過性の祝祭のなかで売れた・売れない、ネットで話題になった・ならない、ビュー数が多い・少ないという指標で満足しているかぎり、批評はたんに「ご近所付き合い」に堕してしまう。

言及した雑誌・メディア

  • 人文書院Note「じんぶんのしんじん」「批評の座標——批評の地勢図を引き直す」

  • 『東京新聞』5月18日

  • 『中央公論』2023年6月号(特集「東京再膨張 なぜ地方では生きられないのか」)

七月:可視化と知/無知を問う

可視化と知/無知を問う——本年上半期の論壇時評を振り返りながら
2023年7月7日

途中の総括みたいな回です。『群像』の批評特集「「論」の遠近法」に掲載された批評と、これまでの時評で関係しそうなものをピックアップしてみました。後半では『現代思想』のアグノトロジー特集を扱っています。

言及した雑誌・メディア

  • 『現代思想』2023年6月号「無知学/アグノトロジーとは何か」

  • 『群像』2023年7月号

八月:卓越した「時評家」を知らせるドキュメント

卓越した「時評家」を知らせるドキュメント——『絓秀実コレクション』全二巻に思うこと
2023年8月11日

『絓秀実コレクション』全二巻についての記事です。時評で雑誌でもない一冊の本を取り上げるというのはかなり反則技なのですが、明らかに「論壇」にとっても最も重要な本なのだから取り上げるほかない、というイデオロギーで取り上げました。
批評家・絓秀実のテクストで、現在手に入りづらいものも含めて読めるようになったのは画期的ですが、他方で『小説的強度』や『「超」言葉狩り宣言』の対談部分などは収録されていませんので、それを補う形で紹介することとし、かつ絓批評の影響を受けた若手批評家(ここでは綿野恵太、住本麻子、韻踏み夫)たちの仕事を紹介することにしました。
この時評は、批評家の鎌田哲哉の書評と同時掲載となったことで多少話題になりました(こちらについては8月11日号を購入して読んでください)。こういうことは読書人編集部からはいっさい知らされないので出版のタイミングでようやく知るわけですが、鎌田の辛口の絓批評に対して私の批評が微温的ではないかという批判(あるいは「若手で仲良くやってんじゃねーよ」的な誹謗)も受けました。
いまさら多少の弁解をしておきましょう。別の機会なら、僕の絓批評に対する批判点をいくらでも書いてもいいわけですが(絓マニアに向けて書いておくと、僕はラカン−ジジェクに則った分析に比重を移し始めた絓秀実はそれほど評価していません。時評で取り上げたのも概ね90年代前半までの絓秀実です)、これは別に批評オタクあるいは左翼諸党派に向けた通達文じゃなくて時評なんだし、とにかく読まれるべき本には違いないわけで、それを肯定的なかたちで紹介して何が悪いのか僕にはよくわかりません。批評家は上の世代を批判して乗り越えるべき、みたいなオイディプス神話なんでしょうか。
そもそも、鎌田の明らかに網目の荒い雑な批評を有り難がる読者がいるということ自体が僕にとっては驚きです。鎌田のスタイルの難点は、「嫌いなヤツが同じ」というネガティブな点でしか読者との関係を築けないことにあると僕は思っていて——絓秀実の批評も多少その問題を含んでいるわけですが——、鎌田の文章がこうしてごく稀に出てきたとしても本質的にそれ自体を喜んでいる読者はほとんどいないのではないでしょうか。
そりゃ、すべてを攻撃しつつ仕事を何もせず引きこもっていれば「一貫した問題意識」だの「倫理的批評」だのの褒め言葉はすぐ言えるでしょうけど、そんな悪しきマイナー主義に批評はなく、むしろ実践のうちに原理が汚染される点をいかに引き受ける/引き受けないかが批評の第一条件のはずでしょう。
もちろん、鎌田的な嫌味が一種の爽快感を持っていることは僕も否定しませんが、その爽快感で「いっちゃう」人は、たとえば僕が同世代の批評家あるいは絓本人に対して微妙な留保をつけながら書いていることについては読み飛ばしているのですね。「「読み飛ばす」という技術」(©︎金井美恵子)ですね、筒井康隆的な。

「絓」というペンネームは「蚕が繭をつくるときの粗末なくず糸」に由来するらしいが、(…)「絓」という「くず」は、国家と資本の結託する現代社会で、スムーズな「変換」/「交換」を妨害するひとつの文字化け=ノイズとして機能し続けているのである。

言及した雑誌・メディア

  • 人文書院Note「じんぶんのしんじん」「批評の座標——批評の地勢図を引き直す」

  • 『ユリイカ』2023年7月号「特集=大江健三郎」

九月:「表象文化論の批評性」とは何か

「表象文化論の批評性」とは何か——「批評」と「クリティーク」の差異
2023年9月8日

たまにはこういうのもアリかと思って表象文化論学会編『表象』を取り上げました。特集は「表象文化論の批評性」で、石岡良治・入江哲郎・清水知子・橋本一径による対談にスポットライトを当てています。批判点を一言で言えば「批評」/「クリティーク」という言葉自体がこの雑誌のなかでさまざまな営為をいい感じでまとめ上げる一種のジャーゴンとして機能していて、何を指すのかよくわからないということです。
それに加え、『週刊読書人』2023年8月18日号特集「田中秀臣×栗原裕一郎トークイベント 〈不寛容な時代に抗う言論は〉」に対する批判(および『読書人』編集部への苦情)も付論という形で加えました。わかりやすいトランスヘイト系の内容で「炎上」した対談ですが、9月8日号では誌面上では水上文によるこの対談への批判も掲載されていて、はからずも8月と同様に誌面全体で議論が交わされているようになったと思います。

「ポスト・クリティーク」という語で何かを嘆くひとを見るたび何か胡散臭くを感じるのは、そこで「クリティーク」と言われているものが何なのかまだ私にはよくわかっていないからだ。いま、「批評」という語は、互いに全く異なる営為を、何かあいまいな普遍性のもとに翻訳させ妥協させるジャーゴンと化していないだろうか。ベンヤミンやデリダがいうように、そのような「翻訳」の抑圧的な効果にこそ抵抗しなければならない。

言及した雑誌・メディア

  • 表象文化論学会編『表象』17号(月曜社)

  • 『週刊読書人』2023年8月18日号

十月:誰もが表現を「試みている」時代に

誰もが表現を「試みている」時代に——表現の「ポピュリズム」を考える
2023年10月6日

9月から開始した不定期連載をきっかけとして、表現の「ポピュリズム」について考えた回です。理論編に対する実践編とでも言えるかもしれません。特に仮想敵になっていたのは『文學界』九月号の特集「エッセイが読みたい」(とりわけ「文学フリマでエッセイを買う!」特集)です。
六月の時評とも相関しますが、現代はあらゆる表現行為のハードルが(技術的・メディア的さまざまな水準で)下がっている時期であり、全体として「インディーズ・ブーム」といえるでしょう。というより正確に言えば、諸論壇誌なり諸学会なりの大文字の「権威」の力が大変弱くなっているので、何かを評価する基準が雲散霧消し、「メジャー」と「インディーズ」の差異がほとんど意味をなさなくなっているのが現在の時代環境なのです。最近も査読をめぐって論争がありましたが、これもこの環境に由来したものでしょう。現代において、「クオリティを透明に評価しうる基準」というものに対する不信感(=反権威主義)はかなり根強いものです。
記事内でも書いたように、そういう反権威主義が持っている解放の力というものももちろんあり、今更古い「権威」を復活させることなど望むべきでもありません(そして実際、党派を逃れた「クオリティを透明に評価しうる基準」など厳密には存在しないわけです)。
しかし他方でユートピアは存在しないわけですから、この時代固有の問題もあるわけですね。とにかく誰もが何かを発信しまくりウケたらそれでいい、それぞれの自己表現はとにかく尊重されるべきだ、上から目線で批評してんじゃねえ、みたいな状況が意味しているのは、結局、質的な差異に量的な差異がとって代わったということです。ある表現の質はビュー数によってのみ計算され、表現者は誰でも「インフルエンサー」に書き換えられていく。
それをこの記事内では「誰もが表現を試みている時代=「エッセイの時代」」とか「ワナビー資本主義」とか呼んでみました。そういうレベルとは別で、何かを試行し、何かを実験することとしての「エッセイ」の可能性があると僕は信じているのですが、これは記事内で書けなかったことでした。

私は一部の作家や批評家や業界誌が発言と表現の権利を独占していた時代に戻るべきだとは思っていない。だからこのような芸術と批評のエッセイ化(=ポピュリズム)を一面的に批判しうるとも思わない(私だって同人誌くらい出している)。だが、かといって私は「表現」が無条件に尊いものだなどとまったく思わないし、みなが誰でも内面を「自己表現」しうる「一億総活躍社会」的状況を「自由」とみなせるほどにはリベラルあるいはネオリベラルではない。

言及した雑誌・メディア

  • 『情況』2023年夏号

  • 『文學界』2023年9月号

  • 堀之内出版ブログ

  • TOKYO ART BEAT

十一月:それでもなお「人間」と言うために

それでもなお「人間」と言うために——ガザから連帯の倫理を考える
2023年11月10日

一〇月から始まったガザの空爆と虐殺について書いたものです。なるべく当時出ている情報を多くまとめて紹介することを第一とした結果、登場する固有名がこれまでで最も多くなった気がします。
そのなかで特に焦点化するのは、ガザとの「連帯」をどういう倫理ないし理論で立ち上げるかというものでした。とりわけ岡真里は——アクティヴィストとしては彼女の速度と行動力はとてつもないものだと驚嘆しますが——「人間」として虐殺にNOを突きつけよう、と極めて強烈なトーンで主張している。事実、私たちは皆そのような責任感や倫理をもつべきだと思うし、各自、自分なりにできる行動を模索すべきです。例えば岡(並びに早尾貴紀など)が行っている歴史的な啓蒙も、今ありうべき最善の行為だと思います。
他方で岡はイベントの記録の中で、その連帯を『聖書』を用いつつ、兄弟愛および隣人愛として説明している箇所がある。このことは同じ宗教的ルーツを持ち一神教的世界観を共有するイスラエルとパレスチナのあいだなら、ギリギリ可能と言えるのかもしれませんが、それ以外ではどうなのか。より大きな問題は、そもそも宗教的・文化的・政治的な背景が異なる者同士を「人間」という最も大きな主語を基礎として包摂することができるのか、その中で私たちはパレスチナに対する「同胞」的意識を持ちうるのか、という点にあるのではないのでしょうか。今世界中で起きている紛争や戦争を見るに、もはや「人間」という概念自体が土台として機能せず、文化ごとに大きく異なってしまうことの方が深刻ではないだろうか。そこで「人間として」というかなり大きなコスモポリタン的主語で語ることは、むしろ虐殺に対してとりうる距離の差異を曖昧にしてしまうのではないか。一見疑う余地のないほど正しい人間主義を別の仕方で考え直す営為こそ必要なのです(心残りだったのはこの論考の中でサイードの名前を出せなかったことです)。
正直言って僕自身もこの点になにか結論が出せたとは思っておらず、この点は紛争が続く限り考え続けるべき課題となるでしょう。

人間は、すべての他者に対して責任を果たすことはできない。だが、私はこのことから連帯や行動を否定したいのでも、「ポスト・ヒューマン」という阿呆なお題目を掲げたいのでもない。むしろ、いかなる「当事者」であれ、徹底的に他者としての「当事者」からは隔たれているというこのむごたらしい隔絶、この距離を一種の「人間の条件」として、しかしそれでもなお連帯を作り出す方途を模索すべきだと主張しているのである。

言及した雑誌・メディア

十二月:何度目かのマルクス解体?

何度目かのマルクス解体?——いまマルクスは何色か
2023年12月8日

十月に引き続き、一冊の本を対象とした時評二回目です。こちらは斎藤幸平『マルクス解体』およびそれについてのインタビューを対象としました。『新MEGA』の刊行を通じて晩期マルクスの可能性が浮上している昨今ですが、斎藤幸平は佐々木隆治と合わせてそうした論点の最先端にいるとみなされています。とりわけ「脱成長コミュニズム」という主張は、マルクスの中にエコロジーの可能性を見出したとして評価されています。
大きな流れとしては、「革命」を中心としたマルクス読解から、「アソシエーション」を中心とした(アナキズムと親和性を持つ)読解へのシフトこそがおそらく決定的であって、実はエコロジーという論点はそのバリエーションではないか、とすら思います(緑のマルクスは黒いマルクスでもある)。私個人としては、マルクスにアナキズムやらエコロジーやらの可能性があったとして何なのかと思ってしまいますが。
『マルクス解体』の一元論批判(アクターネットワーク批判、加速主義批判)には頷ける部分もありましたが、その代わりに斎藤が持ち出すのは人間と自然の二元論(ヒューマニズム)といった具合で、結局ここでも左派は「人間」というほかないのか、と——この論点は十一月の記事にも関連しますが——思いました。おそらくこの一年通して僕が繰り返し書いたのは、左派が今運動のための有効な原理を持ち合わせていないこと、その脆弱さだったのでしょう。時評でできることはとりあえずここまでです。

このように、近年左派によってマルクス主義の代わりに信奉されてきた諸思想の源泉が実は晩期マルクスにあり、現代にこそその真の姿が明らかになったという――それ自体「進歩主義的」で「目的論的」な――物語に違和感を覚えるのは私だけではないだろう。そもそもマルクスにエコロジーがあったところで何が嬉しいのか私にはわからない。だが同時に、斎藤に対する批判の多くが、粗雑な反動でしかないという事実も認めるべきだろう。

言及した雑誌・メディア
『群像』2023年12月

年末回顧:今追悼は可能か?

いま追悼は可能か?(年末回顧記事)
2023年12月22日

年末回顧を回顧するのも馬鹿らしいのですが、この一年はとにかく人が死んだ一年で、メディアは知識人の追悼にかなりの紙面を割いてきました。しかしその追悼が遺産継承を通じて何かの可能性を開くものなのか、単に華やかなりし時代へのノスタルジーなのかはきわめて微妙だったと言わざるをえないでしょう。今後の情報環境のなかで歴史がすべてがのっぺりとした情報と化し、順列組み合わせで好き放題に消費できるものになっていくのだとすれば、それこそが「歴史の終わり」、時評の終わりを意味するものです(例として『週刊少年チャンピオン』に掲載された手塚治虫「ブラック・ジャック」の「新作」を挙げました。最後に『チャンピオン』というのもなんか笑えますが)。
結局、今人文学の課題は、現代を支配する一種の「アップデート主義」を反省し、歴史との関係を改めて作り直すことなのかもしれません。それは一月の時評でも「距離感の回復」の必要性として主張したことですが、それは今後の仕事で示すことができればと思います。ではまた。

言及した雑誌・メディア
『週刊少年チャンピオン』2023年12月22日


森脇透青

1995年大阪生まれ、京都大学文学研究科博士課程所属。批評家。専門はジャック・デリダを中心とした哲学および美学(学術振興会特別研究員DC2)。批評のための運動体「近代体操」主宰。著書(共著)に『ジャック・デリダ「差延」を読む』(読書人、2023年)。@satodex

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