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細井平洲ゆかりの地を訪ねて【前編】

細井平洲ゆかりの地、愛知県東海市に先日ふらっと行ってきました。

日々あれこれあるにせよ、週末は別の時間の過ごし方もありかなと思い、「そうだ、平洲先生に会いにこう」と思い立ち、平洲記念館を訪問。
改めて細井平洲の生き様をその地で感じてきました。

細井平洲は江戸時代の儒学者で、上杉鷹山の師でもあります。

上杉鷹山の仁愛と、そして勇をもって断固たる藩政改革を行った精神を作り上げたのは、細井平洲の教えと言われています。

細井平洲の生き方を知ることで、より上杉鷹山を理解できる感じがします。

昨年、山形県米沢市の上杉鷹山ゆかりの地を訪ねる旅をしてきましたので、機会があれば、今度は鷹山の先生の細井平洲ゆかりの地を訪ねてみようと、以前から思っていました。

細井平洲は、享保13年(1728年)、尾張国知多郡平島村(愛知県東海市)に生まれ。

幼年時代から学問に励み、名古屋、京都で遊学の後、17歳で中西淡淵に師事。師の勧めにより24歳で江戸へ出て、私塾を開き多くの人材を育てるとともに、学者としても知られることに。

明和元年(1764)、平洲37歳のとき、米沢藩(山形県)の藩主となる当時14歳の上杉治憲(のちに鷹山)の師として迎えられ、平洲は全力を注いで教育にあたる。

治憲(鷹山)はその教えをしっかり守り、あの米沢藩の再建を進めていく。名君とうたわれた鷹山と平洲の師弟の交わりは終生続きました。

細井平洲の言葉には味わ深い、実践的な言葉が多いです。

〇「学・思・行相須(がく・し・こうあいま)って良(りょう)となす」

(学問と思索と実行が3つそろって、はじめて学問をしたということができる)

細井平洲記念館展示

〇「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何(なに)をもって行わんや」

細井平洲が米沢藩主・上杉鷹山の初のお国入りに際して、与えたことば。(「これから立ち向かうわんとする藩政改革にあたって最も必要なのは勇気ですよ。勇気なくして、どうして政治が施せましょうか」)

尾張藩に仕えていた細井平洲は、寛政8年(1796)、69歳のときに招かれて米沢を訪れ、鷹山公(46歳)と再会しました。そのときを記念しての『対面の像』が、名鉄常滑線の太田川駅に置かれています。この像にも会いに行ってきました。

太田川駅の東海市芸術劇場入口付近にある像。
その記念碑の一字が「勇」となっています。

そして、おなじ像が二人が再開を果たした米沢市の普門院にも『敬師の像』として建てられています。こちらは昨年米沢市に行ったときに会ってきました。

尾張藩(愛知)と米沢藩(山形)。江戸時代と現在とでは交通事情が全く違う状況下で、69歳の細井平洲は米沢藩の上杉鷹山を訪ねて行く。そして上杉鷹山は最大級の対応を以て師をお迎えする。

このような師弟関係、人間関係の濃さはなかなか無いなと思いつつ、羨ましい感じもしています。

こちらは米沢市の普門院に建てられた再会の像。

米沢市の普門院に設置されている再会の像
こちらは「敬」の一字。

また、細井平洲は18歳のとき、中西淡淵の勧めを受け、中国語を会得して詩文学を大成するために長崎も遊学しており、水墨画や漢詩等も作っています。

儒学だけではなく、幅広い中国古典文化を含めての素養があっての上杉鷹山の教えてあったような気がします。

平洲記念館展示

 夏景山水画
  雲に坐して詩得て就る
  水声興また清し
  塵埃すべて至らず
  各自幽情足る
  
  雲のうえにすわったような気分の中で詩を作り出した。
  流れる水の音の感じも、とても清らかだ。
  ここには俗世間のちりもほこりもなく、
  それぞれ静かな心持に満ちている。

細井平洲筆

そして、平洲記念館で思わず立ち止まり、相当な時間ずっと平洲先生直筆の書と対面してしたったのがこちら。

平洲記念館展示

『忠信もて 波濤を渉れ』
 真心をもって大波を超えて生きなさい

細井平洲筆 五字一行書

この書は、自分に対するメッセージとした場合、今の自分に置き換えると、何をすることなんだろうと、この書の前でずっと立ち眺めていました。
(午前中に平洲記念館に訪問したのですが、誰もいなくて記念館独り占めな感じで贅沢な時間を過ごさせて頂きました)

この言葉、気になって調べてみたら、「孔子家語」致思編に故事のようです。

忠信渉波濤
 孔子が衛から魯に帰る時、駕をとめて休息しながら河原を眺めていると、一人の男が水をくぐって渡るのを見た。孔子は驚いて「何か道術でもあるのか」と尋ねたところ、その男が「水に入る時は忠信を以て入り、出る時も中信に従って出る。身を波流にまかせて私心を用いないので安全に渡れるのだ」と答えたという。

「孔子家語」致想編

細井平洲が表したのこの書の言葉は、細井平洲の生き方の根本精神だったのではないか。そして上杉鷹山がそれを愚直に実践したことが米沢藩の改革の成功要因だったのではないかと思いました。






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