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ヨーロッパ世界における「光」の表現

以前行った「啓蒙」という語に関する調査の中で、その翻訳元であるドイツ語の「aufklärung」(フランス語:lumières、英語:enlightenment)の語義が「光で明るくする」であることを知った。

その際の調査結果とは別にして、個人的にではあるが、この語義には妙に惹きつけられるものを感じていた。というのも、「宗教的・神秘的な迷信などを排し、自らの知性および理性で物事を理解する」ことが、「光で明るくする」と表現されているのである。なんてオシャレでカッコいい発想なのだろうか。

そこで今回は、この「aufklärung」(英語の「enlightenment」はこれの翻訳語である)という表現のルーツを探ってみることにした。
ただし、先に言ってしまうと、この表現の初出や生まれた経緯を特定することはどうやら非常に困難である、というのが現時点での見解であり、今回の調査には明確でわかりやすいオチは付いていない。しかし、情報がそこそこ集まっていることに加えて、長期間にわたり続けてきたこのテーマの読書に一旦区切りをつけたい(というか、そろそろ別のことを考えたい)という個人的な事情もあり、ここで調査内容を簡単にまとめてみることにする。
そういうわけで、今回の内容はとりとめのない羅列に終始することが危惧されるが、それでも最後までお付き合いいただければ幸いである。

そもそも、「光」表現は当たり前のものだった?

資料や文献の調査を始めてまずわかったことは、そもそも、真理や知性を「光」の比喩で表現するのはヨーロッパ言語では古くからよく見られた手法であり、「aufklärung」(または「lumières」)の語義についても、どうやらネイティブの人々にとってはそれほど関心を引くものではないということである。
実際、「光」表現そのものについて言及している情報は極めて少なく、また、言及しているものについても裏付けが曖昧で、どうにも信憑性に欠けている。こういったことから、比喩としての「光」表現は啓蒙主義の時代に突然生まれたものではなく、古くから用いられ、もはや意に介されないほどにヨーロッパの人々に定着しているものと思われる。
これを示すために、ヨーロッパの文章における「光」表現の推移を以下にまとめてみることにする。

古代ギリシアの「光」

現存する最古の「光」表現は、古代ギリシア(約2500年前)のパルメニデス(前515頃~前445頃)のものと考えられている。
パルメニデスの教訓詩『自然について』では、日の乙女子たちに導かれた「私」が、知を授ける女神への道を「光」に向かって進み、そこで真理について学ぶ様子が表現されている。この教訓詩の哲学的意義については割愛するが、ここでの描写には「光」そのもの以外にもこれを想起させる表現がいくつか見られ、また、それらの対比となる「夜」の表現も用いられている。

その後、プラトン(前427~前347)は「太陽の比喩」と「洞窟の比喩」で「光」を用いた表現を行っている。その中でも今回の主旨に適しているのは「太陽の比喩」であり、プラトンの『国家』の中で、ソクラテスは、人が太陽による「光」を介して対象を見るように、善による知性を介して対象を知ると語っている。
この時代の文章で語られる善や真理などの用語は抽象的かつ多義的でつかみどころがなく、また、語り手によってニュアンスが異なる場合が多いことからも、門外漢には非常に理解の難しい概念と思われる。しかし、こうして太陽の「光」で例えられることでその役割が明らかになり、直観的に理解できるようになっている。プラトンが用いたこの比喩表現は西洋思想や哲学史上では定番として語り継がれているが、これが優れた表現であることは、ここで見た有用性からでも感じ取れるだろう。

人と光との日常的な関わりという側面で見ると、当然ながら、当時の人々は薪や油に火をつけた光源を使用していた。そんな時代だったからこそ、地平線から溢れ、深い夜の闇を払う太陽の光にはとてつもない崇敬が向けられており、それは現代の我々には想像がつかないほどのものだったのではないだろうか。
そして、その絶対的な太陽に当てはめられた真理や知性が、人類史の最初期の知識人たちにとってどれほど大きな存在であったかが、これらの言語表現からでもうかがい知ることができるだろう。

キリスト教時代の「光」

長く続く宗教の時代に移り変わると、「光」は神がもたらすものとなった。
『旧約聖書』の「創世記」の冒頭で、天地を創造した神は「光あれ。」と言い、混沌であった地で光と闇が分かれ、光が昼と呼ばれ、闇が夜と呼ばれることになった。
おそらくこれは地球上で最も有名な「光」表現であり、ユダヤ・キリスト・イスラム教を信仰する人々だけでなく、一神教への信仰心を持たない人々にとってもどことなく馴染みのあるイメージだと思われる。

古代ギリシアとキリスト教時代との思想の架け橋となっているプロティノス(205~270)は、自身のいくつかの論考で「光」表現を用いており、それは比喩であることもあれば、それ自体の性質について述べる場合もあり、または、知性的(超越的)な事物を感性的に語るための手段としている場合もある。
プロティノスが用いたこれらの表現からは、直観的な比喩としての役割だけではなく、「光」自体の機能性への関心の高まりも感じられる。

その後、聖職者として教導を行っていたアウグスティヌス(354~430)は、『教師論』などのいくつかの著作で「光」表現を用いている。それは、人が認識した事物の真偽の判定や真理の把握には、(神の真理・恩寵の)「光」で照らし出す必要があるという記述となっており、これはアウグスティヌスの「照明説」と呼ばれている。
人から教え伝えられたことの価値判断を神の「光」に委ねるというこの表現からは、神が絶対的な尺度であった、あるいはそうなりつつあった当時の価値観がうかがえるだろう。

また、さらに時代が下った後のトマス・アクィナス(1225~1274)もまた「光」の比喩を用いている。『神学大全』の論考では、空気に「光」が満ちているのは太陽がそれを発しているためであるように、被造物が存在できるのは神がそれを保っているためである、という表現が見られる。
また、トマス・アクィナスは光源や光線、輝きなどを区別しており、さらには、物理的とまではいかないが、それら自体の性質についての考察も13世紀の時点で行っていることが特徴的である。

「神々しい」という日本語表現からも連想できるように、神に関連付けられたこれらの「光」表現は、日本人である我々でも直観的に理解できる、自然な発想だと思われる。
ただ、上記の表現を見ていくと「光」と「光源」(つまり神)が明確に区別されているのが印象的であり、このことが、やはりこれらの「光」表現が聖書の記述に由来した発想であることの裏付けと言えるかもしれない。
(日本語話者の発想では、あえて「光源」について言及することは稀だと思われる。)

近世、そして啓蒙の「光」

キリスト教時代は抑圧的でもあったが、その間でも知識人たちによる自然科学の解明や、活動家たちによる宗教改革などが進み、そういった動きを経るうちに、人々は千年以上にわたって染みついてきた宗教的迷妄から少しずつ脱し始めていた。
近世に入り、特に、イギリスの経験主義や実証主義の思想の影響を色濃く受けたフランスの18世紀は「光明の時代」(Siècle des Lumières = Age of Enlightenment)と呼ばれており、それは人が自らの理性を用いて世界(および人間の社会)を解釈していく思想が広まった時代だった。

その啓蒙主義の中心地となったフランスでは、既に17世紀後半の文芸誌『Nouvelles de la République des Lettres』(文芸共和国便り)において、「先立つあらゆる時代は闇にほかならず、それに対して、今、我々は日々明るくなっていく時代を生きている」という文脈で、先述のキリスト教時代のようなニュアンスを含まない「éclairé」(明るくする、後の「啓蒙」の意味)の表現が現れている。
これが「啓蒙」的意味合いの「光」表現の初出であると断言することはできない。ただ、解放感に満ち溢れたこの表現からは、多少の仰々しさを覚えつつも、当時の知識人が抱いた新たな価値観への期待が感じ取れるだろう。

また、当時のフランスでは理性による事物の解釈の思想が広まると同時に、旧来の権威、つまり教会への批判の風潮も高まりを見せていた。
特に、ドゥニ・ディドロ(1713~1784)はかなり手厳しい言葉で教会を批判しており、彼の著作の『哲学断層 追補』では、自らの理性の行使を夜の森で蝋燭の火を持った状況に例えて、その火を消そうとたぶらかすのは神学者であると述べている。ここでは、上記文芸誌の表現によるイメージの浸透が感じられるとともに、キリスト教時代には「明るさ」を担っていた教会が、もはや「暗さ」の象徴となっていることが非常に興味深く思われる。

そして、この理性の行使の風潮がドイツ語圏で「aufklärung」と呼ばれるようになったのは18世紀後半のことであり、この言葉およびその思想について論じたのがプロイセンのイマヌエル・カント(1724~1804)である。カントは、『啓蒙とは何か』にて、人間は備えている理性を行使する勇気を持てない状態(未成年状態)にあるが、そういった状態を脱して自らの理性を行使していくことが「aufklärung」であると説いている。
そして最終的には、この「aufklärung」が大西祝によって「啓蒙」と和訳され、現代の我々が認識している意味での「啓蒙」が日本語として定着することになった。

結論

ヨーロッパにおける「光」表現の推移は以上のとおりである。もちろん、ここで紹介したものはあくまで一例に過ぎず、各時代の著作や文章には本稿で挙げたもの以外にも数多くの「光」表現が見られ、それらが歴史に埋もれてしまっていることは想像に難くないだろう。
先述したように、「aufklärung」(または「lumières」)の表現が生まれたことの決定的な背景を特定することは難しく、それは、古くから用いられてきた「光」のニュアンスが、ヨーロッパの人々の思想や発想にもはや疑いを抱かないほどに染み込んでいるためである、というのが現時点での結論となる。
ただ、「光」の担い手が時代ごとに異なっていることも確かであり、逆に言えば、「光」に込められた意味合いから、その各時代で重視された価値観を把握することもできるだろう。超越的なものだった「光」は、一神教の神に託され、そして人の手に渡った。現代までの人類の歴史と発展を思うと、なかなかドラマチックではないだろうか。

調査を終えて

「aufklärung」の起源を探るという目的で始めた調査だったが、なかなかわかりやすい結論が得られず、アウトプットが非常に苦しいものになってしまった、というのが今回の率直な感想である。私が行っているのは端的に言えばテーマを決めた読書であり、本格的なものには匹敵するべくもない、あくまで研究のまね事というつもりでこうした文章を書いているのだが、今回は特に、その研究という取り組みの難しさの一端を体験できたと思っている。
そもそも、言語の比喩表現の形成について論じているものがどうにも見つからず、そのことからも、身近に感じている事象を言語表現に落とし込むというのは、人間にとってはあまりにも自然すぎる営為なのかなぁと想像する次第である。

ただ、今回の調査を通じて、ヨーロッパの啓蒙主義についての理解度が格段に高まったことは間違いない。欧米の思想家たちの中では、「啓蒙」とは何だったのかというのは現代でも主要なテーマとなっており、様々な観点からの研究が行われている。
この啓蒙主義の拡大によって人類の社会的・技術的進歩が成し遂げられたというのは明白であるため、日本人にとっては、どちらかと言えば明るいイメージの歴史的事象と捉えられる場合が多いのではないだろうか。しかし、17~18世紀のヨーロッパの啓蒙主義と一括りにしても、実際には国や地域によってその様相は全く異なっており、また、教会の権威が弱まるにつれて別の社会的勢力による権威が生まれてしまうという側面もあった。さらには、それがフランス革命のような暴力的な動乱に結実してしまったという歴史的事実からも、この事象を肯定すべきかどうかについては、欧米の思想家たちも複雑な思いを抱いているようである。
やはり、こういった人間の社会的現象は紐解いてみれば複雑で、なおかつ白黒つかない事象で満ち溢れており、また、どういった観点または尺度で見るかによってもかなり様相が異なるものとなっている。そういったことを認識できたという点で、今回の調査もまた自分にとっては有意義なものだったと思っている。

【参考文献】
・山内志朗編『光の形而上学』慶應義塾大学言語文化研究所、2018年
・H.ブルーメンベルク著、生松敬三・熊田陽一郎訳『光の形而上学 真理のメタファーとしての光』朝日出版社、1977年
・内山勝年編『ソクラテス以前哲学者断片集 第Ⅱ分冊』岩波書店、1997年
・プラトン著、藤沢令夫訳『国家(下)』岩波書店、1979年
・ディドロ著、小場瀬卓三・平岡昇監修『ディドロ著作集 第1巻 哲学Ⅰ』法政大学出版局、1980年
・カント著、中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫、2006年
・ロイ・ポーター著、見市雅俊訳『啓蒙主義』岩波書店、2004年

【参考になった論文】
・龍野隆「アウグスティヌスの初期哲学的著作における教育思想:『教師論』に見られる「(初期)照明説」と「知」の伝達の問題を中心に」、哲學No.126、三田哲學會、2011年、p.129-154

【参考になったウェブサイト】
ウィキペディア「Aufklärung – Wikipedia」(英語翻訳で閲覧)
ウィキペディア「Siècle des Lumières – Wikipedia」(英語翻訳で閲覧)
ウィキペディア「Age of Enlightenment – Wikipedia」
David DiLaura「A Brief History of Lighting」 – OPTICS & PHOTONICS NEWS
Nancy Gonlin & April Nowell「A History of What We Do in the Dark」 – Pacific Standard

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