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小林秀雄の「本居宣長」

(某密林に書いたブックレビュー)

現代では難解だとか衒学的だとか言われる小林秀雄の著作だが、氏の本ほど難解や衒学から離れたものはない。難しい表現はある、確かに。だがそれは現代にありがちな難解のための難解な表現ではない。難しくとも正確な表現であれば、素直に読めばスンと心に入る。難解だから分かりやすく書けと言われても、数学で例えれば小学校の知識で因数分解やら微分積分やらを説明しろと言われるようなもので、必然的にxやインテグラルは必要なのである。素直に読む、とは詩心と言い換えても良いように思う。氏の評論に傍若無人な、尊大なものを読み取る人は詩心がないのであろう。要するに、傍若無人な自身をそこに見ているだけである。この本のブックレビューで恐るべき無知を見た。真贋の判別が出来ない自分を棚に上げ、真それ自体が分かりにくいためであると糾弾しているのは、真味が分からない現代のインスタント食品になれた舌と同じである。そういう舌にはジャンクフードが相応しい。分かりやすく、強烈で、しかし栄養と中身は空っぽな。

美しいものを汚されたように思い、悪罵から始めた文章である。気を悪くされた方がいたら謝りたい。だが、私の意図するものは悪罵以上の、讃頌であり賛美なのだ。天才は必然的に誤解される。特に精神の高い所の天才はそうである。それは彼我の余りの違いにあり、真摯な精神が凡庸な精神に見せる矛盾にある。矛盾しない天才などあり得ないのだが、ただのミスと真実が見せる奥深さは一見判別し難いものだ。産湯と共に赤子を流すなという諺がある。高い精神は光と影の微妙なあわいを見分け、低い精神は明白な、分かりやすい善悪しか感知しない。低い精神では穢れの中の大切なものが分からない。赤子を流してしまうのだ。

「本居宣長」が小林氏の最高傑作と言われる所以は、その長さだけでは決してない。その密度、正確さ、高みを見た精神が高みに至ろうと努力する煩悶の過程。それらが美しい文章に結実されるからに他ならない。一見、この本は難物に見える。だが、素直な精神で繙けば、豊饒な精神が溢れる泉のごとく展開される。乱暴に言えば、それを理解するのに知識は要らない。寧ろ邪魔である。素直な心、真っすぐな柔らかい心で読むだけでいい。分からないところがあるのは当然で、全部が全部を理解しようとするのは傲慢であるとすら思う(そんなのは無理だから)。それらは枝葉の理解に過ぎない。美しいものを、美しいと言える心。それを努力する精神を見ることが出来たのが、私にとってのこの本の読書体験であった。賢しらな心なんて要らないのだ。

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