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ワールドエンドジャーニー(終末旅行)

『これが本当に東京だろうか…。』
何度も思ったことにまた沈んでいく。昼でも日輪は霞んでいる。雲は轟轟と流れ、目の前の嵐は止むことを知らないように思われる。無常というには、激しすぎる光景が延々と続いていた。海も陸も放射能と毒々しい化学物質に依然満たされ、生物の棲息を許さないようだった。どこまでも続く荒涼とした大地。生きているものの気配とてない。ただ砂嵐吹き荒れ、時折なにかの残骸が飛んでいく。かつての繁栄を忍ばせ、卒塔婆のような巨大なビルの群れが建つ。日を反射して輝いたであろう窓はとうの昔に朽ち、白茶けた色に全体がくすんでいる。生き物の姿はない。肉体をもった生き物は。
魂だけの存在となっても、しつこい汚れのようにこの地に執着するものだけがこの星に残っている。霊眼でみれば、黒い影のように彷徨う無数の群れがある。滅びから数十年経った今も、未だに彷徨う彼らは一体何を見ているのだろう?一様に暗い影である彼らは、この滅びの地に囁く。
『終わってしまった…。すべて終わってしまった。輝く文明も、麗しい文化も、ことごとく滅びてしまった。何故なんだ、何故?何故?』
『知っているのに、知らない。分かっているのに、分からない。ああ、このままならない心と言ったら!だのになぜ、生きている間に、生きているように生きなかったろう…。ああ、僕はいつまでこのような呟きを繰り返すのか?もう何十年もここにいるような気がする。』
憐れな魂たち!彼らは死んでいるのだが、それ以上に心が死んでいるのだ。滅びの星に、滅びに相応しい魂たちが住んでいる。彼らは執着していた。だが、それはこの地球の滅びに対してであり、それはある意味では立派なものであったろう。切ないほどこの地球を愛し、狂おしいほどに嘆いたのだから。彼らの嘆きが数十年続くのも無理のないことであった。人々は享楽に耽りにすぎ、愛欲を貪りにすぎ、権力を溺愛しすぎたのであった。おぼろげな理解は理解とはいえない。彼らはおぼろげにはそのことを理解した、また嘆いた。人類のカルマが重すぎて、来世に向かうことの苦難も億劫であった。それ故停滞した魂も多かった。全てが陰鬱な霧のようであり、荒々しい砂嵐であった。環境は彼ら魂を反映していたのだ。
滅びの星の廃墟、ある都市の高台の丘に、像があった。ある現代作家が幸福の王子を模して造ったものだった。像のメッキも剥がれ、宝石も無くなった今が本来の幸福の王子に似ているともいえた。だが、幸福のツバメは一体何処へ?
像の朽ち方は緩やかで、穏やかであった。彼は街を高台から見続けた。人々や街が滅びる前も、滅びの時も、滅びの後も。人々は滅びの前はよく王子を称えた。滅びの後は知らない。魂となって見上げたものもいるやもしれぬ。幸福の王子は孤独であった。朽ちるにまかせる定めが悲しかったのではない。人々の喧騒が懐かしく、無音以上に無音の砂嵐はひたすらな虚無を幸福の王子に感じさせたに違いない。滅びの星に、祈るような眼差しの、像があった。幸福の王子は実際祈ったかもしれない。その像は、魂が宿っていた。最初からかもしれない、そうでないかもしれない。人々は滅びたが、幸福の王子はまだ滅びが許されなかった。幸福とは罰だとでもいうのか、彼は滅びの星を見続けた。闇の砂嵐も、鮮烈な日差しの昼も。誰もいない、たまさかの神々しい朝日や、美しい夕焼けも。孤独があまりに過ぎると、幸福の王子は追憶に生きた。記憶に心を投じ、目の前の広場から彼を見上げた子どもたちや親子連れ、近く遠くの木々や、街の人々や、彼方の壮麗だった山々を思い出していた。寒暖の差が激しい、死の星にも雪は降ったが、吹雪の嵐であった。真っ暗な闇に吹雪く嵐は、情緒的とはとてもいえない。そんな時、王子はひたすら内面に沈潜し、クリスマスのゆっくりと降る美しい綿雪を思い出した。そんな時がどのくらい続いたことだろう?少なくとも、長い、長い時であったことは間違いない。幸福の王子の像は風化は進んでいたが、まだそこに立っていた。
深い、深いため息のようなものがどこからか聞こえ、虚空に吸い込まれて消えていった。幸福の成就の時が来た。音もなく幸福の王子は崩れた。いや、激しく雷鳴が響いて、激しく幸福の王子は崩れた。激しすぎて静寂にも似ていたのだ。悲しみ、怒り、やるせない数十年の思いにも似て、像は崩れた。幸福の王子は跡形も無くなった。激しい雷を見て、彷徨う亡霊たちが集まってくる。すると、どこからともなく歌が聴こえた。

花嫁は燃えてしまった 花婿は燃えてしまった
世界の終りの火に焼かれて
誰も嘆くものはいない 誰も悲しむものはいない
もう誰もいないから
いじめる者はいない いじめられる者もいない
虐げるものはいない 虐げられる者もいない
もう誰もかも燃えて消えてしまったから
花も咲かない 魚も泳がない 鳥も飛ばない
もう何もかも燃えてしまったから
終末のレクイエムを歌おう 朗らかに、悲しく、苦しく、鮮やかに
暗闇の世界に、響けよ 明けてもそこは暗い闇
楽の音は響く 虚無に吸い込まれていく
歌声は響く 虚無に吸い込まれていく
涙は果てしなく流れる 虚無に吸い込まれていく
誰もいない世界に、誰もいないこの地に、歌声が響いて
誰もいない空間に消えていく
光も闇も、善も悪も無い、終末の世界 虚無だけが支配する
レクイエムを歌おう 朗らかに、悲しく、苦しく、鮮やかに

亡霊たちは皆聴いた。ある者は『幸福の王子だ』という。またある者は『おかしな幻聴だ』と思った。けれども、その歌声には、あの幸福の王子の慈悲の眼差しが色濃くあった。優しく、余りにも優しく。悲しく、余りにも悲しい幸福の王子の悲哀があった。その誰を責めるでもない調べに、亡霊たちは皆泣いた。すると、多くの者たちは光に包まれ、すうっと何処へでもなく消えていった。
『何処へみんな消えてしまったのだろう?僕らは死んでしまったというのに。死んだらもう全部終わりだと思っていたけれど、僕はまだ存在している。けれど、多くの人が消えた。死んでもやっぱり終わりはあるんだろうか?ああ、ただ僕は悲しい。』
残された者の一人はそう思った。
『消えたのではない、彼らは彼岸へと赴いたのだ。』
そう言ったのは、幸福の王子だった。
『像が喋った!動いてるし!』
『その必要があるからね。』
今まで動かなかった像が生々しく見える。それは像という肉体から出たためだが、なんだか奇妙な感じがその者には感じられた。
『同じ魂同士じゃないか。君だって肉体はとうの昔に滅びただろう。』
『な、生々しいな…。君は粉々になった幸福の王子なの?』
『死んだ者は誰でも初めは戸惑う。生きていた時とあまり感覚が変わらないからね。けれど、君は肉体を捨ててしばらく経っているはずだ。もうそういうのは分かっているはずだけれど?』
『なんだか、受け入れがたい気がするな…。』
『まあ、そこの石にでも腰かけてゆっくり話そうじゃないか。何十年も立ちっぱなしだったから、少し座ってみたい気もするよ。ほら、どうだい。この終末の世界も心次第で悪くない。嵐の向こうに富士山が見える。大噴火の後ではすっかり美しい形も変わってしまったけれど、今の落ち着いた形も悪くないさ。』
『ご機嫌だな。こんな砂嵐、見栄えのするものじゃないし、死んでからの不愉快さにも慣れてきたところさ。』
『まあ、いいから座って不均整になった富士山でも眺めて。悪いことは言わない。』
幸福の王子は傍の石に座りぽんぽんと横を叩いた。渋々もう一人も座る。この人が立っていた台座の石だと思った。
噴火して形を変えた富士山は以前の美しい印象は消えていたが、普段着に着かえたとでもいったリラックスさと鷹揚さがあった。それでも、威厳を湛えた立ち姿は変わらなかったから、大したものだ。
『腐っても鯛、じゃない、噴火しても富士、だな。』
『そうそう。』
砂嵐で視界は悪かったが、肉眼で見るのとは違い、魂の存在たちには良く富士山が見えた。
『死んでから、久しぶりにゆっくり富士を見た気がする。』
『その時がやっと来たのだ。心に余裕がないと砂嵐ばかり見ることになる。色んなものがもう見えるのにね。』
『そうなのか。けれど、周りにいたみんなは何処に消えたろう?あんなに沢山いたのに、変な歌が聴こえて、みんないなくなってしまった。あなた知ってる?』
『勿論さ。あの歌は私が歌ったのだ。天国へ導くためにね。そして、今こうして君といるのは君を導くためだ。君は中々に頑固だ。歌くらいじゃどうにもならないね。』
幸福の王子は服の塵を払って立った。塵なんて付かないのだけれど。
『全ては自由意志のうちに、寛容になされる。けれども、君は私に付いてくるかい?』
『僕次第ってこと?』
『その通り。』
幸福の王子はにっこり笑って手を指し伸ばした。なんて笑顔!太陽が輝いているみたいだ。笑顔の明るさにはっとした。暗闇と砂嵐の世界を延々彷徨っていた心に、日が差した。
『うん、僕、付いていくよ。』
もう一人も服を払って立ち上がった。幸福の王子から差し出された手を取る。
『よろし。ではこの世への別れの挨拶に、この滅びの世を巡ろうではないか。まだこの世に未練があるのでしょう?それを断つために、しかと見届けましょう。君は別れの旅に、この終末の世界を巡るのだ。』
『まるでダンテの地獄巡りだな。でもいいさ、少し前向きになってきたよ。ここにこれ以上いても、良いことも無さそうだし。』
『ではダンテ、参りましょう。』
『名前ちゃんとあるんですけど!けど、ダンテだろうがなんだろうがいいや!』
終末の世界であっても、形を変えた富士山であっても彼、ダンテはもう怖くなかった。こうして、奇妙な二つの魂の、この世界への別れの旅が始まったのであった。

二人は富士山に向かうことにした。『辛い旅は短い方が良い』との王子の温情からだった。『最短距離を突っ切りましょう!』とのことであった。富士山は日本の霊峰、霊地であったことから、『頑固なダンテも浄化しやすい』とのことだった。性格への抗議をしつつ、そんなものかと同意する。富士山は黄泉の入り口と聞いたことがあったからだ。
ダンテは死んでから自身の無知に直面することが多かった。死ぬ前に知っていたら、と思うことはそれはそれは多い。死は終わりではなく始まりであったという事からしてそうだった。富士山へ思い付きで仲間たちと登山したこともある。見透かされたと思った。
『富士の麓の神社跡で禊をしましょう。大丈夫、カルマが返るのは一面幸せなことです。相応の報いはあっても、取り返しがないことが存在しないことですから。』
ダンテは生前の数々の過ちを一瞬で思い出した。まだ過ちであることが理解出来ないこともあると、なんとなく分かった。それは憂鬱なことであった。
『遠いけど、歩く…の?東京から?富士山まで?』
『遠いから歩くのです。なに、一瞬ですよ。』
『マジか。』
『マジです。』
王子から微笑みで言われ、ダンテはゾッとした。
『本当に、一瞬のことです。永遠の旅路に比べたら。地球の長かった苦難に比べたら。』
ダンテは天を仰ぐ。しかし、破滅した世界に乗り物があるとも思えなかった。肉体を捨ててから徒歩以外の移動手段も知らなかった。二人は歩いた。歩いた。歩きに歩いた。道すがら見るのは都市の残骸の、朽ち果てた姿。文明の痕跡がかろうじて風化に抗っている姿であった。
『これが本当に東京だろうか…。日本だろうか…。』何度も思ったことにまた沈んでいく。
空をふと見上げる。鳥の姿は勿論なく、黄色な空と砂嵐、早送りでもするように雲が疾駆している。まるで永遠の地獄だなと思う。死を自覚できなかった頃はパニックだった。体は軽くなったと思ったが、周囲は死の景色でいっぱいだった。死んだ星と、死んだ人間の魂。廃墟と化した都市で走り回る魂、空を見上げ罵る魂、泣きじゃくり蹲る魂。老若男女、様々な魂の、様々な凄まじい姿。
『地獄と言えばこの世こそが地獄…。』
ダンテは過去の情景に没入していった。生きている時はこれ以上の辛いことはないと思っていた。この世は地獄だと。死んだら無になり、辛いことは終わるとも思った。だが、地獄は熾烈さを増して目の前に現れた。
『地獄と言えばこの世こそが地獄…。』
追憶と今の光景が溶け合い、区別できないような感じになる。
『あー、あー、マイクテスト、マイクテスト。』
思惟に沈んでいたが、光のような声に揺さぶり起された。頭の中で光線が破裂するようだ。
『ダンテよ、私の存在を忘れてもらっては困るよ。』
『う、うるさい。なんだよ、マイクテストって!』
『テレパシーのマイクテストさ。肉体が無いというのは便利なことも多いものさ。』
『物思いに耽ることくらい、勝手にさせて下さい!』
『ところが、そうもいかない。私達は旅の道連れだ。いわば一時的であっても運命共同体というやつだ。さっきの誓いは忘れたのかい?』
『誓いというほどのものではないよ。』
『ふふ。けれど、いつまでもその暗い調子では困るのだ。私達はこの死の地球、死の星を巡る。これは気持ちの良いものではない。暗くても当然であるかもしれない。だがこれだけは言える。滅びの意味を知らなければならない。目を開き、耳をそばだて。滅びの意味を知り、滅びの輪廻に終止符を打つのだ。この星は滅びてもいいものでは決してなかった。だからこそこの星の滅びには価値があるのだ。多くの魂たちが見た。あなたもまた見聞きしてあの世への土産としなくては、滅びの時代に生まれた価値もないというものだ。』
『ポジティブなんだか、ネガティブなんだか…。』
『少なくとも、何十年も同じ想いに囚われて滅びの星に留まるというのは愚の骨頂ではないかい?駄々っ子のダンテよ。ダンテのダは駄々っ子のダ。』
『むかっ。ダンテってあんたが勝手に呼んでるだけでしょーっ!分かったよ!悩んでいるのがアホ臭くなるわ!悔しいけど埒が明かないってのは本当みたいだし。けれど、幸福の王子様なんでしょ、あなたは。いくら幸福の王子といっても、その親切心がわからないな。』
『他人の幸福こそが私の幸福…。と心から思いもしますが、ここだけの話、ポイントが頂けるのです。』
『やっぱり!』
『もう少しでサマーランド旅行券と引き換えできるのです。私に協力して頂けませんか?』王子は美しい瞳をうるうるさせてダンテを見つめ哀願した。
『サマーランドって?』じっとりとダンテも見つめ返す。
『て・ん・ご・く(はあと)』
『もうっ!冗談なのか本当なのか!いいよ!早いとこ行くよ!遠いし!』
『ありがとう!沢山ポイントを貰えたら、ダンテもサマーランドに行きましょう。サマーランド旅行券は二名様までご案内して頂けるのです。』
『先ずはこの星でしょっ。サマーランドなんか知らない。』
『二名様ご案内!!行きますよ、ダンテ!』
いつの間にか、追憶から引っぺがされた。重い追憶に生きていたダンテの心はもう沈んではいなかったが、突如出現したポイントと謎の旅行券に困惑しているのも事実であった。
『サマーランド旅行券か…。』
『サマーランド旅行券です!』
今までも輝いて見えた王子のオーラが一層キラキラと輝いて見える。嬉しいんだろうな、しょうがねえな、と思った。

ダンテは生前、詩を作るのが好きだった。「ダンテ」と呼ばれることも満更でもなかった。彼は詩を愛していて「詩は病める者の慰み」だと言われてもそれには反感を持った。そのくせ彼の詩は「慰み」以上ではなく、詩人の高みにもないと自覚していた。彼は宮沢賢治を偏愛したが、賢治のような実践者にもなれないと思った。とどのつまり、詩に関しては中途半端なまま死を迎えた。そして死んでみると肉体の制限がなく、感覚も生きていた時よりは遥かに自在で、幾らでも自由に詩も紡ぐことができると思ったが、言語というものが最早制限を持たないことに直ぐに気づいた。詩は制限の内の芸術であったが、制限のない感覚で紡ぐ言葉は全てが芸術であり詩であった。だが同時に、生きている間に育んだものが種となり、それらが拡大していくのが死後の世界であると気づきもした。富める者は更に富み、貧しきものは更に奪われる。だが、その貧富の尺度も生死を境に反転するようだ。そして、詩においても可能性の拡大は言えるようだと思った。言葉を制限の中で扱えたものは無制限の中ではより自在になる。彼は、自分の才能では満足する詩は死んでからも作れまいと思った。
『偉人は古典的な文学を更に飛躍させただろう。だがこの僕はどうだ、お遊び程度のもので終わってしまった。努力も修練もしなかった。思い返せば、自分の限界を知るのが怖かったのだなあ。限界を知って、ぶっ倒れてしまった方がまだましだったかもしれない。よもや、悲しみを知らないのが悲しみになるとは!死んでから分かることはたまげることばかりだ。』
それは実際その通りで、死んでから知ることは仰天に次ぐ仰天で、もう驚くことはあるまいと思っても更に驚く羽目になるのだった。
『ダンテよ、俗に反省はしても後悔はするな、というではありませんか。しかし、死後悔いる魂はそれはそれは多いものです。政治家、宗教家、経済人はいうに及ばず、市井の物質にしか価値を置かなかった人達も例外なく悔やみます。しかしね、実のところ、君の悔やみは悔やみとはいえる程ではない。どれ、一つ君の詩をアカシックレコードから取り出して見分してみましょう。』
『恥ずかしいからやめて!』
『まあ、いいからいいから。』
『止めろー!止めてくれー。』
『ふふふ、そんなに照れずとも良いのに。どれ、君の記憶から取り出してみる詩は決して悪くないよ。宮沢賢治やら偉人の詩と比べるから悪いのだ。』
『止めろよぅー。』
王子は懇願を無視して朗々と詩を読みだした。

台所の歌

終末のごと、悲惨なニュースは飛び交い
光の嬰児は闇の中に生まれ、心を病んで死んだ
死をも羨む生がやがて来る(来た)
死をも羨む時代が来る、すぐにでも(来てしまった)
病んだ時代の、病んだ心で
我等は汚辱をネットを媒介として撒き散らす
我等は永遠に汚れを繰り返すのか
深夜の台所で鳴る音楽は美しい
しかし世界は悲嘆に暮れている
嗟嘆は闇の如く奥行きは果てしない
とことわに汚れを繰り返すのか
悲しみを思う
この世界の果てしない悲しみを思おう
されど刹那、思い巡らす
我等は永遠に、永遠に清め生きる
とことわに清め生きるのだと
喜びを思う
この濁世での限りない喜びを思おう
それらは、黄泉比良坂の二柱の神の互いのうけい
汚れも清めも、我等の自由意志の発露なのである
とことわに汚れ、とことわに清める
汚れの果てに世界が終わるなら
清めの果てに終わる世界もあろう
汚辱の世界に生まれた我等、容易く汚辱に塗れてしまった
羞恥であり、羞恥であり、羞恥である
悟りは得難く、教えは会い難い
光よ、一片の志に宿る神話のごとき光よ
さながら偉人の趣で我等はゆく
さながら神のごときかんばせで
汚れ、汚れ、汚れた世界を
清め、清め、清めゆかん
とことわの汚れ、とことわに清め
汚辱も、清浄も、我等なのである
限りない闇、果てしない闇の中
生まれた一つの光
痛むくらいに美しい光を
果てない闇へと掲げる
光と闇の舞台に、限りない美への憧憬を爆ぜ
深夜の台所、洗い物が終わった時
思索も終わる

『ダンテ、ダンテ!犬がいるよー。』
『犬なんている訳ないでしょっ!』
『まだ怒ってる…。けど本当に犬がいるよ。』
ダンテは自作の詩を朗読されて立腹して黙っていたが、犬なんて言われて返事をしてしまった。しまったと思ったが後の祭りであった。
『あの犬、ダンテのこと知ってると思うよ。ほら、しっぽ振ってるもの。』
世界の終わりに犬なんているものかと思ったが、自然と視界に犬が入った。よく見ると、確かにしっぽを振っている。ポッと記憶の火が灯り、懐かしさが込み上げてきた。飼っていた犬だった。
『ラッキー!お前、なんでここにいるの?お前もまだ成仏出来てないの?』
『泣けるね、ご主人様を残してあの世に行けないと思ったんだね。』
『ラッキー、遠いけどお前も富士山まで一緒に行く?お前は変な王子と違って、僕を侮辱しないもんな。』撫でながらダンテは話しかけた。
『いいえ、私はここであの世に逝きます。』
『王子!ラッキーが喋った!』
『テレパシー、テレパシー。』
『ひょえー。語尾がワンとかじゃないんだ…。』
『ご主人様が少しずつ死を受け入れてくれたから、やっと挨拶できました。王子様、ありがとうございます。』
『うんうん、飼い主と違って呑み込みが早いねー。いい子いい子。』
王子も犬をなでなでする。
『ラッキーまでそんなこと言って!』
『ホントのことだからって、怒らないのー。』
『バカ王子!』
二人のやり取りをしっぽを振りながら嬉しそうにラッキーは見ていた。
『四十九日なんてもうとっくに過ぎてるのに、凄い忠犬だね。』王子はしゃがんで犬に話しかけた。
『いいえ、とても良い主人なのです。』
『お、ラッキー、嬉しいこと言ってくれるね!』
『追いかけっこして遊んでくれたのが良い思い出です。』
『ラッキー、おいで!』
ダンテは嬉しくて犬とじゃれあった。一緒になって走り回った。終末の瓦礫の中、それはとても睦まじい光景であると王子は密かに思った。
しばらくダンテとラッキーは遊んだが、あっという間の時間であった。そして犬は時々振り返り振り返りしながら、光の中を昇って行った。
『ラッキー、行っちゃった…。』
『出来た犬でしたね…。』
呆然としていたダンテだったが、ふと気づいたことがあった。
『王子、富士山行かなくてもあの世には行けるの?』
『それは当然です。あの世は物質ではなく、魂の世界、精神の世界ですからね。』
『えー!じゃ、富士山まで歩かなくてもいいじゃん!』
『それはそれ、これはこれ。ダンテには歩くのが最適と思いましたのでね。けれど、ラッキーのお陰で大分魂の目が開いてきましたね。ふふ、私と同じような名前ですし良い犬です。』
『幸福と幸運は違うよ。』
ダンテを無視して王子は続けた。
『富士山に登ったことはあるのでしょう?麓の神社はお参りしましたか?』
『むー。してないよ…。けど、傍は通った。』
『よろし。ではその傍に。目をつぶってお社をイメージして御覧なさい。』
ダンテは言う通りにした。王子の言う通り、魂の目が開けて色々なものが分かってきたような気がしたので、素直になるより外なかった。
そして気が付くと、イメージした神社の前に二人はいた。
『うわ、なんなんだこれは…。』
『便利でしょう?ふふ。』
『うう、歩いたのは何だったんだろう…。』
『私は一緒に歩けて楽しかったですよ。』
『そういう問題じゃなーい!』
『しかし、重大なことがあります。』
『な、何さ!』
『あなたが見ているこの長い長い夢は、予知夢であるということです。』
『???』
『大丈夫、未来は選べます。この同じ地点に、戻らないように。この夢は予知夢ではありますが、忠告でもあります。』
『あ、あの世は?』
『さあ、あなたの今へとお帰りなさい。いいですか、一人一人が救世主で、一人一人が地球の未来に責任があるということを覚えておいでなさい。あなたたちの未来を救うのです。同じところに戻らないように。』

「リアルな夢…。」
僕は泣きながら目が覚めた。こんな愛があるのかという涙であった。長い、長い夢。悪夢であり、楽しい夢のようでもあり。そう、僕らは未来を救わなければならない。しばらく瞑目し、目をそっと開く。『未来は変えられるのです。』そう言われている気がした。

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